SS5 ステイツへの一時帰国(2日目:観光)

『あらすじ』

魔法狩りが暴走

ステイツへ一時帰国

会長が同行

 ***


 俺は選んだ料理の載ったトレイを、空いているテーブルに置く。

 朝のビュッフェ。

 ステイツでの滞在拠点のホリdayホテルのレストラン。


 中央にどっしりと構えるのは、分厚いひき肉を挟んだハンバーガー。

 そして目玉焼き、厚切りのベーコン、フライドポテト、山盛りのサラダ、シリアルの入ったヨーグルト、そしてカットされた果物。

 朝食をがっつりと食べるのは、この国では珍しくない。

 不摂生な国民が増加傾向の先進国では、油を邪険にするやからもいるが、脂質だって大切なエネルギー源。


 さっそくフライドポテトから口に入れるが、久しぶりのステイツの食事は記憶のものよりもかなり大味。

 ステイツの食文化も嫌いではないが、そういえば仕事がない期間は自炊している割合の方が多かった。

 こちらでの生活は大分長かったので、馴染んでいたつもりだったが、今にして思うと東高の寮で提供されていた和食の方が好みだと断言できる。


「後輩君、選ぶのが早いわ」


 後からやって来た会長が対面へと座る。

 目の前に並べられた彼女が取って来た料理の数々は俺の倍に近い量。

 会長はニホンの同年代の女性に比べて多く食べる方だが、さすがに大食いと評するほどではない。

 それだけに朝からこの量を食べるのは予想外。


「会長こそ、こんなにたくさん食べられるのですか」


 足りなければ後から追加できるビュッフェ形式なのだから、無理に最初からたくさん盛る必要はないものを。

 ちなみにニホンのホテルでのビュッフェは定額制が多いが、世界標準では選んだ料理それぞれに値段が付いている。

 このホテルの場合、支払いは最終日のチェックアウトのとき。


「大丈夫よ。私っていくら食べても太らない体質だし」


 そんな人間はいない。

 普段から馬鹿騒ぎしているので、単純に人一倍カロリーを消費しているのだろう。


「あっ、でもまた最近大きくなって、困っているのよ」


 そう口にした彼女は腕を中央に寄せ、少し前屈みになることで自身の胸部を強調する。

 自然と俺の視線が吸い込まれていく。


「……後輩君の、ムッツリ」


 これは男のさがであって、俺に下心はない。

 否定したところで、駆け引きで彼女に勝てないことは分かっている。

 俺がどんな言葉を口にしたところで、彼女を喜ばせるだけ。

 会長だって、この場で優位を得る自信があるからこそ挑発してきているのだ。


 無視することは簡単だが、負けがほぼ確定している試合に挑むのも俺の役割。

 しかしたまには、一矢いっしを報いたい。

 必要なのは、相手の懐に飛び込むような、意表を突く会心の一手。


「そうですか。今晩にでもどのくらい脂肪が増えたのか触診で確かめさせてくださいね」

「えぇ! あ、わ、あわわ。しょ、しょくしーん?!」


 表情を一気に真っ赤にした会長は、処理能力を超えようとして短絡ショートした。

 どうやら俺の特攻に近い無謀な反撃は、彼女の想定を上回ることができたようだ。

 珍しく勝てた。


 旅先でなければ、使えないカウンターだった。

 会長が驚きの声を上げてしまったので、ちらほらと周囲の視線が集まっている。

 俺達が話している言語がニホン語だったおかげで、余所には通じなくて助かった。

 傍目はためには、仲の良い東洋人の男女に見えているのだろう。


 いつもやりたい放題の会長様だが、自身が受けに回ることにはあまり慣れていない。

 そもそも絶対強者になってからの彼女に、苦言をていする人物は限られている。

 しかし暴君に待ちうける結末が反逆による陥落なのは、いつの時代でも同じ。


 俺は動かなくなった敗者を尻目に、朝食を再開する。


 しかし戦いはまだ終わっていなかった。

 しばらくしてから再起動した会長が、俺の手首を掴んできた。


「そ、そこまで言うなら、食べる前も確認しなきゃね。ほ、ほら直接、さ、さわ、触ってもいいのよ」


 クロスレンジへと飛び込んだ俺に対して、会長も退かずに応戦を選んだ。

 俺の手は拒んでいるが、手首を掴む会長の馬鹿力によってじりじりと引っ張られている。


 これ以上先は、たとえ彼女が許しても、周囲の目が許さない。

 部屋でじゃれ合っている場面とは勝手が違う。

 やはり俺では彼女に敵わないのか。

 いや、違う。


 会長の眼の焦点はまともに合っていないし、俺の自由を制限している彼女の手は、必要以上の余計な力が加わり、ぷるぷると震えている。

 彼女だってかなり無理をしており、いっぱいいっぱいなはず。


 コップの中の水はすでに限界。

 後一歩踏み込めば、勝負は決する。

 完全勝利は目前。

 必要なのは覚悟だけ。


 会長が白旗を振れば俺の勝ちだし、彼女が意地を張っても俺はパイタッチをするだけで、失うものなど紳士としての薄い外面だけ。

 後一歩で勝てそうな場面でこそ、勇気を振り絞らなければならない。


「……会長、ごめんなさい。もう勘弁してください」


 負けを認める勇気。

 これこそが絶体絶命のピンチを乗り越える最善手Best


「ふっふーん。後輩君の分際で、この私に勝てるとでも思ったの? さぁ、お姉さんをあがめなさい」


 勝者になった会長は腕を組んで喜んでいる。


 一体全体、俺達は朝から何をしているのだろうか。

 彼女の機嫌が良くなるならば、俺の黒星が1つ増えることなどちっぽけなもの。


 これでようやく朝食へと手を付けられる。

 朝から飛ばし過ぎた俺達は、黙々と栄養を補充する。


 さて、寝起きの悪い彼女が、朝食の時間に間に合ったのは、俺が奮闘して起こしたからではない。

 単純に時差が残っているだけ。

 まだ早朝なのだが、俺達からしてみたらブランチくらいの感覚。


 ニホンから半日かけてニューヨークへとやって来た俺達だが、ホテルに着いた日は夕食以外で出掛けることはなかった。

 昨晩、部屋での膝枕の対価として俺が支払うことになったディナーは、前菜からデザートまでのフルコース。


 コース料理と言っても、所作を求める高級なレストランではない。

 多民族が混ざったこの街の食文化を楽しめる地元民向けの賑やかな店を選んだ。

 海の幸をメインに注文したが、ニホンの生魚とは違い、甲殻類や貝がふんだんに使われていた。

 ロブスターや牡蠣かき、クラムチャウダーやマカロニチーズを堪能させてもらった。

 コースだけでは足りず、トルティーヤなんかも追加で注文したし、デザートにはガッツリとアップルパイで締めた。

 アルコール類をたしなんでいた訳でもないのに、料理を楽しむ会長は店の中の誰よりもテンションが高かった。

 俺も美味しそうに食べる彼女に釣られ、いつもより多く食べてしまった。


 ホテルに帰ってからはどっと睡魔に襲われ、俺達は2人共シャワーも浴びずに眠ってしまった。

 滞在中に汚れたシーツは毎日交換してもらえるので、東高の寮と違ってベッドを汚してしまった罪悪感はあまりない。

 しわになってしまったワイシャツは、早々にホテルのランドリーサービスに預けた。


 これからの行動についてだが、上司のフレイさん、研究畑のクレアさんと会うのは明日以降になりそうだ。

 俺がテトラドの会から奪取した研究データのせいで、2人共忙しくしている。

 さらに九重紫苑が勝手に付いて来てしまった緊急事態への対応にも追われているようだ。

 こちらとしては滞在期間が1週間あるので、彼女らの都合に合わせるつもり。


 公務としての、本日の予定は完全にオフ。

 俺1人ならばホテルで休むか、トレーニングに励む。

 ステイツに住んでいた4年間で長期休暇の際は、語学の勉強やローズかあさんの手掛かりの調査に費やしていた。

 なんなら最近滞っていた由樹に勧められたスマホゲームの攻略を再開するという選択肢もある。


 しかし会長の要望を無視することはできない。

 観光のエスコート。

 まぁ、彼女と出掛けることは、1人でいるよりも気分が上がることは否定できないので、素直に従うつもり。


 ***


 朝食を終えた俺達は1度部屋に戻り、出掛ける支度を整え始めた。


 本日の服装は、昨日のような外交官ルートで飛行機に乗ったフォーマルではなく、ラフな格好を選ぶ。

 青のジーンズに、暖色系のシャツ。

 靴だけはそのまま黒の革。

 ポーチの中身は財布とスマホそして旅券。

 精霊殺しの短剣はズボンの内側に入れて、ベルトで止めておく。


「後輩君待ってよ。女性のお化粧の時間くらい気遣いなさい」


 ついつい自分のペースで準備を終えてしまった。

 旅先での行動には慣れているので、他人よりも手早く済ませられる。


 一方、会長様は化粧品などの身嗜みだしなみを整える道具だけでなく、衣類も含めて荷物の整理がぜんぜんできておらず、ぐちゃぐちゃ。

 それでなくても女性の支度は、なにかと時間の掛かるもの。

 だけどフォローは、しっかりしておかなければならない。


「化粧なんてしなくても、会長はお綺麗ですよ」

「とびっきりの美人だなんて。まったく後輩君ったら、お世辞が上手いんだから。てへへぇ……って言うとでも思ったの! 化粧は淑女の嗜みなのよ! 特にスキンケアは十代からしなきゃいけないの」


 怒った口調の彼女だが、その声色はとても明るい。

 どうやら俺の薄っぺらなお世辞は、先読みされていたようだ。

 化粧台の上には様々な化粧道具が広げられているが、その扱いはかなり大雑把。


 ちなみに俺も変装のために、化粧をした経験が何度もある。

 口紅、ファンデーション、マスカラくらいなら自分でも扱える。

 さらに仕事で特殊なメイクが必要な変身の度に、専門家の指導を受けている。

 任務の内容によっては女装をすることもあるが、これ以上歳を重ねると、骨格的に無理が出てしまう。

 とりあえず今の会長よりも凝った仕上げにできる自信がある。


 そういえば初めて化粧を教わったのはローズかあさんからだった。

 彼女は魔力を必要としない変身魔法として、俺に化粧の手ほどきをした。

 古来より化粧には他者をあざむく力と、自己暗示としての効果があるとされている。

 当時教わったのは、昔ながらのやり方で大分偏っていたので、現代風はエージェントになってから改めて学び直すことになった。


 ***


「お待たせ」


 ようやく会長の準備ができた。


 それはホテルのロビーに併設されたカフェで、2杯目のコーヒーを飲み干した頃だった。

 女性の準備が長いことは覚悟していたが、30分も待たされるとは思いもしなかった。


 会長の私服は何度も見ているはずだが、本日のは初めて見る装い。

 半袖にミドルスカートの白色のワンピース。

 その生地は染料を使っていない無地だが、リボンで作られた花柄の装飾がいくつも施されている。

 ニホンでこのような格好をしていたら、目を引きそうだが、人種の多いこの国ならばさほど目立たない。


 作業中は大雑把に見えていた化粧だったが、彼女の美しさを引き立たせるナチュラルメイク。

 黒いまつ毛は2割ほどボリュームが増しており、瞳をより大きく見せている。

 そして唇には桜色のリップが塗られており、下手な紅よりも彼女に似合っている。

 おそらく何度も試行錯誤したのだろう。


 長い黒髪はしっかりとかされており、一切絡まっていない綺麗なストレート。

 首元には唯一のアクセサリー。

 見覚えのあるネックレスの先には、ローズが俺に手紙と共に残した指輪が繋がっている。


 そして姿勢のブレない姿が、シンプルな服装と相まって、とても上品に見える。

 普段から力任せな戦い方で、武芸はほぼ初心者の彼女だが、基礎はしっかりとできている。


 いつも元気いっぱいで活発な彼女だが、装飾品の少ない清楚系のコーディネートを好む。

 本来であれば、イメージと合わない衣装はあまり勧められない。

 だけどこのギャップに俺は何度もやられているので、あまり口にできない。

 ただしそれは俺だけ。


 以前、蓮司達クラスメイトにこの感想を話したことがあるのだが、みんなは真逆の意見だった。

 あまり飾らない会長の服装は、得体の知れない不気味さを演出しており、彼女への畏敬いけいを増大させているそうだ。

 俺の考えに同意してくれたのは、入学前から会長と親交のあった胡桃くるみくらいなものだ。


「感想は?」

「いつも素敵ですが、今日は格段にお綺麗ですよ」


 この辺りの返答は慣れているので、10割増しで褒めちぎる。

 当然のことながら、待たされたことを口にするなど言語道断。

 会長に付き合うと、感想ひとつでも命懸け。


「後輩君にしては及第点ね」


 じゃあどんな褒め言葉を選べば正解なのやら。

 詩や歌でも口ずさめば良いのだろうか。

 とりあえずは合格のようなので一安心だな。


 ホテルを出た俺達は、事前に呼んでおいたタクシーへと乗り込む。

 ニューヨーク市内を多く走っている珍しくないデザインの車だが、普通のタクシーをこんなに長く待たせたら、文句のひとつでも言われる。


 会長は特に気にしていないようだが、もちろんフレイさんが手配してくれた車。

 既製品の制服を着こなしているドライバーの男は、俺と同じ裏側の人間で、彼女の部下。

 魔法使いではなくバックアップ要員だが、フレイさんが信頼している人物。

 俺とも顔見知り同士だが、あくまでも他人を演出するために、挨拶は控えた。


 会長の唐突なステイツ訪問で、昨日の空港には間に合わなかったが、残りの期間は運転手を確保してある。

 そもそも彼女の転移魔法を使えば、交通機関を無視して、車なんかよりも早く移動できる。


『今回は後輩君が全てエスコートしてくれるのでしょ』


 という訳で、この旅行で転移は禁止だそうだ。

 まぁ、俺としても旅の風情を損なうので、彼女の言葉に同意はしていなくとも、異論も口にしない。


 できることなら、レンタカーでも借りて移動したいところだが、今回はそうもいかない。

 一応、俺はステイツでの運転免許証を持っている。

 乗車の練習は軍の演習場で何度もしたし、任務で運転したこともある。


 私的な移動でも車を使いたくて、試しにフレイさんにお願いしてみたら、なんと認められた。

 裏で用立てて貰ったライセンスは、しっかりと俺の名前と顔写真が入っている。


 しかし生年月日だけは詐称してある。

 俺は自身の本当の誕生日を知らないが、とりあえず組織のプロフィールでは15歳ということになっている。

 この国では16から運転できるので、後1年辛抱すれば、正規の手続きで免許を得られる。


 この辺の事情は、会長に知られると説明するのがめんどうくさい。

 残念ながら今回は運転を諦めるしかなさそうだ。

 そもそも緊急時の戦闘要員である俺が、護衛任務中にハンドルを握る行為は好ましくない。


 早ければ明日には魔法式の検査を受けるのであまり遠出はできない。

 午前中の目的地は決めてあるが、最短経路では向かわない。

 セントラルパーク周辺の道路をぐるりと車で回ってもらう。

 出発の準備に時間を要したが、まだ午前7時。


 昨日も空港からのタクシーで外の景色を見て騒いでいた会長様だが、それは序の口だった。

 空の旅での疲れのあった前回と違い、本日の彼女は体力満タン。

 矢継ぎ早に『これは何? あれは何?』とあちこちを指差すので、俺はそれに答えるのに必死な状況。

 俺はガイドと言うよりも、ほとんどスマホ代わりというか、G〇〇gleやウィkipedia状態だ。

 一応丁寧に対応するのだが、移り気の激しい彼女は『へぇ、そうなんだ』だけで興味の対象が次々と変わっていった。

 一体これはエスコートになっているのだろうか。


 ローズと共に世界を旅していた頃は、あらゆる物事の知識を叩きこまれた。

 その甲斐かいもあって、エージェントになってからも荒事ばかりだが、暇さえあれば知識を更新することが習慣になっている。


 ちなみに彼女が指したビル群の中に、この国の諜報機関が保有する物件があり、つい口を滑らしそうになってしまった。


 あっさりと済ませた中心街の案内だが、五番街にはショッピングでまた来るかもしれない。

 忍耐に自信があるならば、女性の機嫌を取るのに買い物はとても有効の手段だとメモしてある。


 タイムズスクエアを超えて南へと進み、少し遠回りだがブルックリンブリッジで途中下車をした。


 ステイツ国内の古い吊橋。

 ゴシック風に仕上げられた橋は、歩道と車道が上下に分かれている。


 橋の上は比較的いており、ランニングしている人物や、スーツ姿で自転車に乗っている人が流れている。

 俺もトレーニングとして何度も走ったことがある。

 平日の朝ということもあって、観光客は俺達くらいなものだ。

 この時間帯なら、足を止めて景色を楽しんでもあまり通行の邪魔にならない。


 観光目的ならば夜景を勧める人が多いが、朝の吊橋も風情があるもの。

 湿度の高いニホンの夏と違い、青空の下に軽やかな風が走っている。

 眼前に広がるマンハッタンは時間の流れと共に徐々に人と車両が増していく。

 まさに大都市の目覚め。


 最初は橋の上で騒いでいた会長も、眺めに釘付けになっている。

 自然による絶景も悪くないが、都市の景色には人々の営みが凝縮されている。

 チキュウの歴史に比べると、短いけど太い文明の発展を感じられる。


 帰り間際に、会長が俺に訊ねた。


「ところでここって何て名前の橋?」


 知らずについて来ていたのか。

 たしかに俺も眺めを楽しんでもらうために、余計な解説は省いてしまっていた。


「もしかしてロンドン橋?」


 ロンドン橋があるのは、もちろんブリテンのロンドンだな。


 会長はどのような勘違いをしているのだろうか。

 聡明なはずの彼女は稀にお馬鹿な発言をする。

 本心なのか、それとも計算くなのか、未だに分からない。


 ブルックリンブリッジを後にした俺達は再びタクシーに乗り、マンハッタン島の最南端へと向かう。


 ニューヨーク市内の公園といえばセントラルパークが有名だが、バッテリーパークも広く知られている。

 元々は都市防衛の重要基地だったが、今ではすっかり観光名所になっている。

 当時の名残として砂岩で作られた砦、キャッスルガーデンは今でも健在。

 後から作られた劇場や水族館なども並んでいるが、最も特筆すべきはハドソン川を下った先にある。


 公園に車で乗り上げる訳にはいかないので、途中からは自分達の足で進む。

 何度か来たことがあるので、俺が先導しようとしたが、すぐに会長は隣を求めてきた。


「せっかくのデートなんだからね」


 そう口にした彼女は俺の腕を掴んできた。

 気を使ってからなのか、無意識なのか、包帯のない左側。

 他人に触れられるのを好ましく思わない俺だが、彼女ならば嫌じゃない。


 ステイツにいるのか、ニホンにいるのかの違いだけで、会長が天真爛漫てんしんらんまんなことはいつもと変わらない。

 正直なところ、デートなのかは同意しかねるが、腕に引っ付く彼女を拒む理由もない。

 それにこの程度のスキンシップは、別に健全な方だろう。


 いざ歩き出すと、2人の歩幅は不思議と合って、足取りはとても軽い。

 春先に出会った頃はもっとぎこちなくて、こんな関係ではなかった。

 2人の距離が縮まるのに、これといったきっかけの心当たりはない。

 東高での生活の日々の中で、徐々に互いの心地良いテンポが重なってきた気がする。

 俺が彼女の横暴に慣れてきたこともあるし、彼女もどこまでの無茶ならば、俺が受け入れるか分かってきている。


 会長と2人で腕を組んだまま、最南端の公園を抜けて、マンハッタン島の南端みなみはしに辿り着く。

 ギリギリまで木々で視界を遮られていたが、いよいよリバティ島が見えてくる。


「うわぁ! 自由の女神ちゃんだぁ」


 30メートルを超える最も有名な銅像に“ちゃん”を付けたのは、尊大な会長様が世界で初めてじゃないだろうか。


 まだ大分距離があるので、その造形ぞうけいの細部はまでは楽しめない。

 ここから船に乗ることで、より近づくことができる


「会長。フェリーで周りを回るのと、上陸して像の中に入るのとどちらがいいですか?」

「え、中に入れるの!? もちろん突入よ!」


 一時期はテロ対策で閉鎖されていたが、像の頭部には展望台がある。

 個人的には自由の女神は外側から楽しめば十分なので、フェリーで一周の方がお勧めだったのだが、会長様が中に入る方に傾いているので、無理に反対はしない。

 もともと彼女は、上陸する方が好みだと予想して準備をしていたので問題ない。


 会長と一緒なら、どこで過ごしても飽きはしないだろう。


 リバティ島行きのフェリーに乗るには、事前に身元の確認や持ち物検査がある。

 ボディチェックまでやる厳重な対応をしており、観光客の列が途切れないのが平常運転。


 時差ぼけのせいで大分早く出発したおかげもあって、混雑のピークはもう少し後になりそうだが、それでも人混みができ始めている。


 事前にフレイさんに相談して、身元を保証する証明書を2人分発行しておいてもらって助かった。

 スムーズに観光を楽しむためではなく、武装解除を避けるためという名目で用意した。

 あからさまな横入りはできないが、多少の便宜を図ってもらえた。


 フェリーに乗るまで、特に波乱はなかったし、ニホン語で話す俺達に好奇の目を向ける人物はいても、さすがに声を掛けられることはなかった。

 30―40分ほど待たされたが、会長は意外と大人しく、列を乱すような迷惑行為もなかった。


 普段は短期な彼女だが、この国の全てが新鮮で物珍しいようで、風景を眺めるだけでも楽しんでいた。

 待ち時間の大半は他愛のない話ばかりしていた。

 会長が最近読んだ小説を強く勧めてきたのだが、紹介の際中にかなり終盤のネタバレらしきものがあって、読む気を失ってしまった。


 他にも待っている間に、会長からニホン式のしりとりWord chainを提案された。

 最初の練習で全て現在進行形ingけいで返したら、キレられた。

 ひらがなオンリーや、3文字縛りとか、食べ物限定、10秒回答以内など、会長様がどんどんルールを変えて難易度を上げたが、俺が全勝したら、やはりキレられた。

 最後にわざと負けたら、それもそれでキレられた。

 そして俺達の間で、しりとりは封印されることになった。


 会長のことを頭の回転が早いと評価していたのだが、ただ脈絡もなく言葉を探すのは意外と苦手なようだ。


 待ち時間を終えてフェリーへの乗船が始まると、会長は真っ先に眺めの良い船首のポジションを確保した。


「後輩君、タイタニックごっこでもする?」


 恥ずかしいので止めて欲しい。

 船の上でそんなことをするカップルは少なくないが、ニューヨーク湾を渡る小さなフェリーではさすがにいない。

 そもそも縁起が悪いとは思わないのか。


 ちなみに俺は水中ミッションの訓練を受けているので泳ぎには自信があるが、さすがに水難事故が起これば、過信せずに会長の転移で逃げ出すことが最適解。


「会長は泳ぎの方は得意ですか?」

「……」


 何気なく口にした話題だったのだが、彼女の表情の雲行きが怪しくなり、明後日の方を向いてしまった。

 そしてまるで独り言のように淡々と語りだす。


「いるのよねぇ。無駄に泳げることを自慢してくる人って。人類は陸上生物なのだから水に入らなくていいのに……」


 つまり会長は泳げないと。

 たしかニホン語では、金槌かなづちというのだったかな。


 どんなに強力な魔法使いでも酸素の供給がなければ、平均で10分程度しか生きていられない。

 溺れた場合のタイムリミットはさらに短く、1分もあれば体が浮かなくなる。


 もし水に入って彼女がパニックになれば、転移をする余裕はないと考えておいた方が無難。

 他人を背負って泳ぐとなるとせいぜい50メートルが限界だが、魔力で身体機能を増強できれば各段に伸びる。


 出発前のフェリーだが、俺達の後から乗船して来る客のペースがなかなか止まらず、船の甲板はぎゅうぎゅう詰め。

 まるでナイトクラブのような混雑具合で、陽気な声が飛び交っている。

 会長も騒がしい方だが、異文化のパーティーピープルには馴染めないようで縮こまっている。

 俺は護衛として、不意に誰かが近づくのを防ぐため、甲板の端に立つ彼女をおおうような配置を取る。


 そんな俺の行動に対して、会長は何も言わずに頭を下げて視線を逸らした。

 公共の場で、この距離は初めてだったかもしれない。

 周囲の喧騒とは対照的に、彼女と俺の間では静けさが流れながら、船が出発した。


 リバティ島に近づくにつれ、目的としている自由の女神がはっきりと見えてくる。

 高さの半分を占める立派な台座の上には、時間経過による酸化反応によって緑色になった銅製の像が立っている。


 正式名称、世界を照らす自由Liberty Enlightening the World

 この自由と民主主義の象徴は、ステイツ100年目の独立記念日を祝って、フランセーズから贈呈されたもの。

 右手で掲げている松明トーチ色褪いろあせぬ炎は純金で表現されており、左手にある板には独立記念日が記されている。

 その頭部には世界を現した7つの突起の王冠があり、足元には引き千切られた鎖と足枷がある。


 15分ほどの乗船で、目的地に到達した。

 5万平方メートルほどの小さな島だが、人混みでごった返している。

 息が詰まりそうだが、観光とはそういうもの。


 一応エスコートしているのは俺なのだが、会長が先頭に出て歩き始める。

 彼女が楽しんでいるならば、それに越したことはない。


 観光客で溢れているリバティ島だが、像の台座周りの人口密度は一段階減る。

 理由はいたって簡単で、人数制限があるからだ。

 入場の際に、俺は2人分のチケットを係員へと見せている。


 像の近くまでたどり着いた会長様は、2回お辞儀をして、同じく2回手を叩いて、最後にお辞儀した。

 色々と違うな。


「何をお願いしたのですか?」


 他意はないが、どんな返答が来るのか試しに聞いてみた。


「私も自由になりたいわ」


 十分自由奔放だろ。


「さぁ、いよいよ女神ちゃんの中に入るわよ」


 台座周辺だけでなく、像の中にまで入ることのできるチケットは1日300人分もなく、本来ならば2か月以上前から予約が必要。

 もちろんフレイさんが裏から手配してくれたものだ。

 これでもし会長がお気に召さなければ、せっかくのプレミアムチケットが無駄になってしまうところだった。


 さて、自由の女神の内部は全長の半分にあたる台座部分はエレベーターで昇ることができる。

 その先は螺旋らせん状の階段を歩くことになる。

 1時間で約30人が通過する一方通行の仕様。


 内側からでも像の凹凸が見えるので、自分が今どの辺りを上っているのかある程度推測できる。

 頭部の王冠に近づくにつれて、階段は徐々に狭くなり、回転も急になっていく。

 そして女神の口や鼻、そして目といったパーツが見えてきてくる。

 いよいよ展望スペースになっている王冠。


 7つの大陸と7つの海全てに自由が広がることを表現している王冠の内部は、結構狭くて数人ずつしか入ることができない。

 今ではガラスが埋め込まれてあるが、かつてはただの空洞だった窓が並んでいる。

 人ひとりが顔を出すと埋まってしまいそうな大きさの窓だが、その先にはニューヨーク湾を挟んでマンハッタンのビル群がびっしりと並んでいる。


 摩天楼という言葉は決して言い過ぎではない。

 様々な国を歩んできた俺からしてみれば、コンクリートの世界などチキュウの一握りに過ぎない。


 ここからの眺めで特筆すべきは、遠くだけではない。

 近くへと目を向けると、女神の右腕にある黄金の炎。

 そして左腕の中ある銘板に記載された“JULY IV MDCCLXXVI”。


 絶景という意味では、もっと良い観光スポットはたくさんある。

 しかしここには人類発展の歴史の一端が刻まれている。

 実際に来たのは2回目だが、それでも悪くない。


 エスコート役の俺はあえて何も解説しなかったのだが、この光景を目にした会長は何を思うのだろうか。

 階段を上っている際中は少し飽き気味だった彼女は、展望台に入ってから真っ先に口にしたのが、


「王冠の中は狭くてまるで牢屋のようね。私達は自由の女神ちゃんに囚われているのよ」


 これを残念と捉えるべきか、斬新と捉えるべきか。

 その後は単純に見晴らしを楽しんでいた。


 この場所の素晴らしさを、どこまで理解しているのか分からないが、素直に喜んでいる彼女に対して、余計な説明など無粋というものだ。

 いずれ彼女がその歴史的意義を知ったとき、回顧の中で再び感動が生まれることを願う。


 楽しみ方は人それぞれとして、とりあえず展望台を楽しんだ俺達には下りの階段が待ち構えていた。


「後輩君、疲れたぁ。おんぶしてー」


 その場にしゃがんだ会長様は歩こうとしない。


 彼女がはしゃぎまわるので、あまり気にせず連れまわしてしまったが、移動と時差ぼけによる疲労はまだ完全には回復していなかったのかもしれない。

“絶対強者”として世界から注目されている会長様だが、魔力による強化がなければ、その身体機能は女子高生としての並み以下。


 俺は左腕を彼女の両足の下へ、右腕を背中へと回して抱きかかえる。


「ほら、会長も俺の首に腕を回してください」


 急な行動に驚いた彼女は俺に言われるがまま、ただ腕を掛けてこちらの胸元へと体重を預ける。

 移動に向いているのはおんぶの方だが、奇襲対策なら護衛対象を視野内における抱っこも有効。

 バランスを整えてから2本の脚で立ち上がる。


 その瞬間歓声が巻き起こる。

 中には指笛で、もてはやす観客もいる。


 単純に腕力で持ち上げているのではなく、身体全体の体幹を使って彼女を抱えている。

 普段から鍛えているからとはいえ、人ひとりを運ぶのはなかなかに骨が折れる。


 熱と共に、汗腺から汗が噴出しているが、あまり気にしている余裕はない。

 さすがに抱えてもらっている立場の会長も文句を口にしない。

 足元が見えなくても階段を降りるくらいは問題ないが、さすがに螺旋状に何度も回るのは余計な消耗を強いる。

 久しぶりのハードトレーニングだ。


 162段の階段を踏破したとき、再び歓声が巻き起こる。

 先に下りて行った客が知らせたのか、展望台での倍以上のギャラリーがいた。


 そんな熱気に当てられたのか会長がサービスをする。

 俺の頬に一瞬だけ柔らかいものが触れた。


 それを見て3回目の拍手が舞う。

 中には写真を撮るマナー違反な連中もいた。

 ここで撮影を拒否すると不自然なので、泳がせるしかない。


 本日の行動予定についていくつかの候補を事前にフレイさんに伝えてある。

 この島への人員の配備はさすがにないと思うが、リアルタイムでの防犯カメラの監視は増やしているに違いない。

 つまり今の状況は同僚達に観察されているのだろう。

 後から話題にされると思うと、少し憂鬱ゆううつだ。


 しかし予想以上の反響だった。

 この一件がSNSに上げられてしまい、バズっていることを知ったのはホテルへ戻った後だった。

 さらに熱々の若者観光客として、一部のニュースで15秒ほど取り上げられてしまった。

 情報が一瞬で拡散されてしまうこの時代に、さすがのフレイさんでももみ消すことができなかった。


 ホテルでネット生地を見ながら冷静になってみれば、普段の俺ならばやらない軽率な行動だった。

 ホームグラウンドをエスコートして舞い上がっていたのか。

 それとも昨日からの会長の誘惑で少し高ぶっていたのか。


 ***


 会長の疲れが発覚してから、1度ホテルに戻り、お昼過ぎまで休憩することにした。

 彼女はもっと観光したいと文句を口にしていたが、あまり無理をさせたくない。


 そこで動き回らなくても大丈夫な娯楽として、ブロードウェイ劇場を提案した。

 個人的には英語があまり得意ではない会長のために、ニホンでも馴染みのある“オペラ座の怪人”や“ライオンキング”を選びたかった。

 しかし事前チケットとなると、さすがのフレイさんでもピンポイントに準備できなかった。

 それでも人気演目の“シカゴ”を用立ててくれた。


 もちろん当日券なら劇場で購入できるが、確実に手に入る保証もなければ、立ち見席の可能性もある。

 何より“シカゴ”に興味があるか聞いてみたら、会長様はすぐに乗り気になって、スマートフォンでその概要の勉強をし始めた。

 その姿を見てしまうと、今更他の演目を勧めることは気が引けてしまう。


 劇場までの移動はもちろんフレイさんが手配したタクシー。

 ちなみにドライバーは午前中と変わっている。


 目的の演目のあるアンバサターシアターの前の看板には、主演のロキシー役の女優のセクシーなカットがグレースケールで大々的に描かれている。


 無料配布のパンフレットを受け取ってから、人の流れに従って、チケットに書かれている座席に着く。

“シカゴ”を観るのは2回目だが、パンフレットを見ると以前とキャストの大半が変わっている。


 劇場の中はそれほど大きくなく、巨大スクリーンのあるニホン都心の映画館よりも小ぢんまりとしている。

 客席のすぐ先にはオーケストラがズラリと並び、その先にミュージカルの舞台がある。


 オーケストラによる序曲が鳴り響き、いよいよ2部構成によるミュージカルが始まる。

 まずは衝撃的なオープニング、そして主人公ロキシーのライバル役であるヴェルマによる『All That Jazz』で歓迎を受ける。


 この演目は刑務所を舞台に、収監された女性達が世間からの注目を集め、無罪を勝ち取るために様々な策謀を巡らせる。

 実際にあった事件を題材にしており、禁酒法時代のステイツにおける司法の腐敗を弄っている。


『後輩君。上演中はお静かによ。それに読者の皆さんにネタバレになってしまうわ。コンプライアンス違反よ』


 ***


『ふん、ふふ~ん』


 ミュージカルの後、劇場を出てからというものの、会長様は上機嫌で聞いたばかりの音楽を口ずさんでいる。


 さすがに歌詞までは聞き取れていないようだが、初見のはずなのに音程はしっかり合っている。

 他にも女優が男性を誘惑する場面を真似してくる。

 彼女の相方はもちろん俺なのだが、興を削がないように適当に付き合う。


 ここでは別に珍しい光景でもない。

 同じ劇場から出てきた客達で似たようなことをしている者をちらほら見かける。


 舞台を見た熱気が冷めないままタクシーに乗り込み、宿泊先のホテルに帰ってきた。

 劇の後に店を探すのは大変なので、ホテルのレストランで夕食を済ます。

 ここでの支払いはフレイさん持ちなので、気軽に利用できる。


 せっかくのディナーだったが、会長様は料理のことよりも、初めて見たミュージカルの感想に夢中でずっとしゃべり続けていた。

 どうしても言語や文化、時代背景の違いで彼女が理解できなかったところを、たくさん質問されたので解説しながら補填した。

 とりあえずこの国を満喫してくれているようで良かった。


 食事後に部屋に戻ってからも、彼女は無意識に鼻歌を奏でている。

 こんなに喜んでもらえるならば、また連れて行きたいものだ。


 そんなこんなで2日目の夜が終わると思っていたのだが、まだ続きがあった。


「後輩君。覗いちゃ駄目だからね」


 まるで誘うかのような小悪魔の言葉。


 初日は移動の疲れで夕食後そのまま眠ってしまったが、会長様と同室なことは本日も同じ。

 もちろん何かがある訳でもないのだが、彼女は俺をからかって誘惑してくるので、気苦労が絶えない。


 問題の先送りにしかならないが、会長がシャワーを浴びている間に、寝室で上司のフレイさんからのメールを確認して、短い返事を送る。

 予定通りに明日、研究者のクレアさんの診察を受けることになる。

 その間、会長の相手はフレイさんが担当してくれるそうだが、今から心配だ。

 もちろん俺の上司の手腕は確かだが、会長には理屈が通用しない側面がある。


 耳を研ぎ澄ませると、大量の水が排水溝に流れる音が聞こえてくる。

 シャワーの音が止まったのは大分前だが、ニホンでは湯に浸かる習慣があるので、彼女ものんびりと体を温めていたのだろう。


 しばらくしてからシャワールームを出た彼女は、リビングを通り過ぎて、俺のいる寝室へとやってきた。


「どうして覗きに来てくれないのよ!」


 俺は待っている間に手持ち無沙汰で弄っていたスマートフォンから目を上げると、眼前にはバスタオル姿の会長様がいた。

 彼女の身体は一枚の白い布でしっかりとおおわれているものの、凹凸のあるシルエットまでは隠しきれていない。

 まだドライヤーが済んでおらず、水分を多く吸った髪の毛がしっとりとまとまっている。

 紳士としては目を逸らすべきなのだが、本能がそれを拒絶する。


「後輩君が覗く。私が鉄拳制裁をする。そしてみんなに言いふらす。そこまでがお約束でしょ」


 そんなお約束があってたまるか。

 あからさまな罠に飛び込むわけがないだろ。


「ほら、後輩君。お姉さんの風呂上りを見たのだから、褒めなきゃ。さぁ、褒めなきゃ」


「……相変わらず、いい身体ですね」

「それって、セクハラだよ」


 なんたる理不尽。

 もう何が正解なのか俺には分からない。


 分の悪い戦いにおいて、撤退の決断こそが鍵。

 ダッシュからのサイドステップで会長を抜いた俺は、事前に用意していた着替えを抱えて、シャワー室へ逃げ込もうとする。


 しかし会長に背中を見せたところで、まさかの不意打ちを受ける。

 腰の辺りを彼女の両腕に抱きしめられた。

 俺の背中に弾力性のあるものが密着する。


 力は大して込められていないので、強引に抜け出すことはできそう。

 それでもまずは言葉で抗議する。

 これこそが人類と獣の違い。


「会長の方こそ、セクハラですよ」

「私はいいのよ!」


 そうでございますか。

 人類の英知は会長様に通用しなかった。


 こっちの言葉は通じないくせに、彼女の呼吸や心音は良く伝わってくる。

 ほんのり漂ってくるラベンダー系の香りはシャンプーだろうか。

 さらに湯上りで高まった彼女の体温はバスタオル程度では防げない。

 俺の体温も上昇しているが、布越しに押し付けられたものなのか、緊張によって内側から発せられたものなのか分からない。


「離れてください。今日はけっこう汗をかきました。せっかくシャワーを浴びたのに匂いが移ってしまいますよ」

「いいわ。別に気にしない。私のために流してくれたのでしょ」


 そう口にした彼女は俺のうなじの辺りに顔を近づけて、クンクンと匂いを嗅ぐ仕草をする。

 品定めをされている。

 なぜだか捕食される側の気分だ。


 首を軽く左右に振って逃れようとするが、腰元を掴まれているせいで彼女の追尾を引き離せない。

 おそらく会長の中では冗談でじゃれ合っているだけのつもりだと思うが、毎度付き合わされるこちらとしてみれば身が持たない。


 理性の限界がもう間近だと判断した俺は、強引に彼女の腕を解いて抜け出す。

 突然俺が離れたせいで、彼女との間にあったバスタオルを支えるものが無くなり、床へと落ちる。

 振り返らずにリビングを通り抜けて、そのままシャワールームへと逃げ込む。


 風呂場に備え付けてある鍵は外からでも簡単に開けられる仕様だったが、さすがに追いかけて来ることはなかった。


 冷たいシャワーを一気に頭から浴びて、身体の熱を取り除く。

 備え付けのシャンプーやリンスの周りには、ニホン語が書かれた会長の私物がごちゃごちゃしている。


 他意はないが、いつもより入念に全身くまなく全身を洗う。

 浴槽に入らなくても平気な俺だが、本日は湯に浸かって長めに時間を使う。

 ここだけが今の俺の安全地帯。


 湯船の中で筋肉をマッサージしたり、ストレッチをしたりして体をいたわる。

 十分にリフレッシュしてから、浴槽から出る。


 ドライヤーでしっかり髪を乾かしてから、ユニットバスに持ち込んだ部屋着のスウェットを手早く履く。

 ユニットバスにも洗面台があるが、出てすぐの小さなスペースにも洗面台があって、リビングとの仕切りはないが、死角にはなっている。

 物音があまりしないことから、会長は居間ではなく、その奥にあるベッドルームにいるようだ。


 このままリビングにあるソファーで寝てしまう方が楽なのだが、彼女のいたずらのせいでベッドを手放すのは少々腹立たしい。

 それにもし彼女が次の悪戯サプライズを用意しているならば、無視してしまうと明朝に機嫌が悪くなる可能性が高い。


 正直なところ、会長の誘惑の意図が分からない。

 単純に俺のことをからかって遊んでいるだけなのか、それとも本気で男女の仲を望んでいるのだろうか。


 東高の先輩後輩として、仕事仲間として、相性が良いことは間違いない。

 しかし彼女の口から冗談以外で、俺への好意を聞いたことがない。

 先ほどのような誘惑をしてくるが、からかっているのだと疑ってしまう。


 そもそも好意を抱くきっかけに何も心当たりがない。

 初めて会った頃から、ずっと今みたいなノリで振り回されている。

 彼女とは同じ部屋で寝たことがあるし、混浴も経験したがそれ以上には発展していない。

 一度強引に口づけをされたこともあるが、ただのお礼だと主張されてしまい、それ以上の追求はできていない。

 会長に気に入られていることは間違いないが、それが異性としてとは思えない。


 だからこそ誘惑の意図が読めない。

 彼女が異性としての関係を望んでいたとしても、それに乗ることはできない。

 俺の性衝動を彼女にぶつけたくないのだ。

 1度踏み込んでしまうと、2人の間で何かが壊れてしまう気がする。

 もし契ることになるとしても、順序は守りたい。


 会長の感情も大切だが、俺が彼女をどう思っているかも大事。

 正直、俺自身も己の気持ちが分かっていない。

 恋仲とは違うが、仲の良い同年代の女性を挙げるとしたら間違いなく彼女だ。

 テトラドの会で佐参が現れたときは、冷静な判断ができず、任務に私情を挟んでしまった。

 護衛と調査という任務がある以上、もう線引きを間違う訳にはいかない。


 そして俺の気持ちは色恋よりも、ローズとの決着を優先したい。

 何を思って俺と別れたのか。

 なぜ両親を殺したなどと手紙を残したのか。


 相手のことなど考えていない俺のエゴだということは分かっている。

 しかしここで諦めてしまうと、血と硝煙にまみれたこの5年間を否定してしまうことに思えてしまう。


 今の俺には、誰かのために生きることも、誰かと共に歩むこともできない。

 できれば会長とは今の曖昧な関係のまま任務に従事したい。


 もし会長が俺に返事を催促してくるようならば、答えはもう決まっている。

 彼女のことを拒絶するつもり。


 だけど全ての決着を終えたら、そのときこそは俺の方から、彼女に素直な想いを打ち明けたいと思っている。

 ローズの足取りを調べる必要がなくなれば、裏の仕事を続ける意味もなくなる。

 ステイツとの関係を清算するかもしれない。

 それとも会長がこの先も世界の注目の中心にあり続けるならば、俺もエージェントのままの方が、都合が良いかもしれない。

 好きな人を守るために戦い続けるだなんて、まるで物語だな。

 たまにそんなあり得ない未来を想像してしまう。


 さて、一度深呼吸をして、意思を固めた俺は、会長が待ち受ける寝室のドアを開ける。

 暖色系のライトが薄暗く照らしている。

 手前の方のベッドが俺のテリトリーのはずなのに、その上に彼女が陣取っている。


 厳密に表現するなら、待つのに疲れて寝てしまっている。

 やはり疲労が溜まっていたのだろう。


 一定のペースで呼吸音が聞こえてくるので、俺を欺くための狸寝入りではなさそうだ。


 俺より先に湯浴みを終えた彼女は髪をしっかり乾かし、寝るための服へと着替えていた。

 いつもの水色のパジャマとは違い、薄紅色のネグリジェ。

 露出で言うと水着なんかよりも大分少ないはずなのに、ところどころ透けて見える四肢の肌色に、本能が掻き立てられる。

 肝心なところは、しっかりと隠れているはずなのになぜだろうか

 もしこれで誘惑されたら理性を保てていたのか分からない。


 これ以上は目の毒なので、起こさないように静かに布団を掛ける。


 少し残念な気持ちもあるが、俺も大人しく寝ることにする。

 窓に近い奥側の会長が使う予定だったベッドへと転がり込む。

 2日連続だが、明日ホテルの人にシーツの交換をお願いしておけば特に問題ないだろう。


 ***

『あとがき』

話が何も進まないまま、芙蓉と紫苑がイチャイチャするだけで1万7000文字を突破してしまいました。

投稿ペースが遅れておりますが、3話分のボリュームなので許してください。


次回はいよいよ上司のフレイ、科学者のクレアが久しぶりの登場です。

6話分の大作になる予定です。

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