10 研究主任

『あらすじ』

テトラドの会へ潜入

佐参を味方に

菅野夫妻の証言を獲得

 ***


「警察には紫苑の方から通報してくれ。地下の子供達そして何も知らない信者の安全には配慮して欲しい。俺には他に押さえるべき案件がある」


 菅野夫妻を1度隔離していた場所へと戻した佐参と合流してから、今後の対応について軽く確認した。

 互いの目的は依然として変わらないので、先の分担に不満はない。

 基本的に佐参が俺達の事情に合わせてくれているような作戦だ。

 彼はこの施設で行われている研究の資金提供者や科学者を拘束するために1年以上潜入していた。


 通報に関して会長と俺が直接警察に出向く必要はない。

 これまでに手に入れた証拠を魔法第5公社本部へと転送すれば、事務方が要請してくれるそうだ。

 しかしそのホットラインは、サブライセンス持ちの俺には明かされていない。

 会長や凛花先輩といった正規メンバーを介さないと公社のバックアップを全面に受けることができない。

 今回は会長がいるので、彼女に全て任せる。


 本来ならば警察側でも裏付け捜査を行うのだが、緊急性があると納得させることができれば、裁判所に捜査の許可を要請して、今日中に踏み込みができる。

 後の対応は任せることもできるのだが、おそらく会長は沙耶ちゃん達の保護まで立ち会うだろう。

 テトラドの会内部で多少の抵抗があったとしても、絶対強者を止めることは不可能だ。

 今回の事件はほとんど決着したように思える。


「芙蓉。あんたに少し話がある」


 会長が通報に必要な連絡をするために席を外した際に、佐参と2人きりになってしまった。

 無言の時間が流れると思っていたのだが、彼はすぐに話しかけてきた。


 現状協力関係とはいえ、決して和解した訳ではない。

 互いに刃と魔術を向け合った仲。

 そんな彼と改まって話すことは、沈黙よりも抵抗がある。

 せめて会長がこの場にいないことだけが救いだ。

 彼女の前でエージェントとしての顔はあまり見せたくない。


「地下施設での研究をスポンサー達に持ちかけた始まりの人物がいる。10年以上前から精霊の力を人工的に制御する研究をしており、俺を無理やり人工契約者にしたのもそいつだ。地下に繋がれた子供達のアフターケアをするためにも、彼だけは逃してはならない」


 もちろん世間話などではなく仕事の話だと思っていたが、かなり重大な案件。

 沙耶ちゃん達を保護したところで、平穏な生活を取り戻せるのかは俺達では判断できない。

 佐参の言う通り、子供達がどんな処置をされたのか知っている人物を押さえる必要がある。


 それに今回の首謀者を押さえることは、再犯の芽を摘むことにもなる。

 黒幕の確保は佐参の担当だが、情報の共有をわざわざ惜しむ必要はない。


「残念ながら奴も魔法を扱うので、今の俺では捕まえられることができない」


 さて、会長によると、昨晩の戦闘で佐参の契約する水の精霊は俺が殺してしまったらしい。

 今の佐参は強力な手札を突然失った状態だ。

 目の前の男は精霊に頼りきりで、プロどころか東高の在学生に比べても魔法技量は大したことない。

 今の彼は銃で武装していても、魔術的には無防備。


 研究者というのは、立場上荒事に向いていない傾向にあったとしても、魔法使いではないとは言い切れない。

 たとえばステイツで俺の魔法式をメンテナンスしている研究員のクレアさんもれっきとした魔法使いだ。

 敵が魔法使いならば会長か俺が対処すべきかもしれない。

 できれば彼女がいる時に話すべきだと思う。


 しかし佐参の説明はまだ続く。


「なによりそいつは紫苑とも因縁がある。できれば彼女の目に触れないところで決着をつけたい」

「分かった。俺がその研究主任を捕えればいいのだな」


 少なくとも俺がすべきことは見えている。

 今の会長は精神的に不安定になっている。

 諸悪の根源を取り押さえて、彼女の平穏を守る。


「俺が相手する人物の特徴は?」

「研究主任の男。名をローズ・マクスウェルという……」


 佐参の口から本日1番の重大な情報が繰り出された。

 何とか動揺を抑えたというよりも、驚きで言葉が出なかった。


 しかし冷静に考えてみれば、辻褄つじつまが合わない。

 ローズかあさんと俺が別れたのが今から約5年前であり、10年近く一緒に暮らしていたはずだ。


 俺達2人は世界各国を共に旅した。

 彼女が俺の前から姿を隠したのは、吸血鬼の本能と向き合う時くらいなものだ。

 佐参の話とでは時系列が乱れている。


 彼女の偽物などこれまでにもたくさんいた。

 今回もその可能性の1つなのだろう。


 目的となる人物のことが分かった以上、次に知っておきたいのは会長との関係性。


「ところで因縁とは?」

「悪いがそれは俺の口から話すことはできないし、ローズを逮捕する上で大して重要ではない」


 予感はしていたが、1度語らなかったことを聞き返しても無駄だった。


 全貌は見えないし、確証だってまだないが、いくつものピースが繋がり始めている。


 今回会長は沙耶ちゃんに必要以上に肩入れをしている。

 俺には自身を重ね合わせるようにすら思えた。

 そんな彼女の幼馴染みの佐参は、ローズを名乗る研究者によって契約者にされた。

 そして偽物と会長の間にも因縁がある。

 状況証拠によるひとつの可能性でしかないが、会長もまた佐参同様に偽物の被害者。

 今の時点ではどうこうできないが、未だ謎に包まれたまま彼女の出自について調べる糸口かもしれない。


「そのローズという人物の居場所は分かっているのか。対処は俺のやり方でやるぞ」


 ***


 俺は再び地下施設に訪れていた。

 警察への情報提供は依頼のあった時点で交渉が進められており、菅野夫妻との面会後すぐにテトラドの会本部は静かに包囲されることになった。

 サイレンは聞こえないが、警察車両が逃げ道を塞いでいる。


 最も近い警察署から多くの人員が出動しているだけでなく、余所からも応援が動員されている。

 嫌疑は児童誘拐、傷害そして殺人まで想定されているので、かなりの大事おおごとだ。

 その分統制が難しく、捜査員が地下施設に辿り着くまでのタイムラグが伸びてしまう。


 テトラドの施設内部は外界と絶たれているので、信者達は警察の包囲など知らずに平穏なものだ。

 会長は佐参と共に沙耶ちゃん達の安全を確保するためにカプセルが並んでいた部屋の制圧に向かった。

 一方で俺はローズを名乗る科学者を逃さないために、同じ地下施設の別の区域に侵入していた。


 夜間と違ってターゲット以外の研究員ともすれ違ったが、佐参が用意してくれた衣装と解錠のためのカードキーのおかげで、特に気に止められることはなかった。

 ここにいる人間らは法律に触れる仕事をしているので、どうやら互いの身元について触れないのが暗黙のルールのようだ。


 事前に聞かされていたいくつかの候補を捜索していたら、コンピューター機器が並ぶ部屋で、佐参から聞かされた特徴に合致する人物を見つけた。


 やはり偽物だ。

 スーツ姿の50代前後のニホン人男性で、お洒落はしていないが清潔感はある。

 180を超える高身長で、筋肉も脂肪も乏しく細長い。

 礼拝堂で信者とは異なる服装で、儀式を眺めていた人物と合致する。


 俺が偽物だと判断したのは、見た目ではない。

 吸血鬼の真祖である彼女にとって、姿や気配を偽ることなど容易。

 しかしターゲットの研究員は、ローズが化けたにしてはあまりにも品性がなさすぎる。

 それに俺の接近を簡単に許す訳がない。


 ローズの偽物はこちらに背を見せたまま操作盤が設置された机に向かって、小気味よくキーボードを叩いている。

 この部屋に他に誰もいなかったことはとても都合が良い。

 気配を消した俺は彼の背後に忍び寄る。


 いつでも触れることで魔力を奪う準備をした段階で、あえて気配を表に出す。

 しかし偽物は作業に没頭しているのか、驚くどころか全く反応がない。

 不気味さは残るものの、後ろから彼の首元へワイヤーを通し、警告の意味を込めて軽く触れさせる。

 それでも現状が維持されたまま時間が流れていく。


「ここの研究主任だな。まもなく警察の突入が始まるが、その前にいくつか聞きたいことがある」


 俺の存在や、言葉はしっかり届いているようだが、手元を止める素振りは未だにない。


「作業しながらでいいかな。ここを引き上げるとなると、持ち出すデータを整理しなければならなくてね」


 見当違いな返事に気を緩めそうになってしまった。

 今の状況が理解できていない訳ではなさそうだが、こちらに興味がまったくないようだ。

 俺の周りには会長を筆頭に自分勝手な連中が多いが、ここまでマイペースじゃない。


 相手のペースに振り回されては、これからの尋問で不利になる。

 現状偽物の命は俺の手元、ワイヤーの上にある。


「逃げられると思っているのか?」

「どうせ警察の管理下でも研究をすることには変わりない。ならば先に移動の準備を始めているだけだ」


 まるで大人しく捕まるつもりのような口ぶり。

 警察組織が人体実験の続行を認める訳がない。

 許容せざるを得ないとすれば、考えられる可能性はひとつしかない。


「菅野沙耶を含め、代弁者と精霊の間に行われた処置はどうすれば元に戻せる」


 精霊とパスを結ばれた子供達はカプセルの中で、生活させられているような状態だ。

 しかも周囲の人間達に属性を付与するような体質が付いている。

 そのまま日常に戻して、本人にとっても、周りにとっても危険がないとは思えない。


「吸血鬼が配下の人間に施す秘術のことを知っているかね?」


 最近聞いたことがあるな。

 質問を質問で返されるのは好まないが、興味が湧く題材だ。


 それにこの手の相手は、1度こちらを無知だと判断すると、言葉を口にしなくなったり、平気で嘘をついたりする。

 基本的には研究内容について偽りを口にしない傾向があるが、稀にこちらの理解を試すために間違ったことを語る時があるので注意が必要だ。

 ある程度話を合わせなければならないが、最もしてはならないのは知ったかぶり。

 あくまで教えを乞う姿勢を演じて、相手に吐かせる。


「シキのことを言っているのか。あれは生まれたばかりの赤子を対象にするし、そもそも人間に扱える技術なのか?」


 研究者の口から語らせるために、あえて知っている情報の全ては言葉にしなかった。


 俺の肉体にも刻まれている魔法式の技術は世界的に普及している。

 詠唱が無くても魔力を流すだけで、事前に仕込んだ魔法を発動することができる。


 先日霊峰で出会った吸血鬼のダニエラによると、元々は吸血鬼が下僕の人間に魔法を授けるために編み出した秘術だそうだ。

 しかし強制的に魔法を書き込むこの技術には許容量という問題がある。

 個体差はあるが、肉体の表面積で換算すると5%前後が適正ありと考えられている。

 10%になるとかなり稀有な魔法使いだ。

 この許容量の限界を突破させられたのがシキであり、死鬼シキ

 吸血鬼は、産まれたばかりの赤子の魔力炉まりょくろを壊してしまうことで、自由に魔法式を書き込めるようにした。

 そのためシキの特徴は魔力貯蔵量がない全く人間。


 ちなみに俺の場合も自身の魔力を持たず、全身の50%に至る量の魔法式が書かれており、発動すると服で隠れている部分のほとんどに模様が影のように浮かび上がってしまう。

 このことからダニエラは俺のことをシキと呼んでいたが、彼曰く俺の能力は一般的なシキを超えているそうだ。


 俺は物心ついた時から魔力がなく、魔法式が刻まれていたので、実際にローズかあさんが俺にどのような処置を施したのかは分からない。


「ほう、シキのことを知っているか。なるほど思っていたより学があるようだな。契約者は精霊王の顕現の際に人間界と精霊界を接続する必要がある。このときのエネルギー問題を解決するために、人間の魔力炉に精霊を住まわせることに挑戦した。成功率を高めるためにシキの技術をベースにシミュレーションしたが、生まれたばかりの新生児では精霊側に主導権が渡ってしまい制御不能が予想された。だから自我が目覚め始めた子供を使うことが妥協点だった」


 ローズの偽物は一度口を開けば、べらべらと饒舌じょうぜつに喋り出した。

 しかも難しい言葉をできる限り使わず、要点をまとめている。

 この手の科学者は知識を見せたがって、他人への説明が分かり難く下手な者が多いが、彼はしっかりとこちらの目線に合わせてくれている。


 たしかに佐参は水の精霊を顕現する際に魔力を支払っていないし、精霊の制御に苦心していたようだ。

 彼は沙耶ちゃんと同じくらいの年齢の頃に、強制的に精霊を植え付けられたそうだ。


「司祭の佐参によると、彼と沙耶ちゃん達は異なる処置を受けているそうだが、具体的にどう違う」

「スリーの入れ知恵か。かつての人工契約者は失敗に終わった。シキを応用して子供を使う案は悪くなかったが、理論的には可能でも安定供給は現実的ではなく、彼以外に成功する者はいなかった。事故で1度は閉じた研究を再開することになったのは、」


 男はこれまでの淡々とした語り口と違い、少し溜めた。


「私がローズ・マクスウェルの後継者になったからだ」


 突然のことに、彼の首元に当てていたワイヤーを手放しそうになってしまった。


 過去にスリーと呼ばれる佐参以外に精霊と契約を結んだ者はいないという新たな情報が、かすんんでしまいそうだ。

 ローズは吸血鬼の真祖であり、今日こんにちの魔法を積み上げた研究者という一面も持つ。

 俺が彼女と暮らしたのは物心ついた頃から5年前まで。

 改めてテトラド設立の時期から逆算すると、矛盾はしていない。


 しかし彼女は人との関りを好まない方だった。

 一緒に世界を旅していたときに知人と呼べる者と会った記憶はない。

 公開している研究成果はその時代に則したものだけで、多くを自身の趣味に留めて世間には伏せたままにしてある。

 ローズの弟子として俺が唯一聞いたことあるのは、実母の高宮咲夜たかみやさくやくらいなものだ。


 俺に戦い方を叩き込んだローズは、生きるために様々な知識を授け、人の営みというものをしっかり教えてくれた。

 そんな彼女は独特な倫理感を持っており、人間を同族として見なしていないものの、無意味な殺戮さつりくを好ましく思っていなかった。

 命の尊さを軽んじる人物ではない。

 研究は趣味のようなもので、余所への迷惑は極力抑えていた。

 少なくとも目の前の男とローズが合うとは思えないし、教えを授けるメリットも考えられない。


カレ・・の晩年の研究では、異世界との交信をテーマにしていた。そこにあったシキを中継器にするアイデアを流用させてもらったことが大きなブレイクスルーになった。子供はあくまで精霊を繋ぎ止めるための触媒にして、術者を別に配置することで円滑に制御を行う方針に変わった。上でやっている礼拝も術者の選定に過ぎない」


 つまり精霊を操っていた佐参と違って、沙耶ちゃん達は自身の意思で操作することはできないようだ。

 そしてこの施設を研究の隠れ蓑にしているのだと思っていたが、テトラドの会そのものが彼の実験場だった。

 テトラドの信者達、もしかしたら司祭すらも彼の実験動物モルモットなのかもしれない。


 ローズかあさんは俺に対して自身の研究のことを話していない。

 しかしステイツのエージェントになってから彼女の行方を探すために、いくつもの業績について洗うことになった。

 俺が物心ついた頃には表舞台に出ていなかったが、彼女は精霊王の来訪以前から、世界の認知、そして異世界について考察をしている。

 近年では魔界へ行くための門を編み出したことを、霊峰でダニエラから聞いているので、偽物の言葉があながち間違いとも思えない。


 しかし話が進むにつれて、ますます彼女がこいつの研究を支持するとは思えない。

 それに男は後継者を名乗っておきながら、彼の言葉の中にローズ像がまったく見えてこない。

 だけどそのことを問い詰めるのは、聞きたいことを聞いてからだ。


「術者がいなければ子供達はどうなる。元に戻せるのか?」

「調整を止めれば拒絶反応で精霊とのパスは徐々に細くなって消える。しかし沙耶だったか、裏で手を回して連れてきあの子だけは例外だ。すでにパスが安定しており、術式を知る私がいなければ、制御することなどできはしない」


 ここまでの会話で嘘を言っている気配はない。

 やはり佐参の読み通りこいつを捕えなければ、沙耶ちゃんを救えないかもしれない。

 今ここで試す訳にもいかず、検証は全てが済んだ後になる。

 せめてもの救いは他の子供達に関しては保護をすれば、それで終わりのようだ。


 偽物が落ち着いているのは、沙耶ちゃんに施した術式という手札があるので、こちらも慎重にならなければならないことを理解しているからだ。

 逮捕したところで、そのまま刑務所に入れる訳にもいかないし、場合によっては司法取引だってあり得る。

 警察が彼の言葉を戯言ざれごとだと断じる可能性もあるが、こいつには交渉する自信があるのだろう。

 残念ながら俺の立場では、そこまで干渉することはできない。

 ここで緊急逮捕に踏むこめば、第5公社に捜査権が一時的に回って来るが、最終的に判断するのはこの国の警察と司法だ。


 最後に確認すべきことがある。

 疑いの方が大きいが、彼女の後継者を名乗ったことは見逃せない。


「第5の精霊王について知っていることがあれば話せ」


 新たな問いに対して、初めて彼は手を止めた。


「ふむ、精霊王が他にもいたとは。その着眼点はなかったな。思いのほか有意義だったよ。君の名前を教えてくれないか」


 彼は俺の知りたいことについては無知だった。


 後継者というのも、おそらくローズの残した研究資料をどこかで見つけたとこだろう。

 そんな彼に俺なりの最後の手向たむけを送る。


「芙蓉・マクスウェル。真祖の息子だ」


 ニホンでの任務中に名乗ることを禁じられている俺のファミリーネーム。

 偽物への対抗意識で、どうしても黙っておく訳にはいかなかった。

 こちらの意図が通じたかどうかは分からないが、奴は軽く笑みをこぼした。


「さて、そろそろ行こうか。研究を続けられるならばどこでも良い。テトラドに多少の愛着はあるが好きにするがよい」


 機材に繋いでいたポーダブルタイプのハードディスクを取り外した彼は、両手を上げて抵抗の意思がないことを示した。

 佐参らと事前に話した算段通りならばこのまま連行すれば任務完了。


 しかし俺はローズを名乗る人物の首元に回ったワイヤーを解くことなく、そのまま力を込める。

 腕の力だけに頼らず、相手の体重を上手く利用する。

 想定外の暴力に遭遇した男は、これまでの余裕などなく必死に抵抗を試みるものの、すぐに呼吸を失った。


 力を失った彼の体重が一点にのしかかると、男の死を実感する。

 こいつは人体実験などしておきながら、人間の狂気を知らないのか。

 全ての人間が理性で物事を考える訳ではない。

 それとも狂気が自身に向けられることなどないと、慢心でもしていたのだろうか。


 放したワイヤーは頸動脈けいどうみゃくに到達していないものの、表皮を切り裂き首の肉の中に食い込んでいた。

 偽物が暴れたこともあり、綺麗な一本の線ではない。

 必要以上の力でワイヤーを握ったせいで、俺の手にもあとが残っている。


 どうでもいい相手だとしても、人を殺すのはあまり気分が良くない。

 もう動くことのない名も知らぬ男の顔を目にすると、今朝口にしたものを戻しそうになるが強引に飲み込む。

 それでも罪悪感があるということは、自分がまだ人間として正常だということを認識させられる。


「これで会長ともお別れかもしれないな」


 ステイツからの刺客のアックスを殺めたときとは事情が違う。

 あのときは向こうが先に仕掛けた来たのに対して、第5公社から指名依頼という名目まで用意した。

 しかし目の前の死体はまだ罪が確定していなければ、緊急性もなかった。

 だけど俺は投降してきた相手を一方的に殺した。


 別にローズをかたったからではない。

 まったく関係ないというのは嘘になってしまうが、それ以上の理由がある。

 こいつの存在はあまりにも危険すぎる。


 俺は研究の力を過小評価しない。

 1人の魔法使いの力など、たとえ精霊王の契約者だとしても限界がある。

 しかし世界に技術革新をもたらす研究は、ものによっては人類に多大な影響力を持つ。

 ここで行われていた仕事は“精霊殺しの剣”なんかよりも、危うい代物。

 契約者を量産することで、魔法使いの世界のバランスを崩すものだ。

 それを悪とは思わないが、扱いの難しい劇薬であることには間違いない。


 19世紀に精霊魔法が人類に普及して間もなく、2回の大戦で世界の多くが荒れ地になった。

 少なくともこの劇薬を受け入れられるような社会になるまで、公表は控えるべきだ。

 それをニホン政府に任せたくはない。

 俺達は正義の味方ではないが、ステイツの社会を守ることを最優先しなければならない。


 彼の研究アイデアが世に知れ渡れば、第2、第3の狂気の研究者マッドサイエンティストが現れることは容易に想像できる。

 それに今回の一件で誘拐や傷害容疑で逮捕したとしても、刑期を過ぎれば偽物は自由の身になってしまう。

 記憶に蓋はできないし、1度自戒を破り、堕ちてしまった研究者の好奇心を抑えつけることができないことを、俺は知っている。

 ステイツに連行すれば再犯を防ぐために記憶を封印する脳手術で処置できるが、警察に囲まれた現状、彼を誘拐してステイツ軍基地まで行くのは不可能だ。


 現場の勝手な判断になってしまったが、様々なリスクをかんがみて殺してしまうのが確実だった。

 たとえ俺がニホン警察に指名手配されて護衛任務を続行できなくなったとしても、こいつの口封じを優先した方がステイツにとって益になる。

 彼の思想と研究成果を封じることは、精霊殺しの剣や沙耶ちゃんの身の安全よりも重い。

 それに精霊殺しの剣だって、今は俺の手元にある。


 言葉を言わなくなった彼が持ち出すためにせっかく用意したハードディスクはありがたく拝借させていただく。

 フレイさんに送って解析を任せれば、ローズの残した資料が入っているかもしれないし、沙耶ちゃんに組み込まれた術式の情報もあれば、彼がいなくても治療ができるかもしれない。


 さて、偽造工作を始めるとするか。

 ニホン警察の捜査能力に敵うとは思わないが、時間を稼ぐためにせめてもの悪足掻わるあがき。


 研究データをできる限り復元できない状態にしなければならない。

 機材の内部にワイヤーをいくつも通して、最後に電気配線に接続して短絡ショートを引き起こす。

 電熱によってコンピューターのフレームが焦げていく。


 死体の首元にはワイヤーの跡が残っているが、少しでも検死を困難にするために、適当に重くて頑丈そうな機材を持ち上げて彼の頭部へと落とす。

 頭蓋ずがいの骨が折れる音が聞こえるが、すでに心臓が止まっているので、出血はあまりない。

 特に歯は個人の特定に繋がるかもしれないので、口元は入念に潰しておく。

 さらに指紋を特定させないために指1本1本の皮に刃を食い込ませる。


 殺しは好まないが、死体を傷つけることはさらに忌避きひを感じる。

 命の奪い合いでは、たとえ素人相手だとしても、互いに殺す可能性も殺される可能性もある。

 しかしこの偽造工作は、すでに命のない相手の肉体をはずかしめる行為。

 こういう作業に慣れてしまった自分に嫌気がさすものだ。


 彼の遺伝情報が警察のデータベースに残っていなければ、身元の特定に時間を稼げるはずだ。

 他に確認すべきは監視カメラなのだが、後ろめたい研究をしていたからなのか、この部屋内部や入り口には設置されていないようだ。

 状況証拠としては俺が犯人なのは明らかだが、凶器のワイヤーを押さえられなければ、早期での立件は難しい。


 捜査の手が伸びる前には国外逃亡しなければならない。

 ニホンにはステイツ軍基地がいくつもあるので、そこまで警察をけばいつでも脱出できる。

 そうなると会長の傍にいることはできない。

 もし俺が精霊殺しの剣の持ち逃げに失敗したら、別の人物が送られるかもしれない。


 退出前に一度呼吸を整える。

 スマートフォンのカメラで自身の顔を映しながら、表情を確認する。


 会長や佐参に悟られないようにしなければならない。

 今はとりあえず、会長に振り回される後輩君へと戻る。

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