8 佐参

『あらすじ』

テトラドの会へ潜入

地下施設で沙耶ちゃんを発見

佐参に逃がしてもらう

 ***


『ここは俺に任せて、今日は寝床に戻りなさい。早朝にこの施設から脱出しなさい』


 地下から脱出した会長と俺は、いつでも逃走できる準備をしてから解散した。

 俺達は佐参の言葉に従って脱出するつもりはなく、明日からは彼女の両親を捜索するつもりだ。

 だけど夜はまだ終わらない。

 今回見逃してくれた佐参が、どちら側の人間なのかはっきりさせる必要がある。


 会長と別れた俺は、装備を改めてすぐに来た道を引き返した。

 リボルバーはないが、ショルダーホルスターにはナイフ代わりの精霊殺しの剣、フラッシュバンの代わりの燻煙剤。

 腰に付けてあるワイヤーはまだ大分残っている。

 そして右耳には最新のインナーイヤー型の通信機を入れてある。


 沙耶ちゃんのいた地下への階段の上まで進んだところで、腰を下ろして息を潜める。

 先ほど子供達が入ったカプセルの並んでいた部屋に、盗聴器の代わりとして俺の耳にある通信機と同じものを置いてきた。

 見た目は小型のワイアレスイヤホンだが、スピーカーとマイクが1つになっており、ペア同士でのみ通信ができる。

 しかも自動で周波数を変えるので傍受ぼうじゅされ難い。

 問題があるとすれば、高価なステイツの支給品なので失くすと弁償代がかさむことくらいだ。

 目的の地下室に近づいたことで、電波環境が良くなりノイズが大分消えてきた。


『スリー、騒ぎを起こしたのはフォーティーンか?』

『まだ断定はできません。警備の2人を気絶させた手口から複数犯だと思われます。応援がすぐに駆けつけましたが逃げられてしまいました。手際の良さからかなりのやり手です。あのフォーティーンとは考えにくいですね』


 2人の人物の会話が聞こえる。

 片方は佐参の声だ。

 もう1人に心当たりはないが、口調から彼の上役だと推察できる。

 佐参はどうやら俺達のことは報告していないようだ。

 連中は誰かを疑っているようだが、俺達以外にも敵対勢力に心当たりがいるのだろうか。


『裏で手を回して強引に連れて来たあの娘に興味を示すということは、こちらの内情に明るい連中かもしれない』

『数日前に娘のいた孤児院の職員が訪ねて来たと報告を受けております。侵入者が彼女を狙っている可能性はあるかもしれませんが、さすがにその重要性までは知られていないと思います』


『分かっていると思うが、他の実験体には代えがあるが、あれだけは特別だ。研究者の立場としては素材の良し悪しで結果が変わるのは好まないが、この際仕方がない。とりあえず1度完成体を納めれば、スポンサー達が素材を集めてくれるだろう』

『その時は、約束を違えるなよ』


 予想はしていたが、やはりあの地下は研究施設であり、子供達に何かをしているようだ。

 少なくとも俺が沙耶ちゃんから感じた違和感は間違いなさそうだ。

 代弁者に何か特別な力があるようだが、後天的に植え付けられたものなのか、それとも先天性のものを開発したのか。


『納める』という言葉がどうにも気がかりだ。

 奴らの企みは現在進行形であり、放置しておくと子供達がこの場所から移動されてしまう可能性がある。

 思っていた以上に急を要する状況のようだ。

 残念ながらこの盗聴に使っている通信機に録音機能はない。

 そもそも佐参の話し相手を特定しない限りは証拠としては弱い。


 次第に声が聞こえなくなっていく。

 どうやら佐参の方はカプセルのあった部屋を立ち去り、もう片方はそのまま残ったようだ。


 どちらを狙うか迷うが、当初の予定通り佐参の目的を確認することを優先する。


 ***


「せっかく命拾いしたというのに、なぜまだうろついている」

「どうして俺達のことを見逃した」


 気配を隠して慎重に佐参の後を追っていたのだが、数分で気取られてしまった。

 バレるようなミスをした覚えはない。

 単純に奴の探知能力が俺の隠行を上回ったのだろう。

 俺は佐参に対する警戒をさらに一段強めた。


 地下室を出てから回廊を進んだ先にある簡素な中庭。

 ここから共同の寝床は遠く、巡回ルートからも離れている。

 他の人物の介入は少なさそうだ。


「別に紫苑を助けただけだ。あんたのことはついでに過ぎない」


 会長と一緒にいたときの佐参は表面的には柔らかな態度だった。

 しかし今の彼は鋭利な感情を抜き出している。

 獰猛どうもうな本性を隠していたようだ。

 それに押されて、自然と得物へと手が伸びる。


「佐参。紫苑はお前のことを信用しているようだが、俺は彼女のように甘くない。お前からは血の匂いがする」

「奇遇だな。俺も同じことを思っていた。紫苑の隣にあんたのような汚れた奴はいてはいけない」


 ようやく佐参のことを不快に感じていた正体が分かった気がする。

 同族嫌悪。


 会長は誰が相手でも、全力で接してくれる。

 裏の世界で生きてきた俺にはとても心地良かった。

 彼女は俺達日陰者にとって眩しすぎる。


 対峙する佐参が懐に手を伸ばす。

 思考を戦闘モードに切り替えるが、ゆっくりとした呼吸を保つことで冷静さを一部残す。


 暗がりの中でも、いち早く相手の得物を把握する。

 サイレンサー付きのハンドガン。

 取り出すのと同時に火を噴き出した。


 銃口の向きだけで弾道を先読みして回避行動に移る。

 肉体に遅れて動いた服を、銃弾がかすめた。

 大気中の微弱な魔力とはいえ、身体強化をしておかなければ当たっていた。


 ここは敵陣なのでこっちは装備に制限があるのに、佐参は好きなだけ火器を持ち込める。

 しかし今の早撃ちクイックドロウで大方の実力は読めた。

 躊躇ためらいはないし、狙いも悪くない。

 しかし工夫が足りない。

 発砲した時点で着弾を確認せずに、次の攻撃に入るべきだった。


 次弾装填の間に、一気に距離を縮めた俺は、銃を持つ敵の腕を下から押し上げる。

 銃を取り上げられると勘違いした佐参は、もう片方の手で得物を守ろうとするが、その判断は甘い。

 腹ががら空きの無防備な相手に対して、ボディブローを打ち込む。

 魔法使い相手ならば、身体を密着させて魔力を奪いに掛かるのだが、佐参の魔力は一般人とさほど変わらない。


 攻撃を受けた佐参はその場で踏ん張り、銃把グリップを両腕で振り下ろしてきた。

 俺は回避せずに、あえて肩で受け止める。

 先に通した腹部への攻撃が効いていて、まったく重みがない。


 先制を受けてムキになって引かなかったようだがそれも間違いだ。

 佐参は態勢を整えるべきだった。

 この至近距離は拳銃に向かない。

 特にサイレンサーなんて余計なものが付いているせいで、十分な射程距離を確保できなくなっている。


 密接した間合いを維持したままの俺は、上半身の回転を利用して、佐参の胸元を強打する。

 立ったまま彼の時間が止まる。

 身体の芯を捉えた拳は、胸筋や肋骨に守られている肺と心臓へと衝撃を通す。

 殴り合いに慣れていない佐参には、勢いを地面に逃がすだけの下半身の柔軟性がない。


 俺は腰元のワイヤーを取り出し、敵の腕に巻き付ける。

 硬直している相手から、銃を奪うのは意外と難しい。

 一時的に有利な状況に立ったとしても、丁寧に追い詰める。


 銃を持つ凶悪犯を想定した格闘術は、ステイツで何度も訓練してきた。

 一方で相対する佐参が銃を持っての接近戦に不慣れだとしても特におかしくない。

 治安の良いニホンにおいて、裏社会にどっぷり浸かった人間だとしても近接格闘CQCの心得があるような連中はほとんどいないだろう。


 それにしても温すぎる。

 文字通り手も足も出ない佐参だが、目だけで威嚇いかくを続けている。


 俺の過大評価だったのだろうか。

 初めてこいつを見たときは、かなり危ない匂いがした。

 これではあまりにも歯応えがない。

 そして今でも目の前の優勢とは裏腹に、俺の肌はヒリヒリとプレッシャーを感じとっている。

 こちらを睨む奴の瞳は負けを認めてなく、捕らえられて調教前の肉食獣のものだ。


 佐参は拘束された両腕で握っていた拳銃を手放した。

 大詰めとはいえ、まだ決着はついていない。

 俺は自身の感覚を信じて、バックステップで間合いを離した。


 エージェントとして最も重要なのは、危機察知能力だ。

 何人殺そうが、何人救おうが、自身の命はひとつしかない。

 任務に失敗したとしても、死ぬわけではない。


 一般人並みだったはずの佐参の魔力が急激に跳ね上がる。

 量だけでなく、質も変化した。

 水属性を帯びた魔力が目で見えるほど高密度になって彼を包んでいく。

 ワイヤーによる拘束はいとも簡単に弾け飛んだ。

 どうやら抑えていた魔力を解放したようだ。

 同じ原理なのかは分からないが、会長に似ている。


 戦闘思考を対銃火器から、対魔法使いへと切り替える。

 本来ならばすぐにでも触れて、魔力を吸収したい。

 しかし解放された魔力の量を確認した後でも、依然として俺の勘が『警戒を緩めるな』と訴えている。


 佐参を包むように密度を重ねながら、徐々に膨張した魔力が彼から離れた。

 青色のエネルギーが自身の形へと造り替わる。

 頭部から前脚までは馬で、下半身は尾ひれの姿。

 ケルピーとかいう想像上の生き物。

 実際の馬と同じくらいの大きさで、宙を泳いでいる。

 奴の切り札は膨れ上がった魔力ではなく、召喚魔法の一種のようだ。


「こんな奥の手があるならば、とっとと出せばいいのに」


 俺は初見の魔法の情報を得るために声を発したが、佐参は無言を貫く。

 駆け引きを嫌ってからなのか、術に集中しているなのか分からない。


 魔法でできた生物など、俺の能力の前ではカモのように思えるかもしれないが、それほど簡単ではない。

 この手の魔法は凛花先輩のゴーレムと同じで、存在が安定しており分解するのに時間を要する。

 およそ10秒触れれば霧散させられるが、戦闘において数秒の接触は命取りになる。

 分解が間に合わなければ、無防備なまま攻撃を受けることになる。

 いくら強化しているとはいえ、こちらは生身の肉体なのに対して、相手は高密度のエネルギーで構成されている。


 もし決着を急いで間合いを離していなければ、大ダメージを負っていた。

 ここから先は慎重に相手の魔法を分析しながら攻め崩す。

 幸いなことにケルピーが分離してから、佐参本人の魔力は著しく低下している。

 さらに彼の動作がとても鈍く見える。

 異なる意思を持つ存在を呼び出す召喚魔法だが、術者が制御をするために身動きをとれなくなることは珍しくない。

 どうやら2対1という状況にはならなくて済みそうだ。


 召喚魔法には大きく2種類あり、頑丈な肉体を持つパワータイプと魔法で攻撃するマジックタイプだ。

 奴は後者の魔法メインのように見える。

 ケルピーの肉体は半分ほど透けており、その影は揺らめいている。

 おそらく実体がなく、アストラル体のような不定形なのだろう。

 魔力の密度が高くても、その中身はとても脆く、分解してしまえば簡単に消滅するに違いない。

 被害を覚悟して飛び掛かれば、最短で倒せなくもないが、いきなりそんなリスクを負う必要はない。

 まずは魔力を吸収して身体能力を高めてから、接近を試みたい。


 ケルピーは上半身をると、小手調べとして口から水鉄砲を飛ばしてくる。

 魔力を吸収するためにあえて避けずに、両腕を交差させて正面から受け止める。

 肉体に刻まれた魔法式が発動したことを実感するが、水圧が完全には収まらない。

 後方へと押し込まれるが、重心を低く下げることで地面から引き離されないようにしっかりと踏ん張る。

 魔法としての構成を中途半端に崩壊した水が周囲に飛び散る。


 ガードした腕がとても重たく、上げることも下げることも辛い。

 さすがに骨は無事だが、袖の内は内出血であざになっていることだろう。

 魔法をほとんど分解できずに、ダメージを負ってしまった。

 余裕を出して無防備で受けていれば、水圧で身体が複数に弾け飛んでいたかもしれない。

 アストラル体から切り離された水鉄砲ならば、容易に分解できると踏んだのだが、読みを違えたようだ。

 霊峰で戦ったダニエラと同じだ。

 目の前の水の怪物は俺の分解能力に対して抵抗を持つようだ。


 これまでにも召喚系の能力者と戦ったことはあるが、本体にさえ気をつければ問題なかった。

 特に魔法で攻撃してくるタイプは、俺にとって与しやすい相手のはずだった。

 しかし分解耐性が持っているとなると話は別だ。

 ステイツのエージェントになって以来、対人戦に特化して鍛えてきた俺からしてみれば、かなり相性が悪い。

 ニホンに来てからは毎度厄介な例外と出くわすものだ。


 魔力を補充したくて、初手は受けに回ったが成果よりも被害の方が大きかった。

 もし今の状況が事前に分かっていれば、今回の仕事の報酬に見合わなくても魔石を準備していた。

 リスクは増すが身体強化のギアを上げることができないまま、ケルピーに触れて本体の分解を狙うことにする。


 俺の戦意が消えていないことを確認したケルピーは、再び水鉄砲を放つために溜めを作り始める。

 とにかく接近するためには足を動かすしかない。

 まだ痺れる腕を振り回して、真っ直ぐに走り出す。


 弓の弦のように仰け反った馬頭が、全身のしなりを使って勢いを上乗せした水鉄砲を放ってくる。

 瞬時に敵の攻撃を見極めた俺は、減速無しに半歩分だけ横に逸れるように踏み出す。

 強引な動きだが、多少なりとも魔力によるサポートを受けているので、足を痛めることは気にしていない。

 普段は回避しないが、弾丸系の魔法は発射の方向とタイミングを計ればその軌道を簡単に読める。


 攻撃を避けられたケルピーは、すぐに方針を修正させてきた。

 水の化け物が尾ひれを動かすと波が発生した。

 最初は小さなさざ波だったのに、下半身のひれをバタバタと振るたびに、波が加算されてあっという間に大きくなる。

 波自体に早さはないが、回避困難な広範囲攻撃はとても厄介だ。

 本来の水とは異なり魔力を帯びているので、接触すると固いことが予想できる。

 それでもこの手の魔法にはムラがあるものだ。


 波の密と疎の分布は、魔力の量にそのまま比例する。

 ケルピーの魔法は分解し難いようだけど、まったく吸収できない訳ではない。

 意を決した俺は頭部を守るように腕を前に出して、波の最も薄い部分へと飛び込む。

 触れた瞬間に分解が始まるが、消失した波の隙間に新たな水が流れ込む。

 最初は押し返される抵抗が強かったが、1度分解が始まると、取り込んだ魔力で徐々に肉体が強化され、最後にはこちらが上回る。


 波の壁を突破した俺は、踏み込みと同時に手刀の形を作った右手を1度腰まで引っ張る。

 宙に浮く馬の首元を狙って、抜刀した刃を下から振り上げる。

 実体がないので手に物理的な感触はないが、魔力の綱引きが発生する。

 俺はケルピーの身体を構成する神秘を分解しようとし、奴は本能的に守りを固めて抵抗する。


 結果、手刀を最後まで振りぬくことができずに、自身の運動量をそのまま跳ね返されることになった。

 それでも手応えはしっかりとあった。

 その証拠にケルピーの魔力が2割ほど低下し、全体的に青色が薄くなっていた。

 同じ攻撃を何度か繰り返せば、完全に分解できるはずだ。

 問題があるとすれば、佐参がこの状況を静観するのか、それとも他の手札をまだ伏せているのか。


 予想はしていたがケルピーに変化が起こった。

 俺が分解した分の魔力がそのまま回復したのだ。

 術者の佐参に魔力はほとんど残っていなかったはずだ。

 そもそも召喚の際も不自然で、大した魔力しかなかった彼の中から、突然膨れ上がった魔力が分離して馬と魚の化け物を形成した。

 召還でも、さっきの回復でも、エネルギーの収支が合わない。

 術者の佐参ではなく、どこか別の場所から魔力供給を受けているのだろうか。


「他にも協力者がいるのか?」


 駄目元で問いかけてみたが、相変わらず佐参の返答はない。

 暗がりのせいで彼の表情の微細な変化を読むこともできない。

 少なくとも周囲に魔力供給をしている人物がいたとしたら、俺が警戒していることを意思表明したことで、敵側も慎重にならざるを得ない。


 魔力の回復には上限があるのかもしれないが、先行きが見えない今の状況下で、身を削る特攻は何度もできない。

 戦い方を再び変える必要がある。

 ケルピーをくぐって、佐参を仕留めることで術を解除する。

 仲間をあぶり出すのはその後だ。


 気絶で十分ならば良いのだが、殺すことになるかもしれないな。

 術者を狙うのはセオリーに思えるかもしれないが、かなりリスクがある。

 こっちは俺1人なので、召喚獣に対する警戒を緩めることはとても恐ろしい。


 手持ちで最も殺傷能力のある得物へと利き手を伸ばす。

 装飾が施された十字型の短剣。

 精霊殺しの剣。

 その両刃はしっかりと手入れされており、相手が精霊王でなくても人の肉を裂くのには十分だ。


 佐参を基点にじりじりと横に足を進め回り込もうとするが、ケルピーがその間の配置を維持し続ける。

 もちろん彼とその使い魔だって、俺の狙いに気づいているはずだ。

 やはり隙を作り出す工夫が必要だ。


 俺は正面に飛び込むのと同時に、空いた左手で腰元の燻煙剤を掴む。

 衝撃を与えるか、水を加えるだけで人間に対しては無毒な煙幕を作り出すことができる。

 水で構成された馬の化け物に直接投げつける。

 薬品の分量を調整された燻煙剤は急激に反応を進めて、目くらましを作り出す。

 どこまで通じるか分からないが、何もしないよりはましだ。

 音や魔力でこちらの動きを感知されているならば意味がないが、視界と匂いを誤魔化すことはできる。


 煙の中心地を避けて術者の佐参へと近づく。

 ケルピーを召喚してから動きが鈍くなった彼を刺すことなど、目をつぶってでもできる。

 急所を狙う精確さよりも早さを優先して、司祭の腹部を目掛けて突きからの払いへと繋ぐ二段切りを繰り出す。

 短剣を介した切断の感触が手の中に伝わってくる。

 しかし佐参は声を一切漏らさないどころか、俺の腕や刃物に返り血すらない。


 煙はすぐに大気へと拡散して視界が回復する。

 ケルピーが佐参と俺の隙間に入り込んで、主を斬撃からかばっていたのだ。

 手刀があまり通じなかったアストラル体だが、2つの切り傷を負っており、息を荒げてうめき声のようなものを発している。

 傷口からは魔力が漏れており、補充が間に合っていない。


 俺の意図とは違うが、初めてケルピーにまともなダメージを与えることができた。

 奴を傷つけた精霊殺しの剣は、会長の主張通りならば精霊王を殺すために特化した武具。

 しかし偶然刺さった相手は精霊王じゃないのに効果を示した。

 アストラル体の馬と魚の混ざりものに刃を届かせたこの短剣は、特別な魔道具のようだが、対精霊王の武器としては紛い物かもしれない。


 違う。

 何かを否定するときは、前提条件そのものが間違っていないか、見方を変えることがとても重要だ。

『精霊王以外を傷つけたので、精霊殺しの剣は偽物』ではなく、『もし精霊殺しの剣が本物ならば目の前の存在は、


「水の精霊王……お前は契約者なのか?」

「……半分正解だ」


 ようやく佐参が一言だけ口を開いた。

 半分とは一体どういう意味だ。

 精霊王は契約者が自身の魔力の絶対量を対価として差し出すことで、ようやくこの世界に顕現できる。

 その本体は精霊界にあるので、物理攻撃も魔法攻撃もその喉元には届かない。

 地球に顕現した王の性能は支払った魔力に比例する。

 精霊王の強さに幅があるといっても、目の前のケルピーに魔法業界がひれ伏すとは思えない。

 魔力量だって大きく見積もっても、会長どころか、凛花先輩やダニエラに並ぶ程度でしかない。

 そもそも佐参が魔法使いの頂点だとはあまりのも過剰な評価だ。

 答えに辿りつくためのヒントを彼が口にした。


「王がいるならば、民がいるのも当然だろ。あんたの方こそ、その短剣はなんだ」


 伝統宗教や神話、古典科学で記述される精霊と、一般的に俺達が精霊王と呼ぶのは別の存在だ。

 精霊王は19世紀に人類に奇跡を与えた4柱のことで、契約者の対価なしにこちらの世界にあらわれることはない。

 偉大な存在として“王”という敬称が付けられているが、その配下に雑多な精霊がいるかどうかは分からないし、少なくともこの世界に顕れた報告はない。

 しかし記録にないだけでは、その可能性を否定しきれない。

 

 剣が本物なのか、目の前の化け物が精霊なのか、他の可能性も想定していたらキリがない。

 考えたいことはたくさんあるが、今は1つの事実を確信できれば十分だ。

 この手の中にある短剣は、目の前の実体無き化け物に有効だ。


 刃をちらつかせると、ケルピーはあからさまに警戒してくる。

 どうやらこいつの危険性を理解しているようだ。

 奴は俺との間に水の壁を張った。

 範囲は広くないが、相手の姿を視認できないのはとても面倒だ。

 それでも守りに入った消極的な相手など怖くない。

 反撃を受けないように隙の少ない技を重ねるだけだ。


 精霊殺しの剣を構える右腕はリラックスさせながら、ゆっくりと壁に向かって接近する。

 空いた左手で水によって作られた魔法の壁に触れる。

 分解抵抗のせいで、一瞬で吸収することはできないが、妨害がなければ十数秒で吸い尽くせる。

 徐々に薄くなる壁の先から、ケルピーと佐参の姿が見えてきた。


 水の化け物は意を決したようだ。

 前足で宙を蹴り推進力を得ると、ヒレでさらに加速する。

 自らが作った壁を破って突進してくる。

 俺は右足を後退させることで半身を引いて回避をしながら、ケルピーが通る空間に刃を置く。

 獣を斬る手応えが再び右手に伝わってくる。

 血潮の代わりに、奴の魔力が飛び散る。

 大気中に放出されたエネルギーは、吸収能力で上回る俺が奪い尽くす。


 このまま消耗戦に持ち込んでも良いが、今なら一気に攻め崩せる。

 俺は左腕を伸ばすと、痛みで減速したケルピーの傷口に、指を喰い込ませて内側を掴む。

 ほころびからどんどん魔力が溢れてくる。

 ケルピーは最後の力を振り絞って、噛みつこうと首を伸ばす。

 しかし俺はその大振りを見逃さずに、喉に刃を突き立てる。

 馬と魚が混ざった化け物は断末魔を残すことすらできないままちりになった。


 残るは佐参だ。

 召喚獣を失った彼は、現状を直視できていないのか、それとも何らかの代償を支払っているのか分からないが放心している。

 こいつは生徒会役員3人に近くもあり、真逆の性質も内包している。

 彼は強力な化け物を従え、さらに殺しにも慣れているようだが、一方で彼女らと同じく同格相手とのギリギリの戦いの経験は浅いようだ。

 だからとっておきの手札を破られたら無力だ。

 自身の力で勝利への道筋を作り出すことができなければ、逃げる判断すらもできていない。


 手早くワイヤーで両手を拘束すると、俺は佐参の目の前に落ちていたサイレンサー付きの銃を拾い上げる。

 それでも彼は抵抗してこない。


 気付け代わりに、腹を蹴り上げる。

 大して力を加えていないが、放心状態の彼は大きくのけ反り、何度もせき込んだ。

 ようやく我を取り戻した佐参は俺を睨んできた。

 ここからは戦闘ではなく、尋問の時間だ。


「さて代弁者とは何者だ。お前たちは沙耶に何をしている?」

「……」


 俺の質問に対して、佐参は沈黙を決め込んだ。

 拷問はあまり得意ではないが、目を潰したり、爪を剥いだりすることくらいはできる。

 それでもこいつが痛みで簡単に吐くたまには思えない。

 ならば彼の急所を突くしかない。


 かんさわ胸糞むなくその悪い人間の見本は、これまでにいくらでも見てきた。

 ここから先は俺自身の感情に蓋をして、嘘で塗り固める。


「九重紫苑の目的は沙耶を含む子供達を解放することだが、俺には別の仕事がある」

「……」


「彼女を拉致して、とある魔法組織へと売り渡すことだ。協力してくれるならお前にも報酬の3割を分けてやってもいい……何なら引き渡す前に2人で楽しむか? 気性は多少荒いが、見た目は悪くないからな」

「こ、このゲス野郎がぁ! 殺してや、」


 沈黙を破り怒号を上げる佐参だが、俺はすぐに彼の口を閉ざさせた。

 口元を横から蹴り、仰向けに倒れた佐参の横顔に銃口を当てる。

 たしかにゲスという評価には同意だが、こいつがそのように思ってくれているならば十分に演じられているようだ。

 威勢に比べて、彼の肉体の方はほとんど限界に近いので、そろそろ終わりにしよう。


「あまり大声を出すんじゃない。まぁ聞け。本題はここからだ。この施設には面白いもんがあるじゃないか。それを差し出すなら、俺の依頼主も九重紫苑のことを先送りにするかもしれない。こちらとしてはまとまった報酬を得られればどっちでもいい。さて、どうする?」

「……地下の連中が欲しいなら、いくらでも持っていけ……だから、紫苑のことは、たのむ」


 逡巡しゅんじゅんを見せた佐参だったが、会長のことを選んでテトラドの中核を差し出した。

 俺からしてみれば、茶番とも思えるやり取りだが、彼の優先順位を確かめることができたことは大きな収穫だ。


 銃を地面に投げると、縛っていたワイヤーを緩める。

 さすがに短剣は手放せないが、最大限譲歩できる範囲でこちらに敵意がないことを示す。


「悪かったな。紫苑をどうこうは完全に出任せの作り話だ」


 もう戦うことのできない佐参だが、俺に対する殺気はまだ残っている。

 1度敵と見なした相手を簡単に信用することができないのは当然だ。


「そもそもさらう機会なんてこれまでいくらでもあった。俺の本当の役割は逆。とあるお偉いさんから紫苑の身辺警護を任されている。今回の潜入は彼女に付き合っているだけで、紫苑が納得する形で決着すれば、正直成功しても失敗でもどちらでも良い」


 まだ隠していることはあるが、虚偽はない。

 すでに1度嘘を吐いているので、新たな偽りで取りつくろうのは危険だ。

 佐参は俺の言葉を完全には信じていないようだが、ゆっくりと体を起こして地面に腰かけ、息を整えた。

 ようやく交渉のテーブルに着いた相手に対して、俺は口火を切った。


「さて、次はお前の番だ。目的はなんだ。テトラドを本気で信仰している訳じゃないだろ」


 こちらの質問に対して彼は右手を上げて、左手を腰元に回した。

 戦意がないことは承知しているので静観する。

 彼はこちらの足元に何かを投げてきた。

 拾い上げてみると、シンプルな金属製の名刺ケース。

 中に入ったカードを1枚手に取る。

 白い背景に黒の印字。

 社名があるべき部分にはゴシック体で“魔法事務所”とだけ。

 肩書だけでなく姓すらもなく、佐参の名が続き、連絡先が記載されている。


「モグリの魔法使いか」


 佐参は何も口にしないが、その沈黙は肯定を意味する。


 魔法絡みの案件において、依頼先の選択肢は必ずしも魔法公社だけではない。

 圧倒的な勢力を誇る魔法公社には、基準をクリアした良質な魔法使いが多く在籍しており、依頼に見合った手頃な価格設定になっている。

 発足当初は魔法公社よりも安く仕事を受ける魔法使いもいたが、その多くが粗悪で依頼達成率の低さから、すぐに敬遠けいえんされることになった。

 さらに魔法公社は、他の魔法結社と取引した過去のある人物からの依頼を徹底的に断ることで、対立組織を締め出した。

 その結果、例外を除いて魔法公社以外という選択肢は消滅した。


 魔法を身近な存在にした公社だが、人々から信頼を得るために、国際法とその土地の法令を順守じゅんしゅしている。

 つまり例外というのは犯罪絡みであったり、他人に知られたくない後ろ暗い仕事だったりを受けるアウトローな連中だ。

 俺の所属も様々な法律に抵触するが、ミスターの直轄として、必要であれば平気で違法行為にも手を染める。


 組織の大小や経験の違いはあるが、目の前の佐参も社会の外こちらがわの人間。

 対峙してみて思ったが、彼の能力は潜入においてとても使い勝手が良い。

 魔法使いの完全な武装解除は不可能なので、魔力持ちは必然的に警戒されてしまう。

 一方で俺や彼のような魔力の少ない人間は持ち物検査だけで、簡単に見逃されることが多い。

 精霊に頼る偏った能力だけでは、公社でライセンスを得ることは難しい。

 しかも精霊の存在は伏せておくためにも、裏で活動する方がその特性を活かせる。


「お前の立場ならば、テトラドの会から子供達を保護するのに十分な証拠をすぐにでも集められるだろ。なぜ1年近く潜入を続けている」


 すぐには返事が来ないが、ここで折れるつもりはない。

 まだ誰も来る気配がないので、佐参が口を開くのを待ち続ける。


「……テトラドを摘発して子供達を保護したところで、また別の形で同じようなことが行われる。俺の目的は2つ。連中の裏にいるパトロンの特定。そして実行犯の科学者達を捕まえないと被害者の治療をできないかもしれない」


 これは面倒になってきた。

 理想は佐参と協力して早期解決だったのだが、俺達の存在はじっくり事を運んできた彼とって障害であり、その逆も成立している。

 どちらかが妥協するか、排除するかしなければならない。

 しかもテトラドを摘発して子供達を保護しても、それだけでは会長が納得しない可能性が浮上してきた。

 とりあえず今は吸いだせるだけ情報が欲しい。


「改めて聞く。代弁者とはなんだ。どうやってテトラド信者に属性をもたらしている。地下の施設で何をしている」


 ここに至っては、彼にとって隠す必要はないはずだ。


「代弁者が周囲の人間に一時的に属性を目覚めさせるのは副産物に過ぎない。テトラドの真の目的は、精霊の力を人類の手にすること。まだ発達途上の子供に精霊の通り道を定着させて、魔法の触媒にする」


 テトラドの活動は精霊殺しの剣以上に、この世界のバランスブレイカーになり得る。

 精霊王とその他の精霊の力の差は分からないが、魔法公社の契約者は最大4人しかいない。

 さらに代償が大きいので、顕現回数にも制限がある。

 それに対して精霊の力を引き出せる人材を無尽蔵に造り出せるならば、なびく魔法使いがいるかもれない。

 表に出ていないだけで、魔法公社に反感を持つ術者は少なくない。


 今は子供で研究しているようだが、経験を積んだ魔法使いが新たに精霊の力を得るならば世界は大きく傾く。

 それにしても今の説明だと、目の前の佐参だって、成人間際であることを除けば、特徴が合致するように思える。


「俺は先駆けになった“人工契約者の生産計画”の実験体の生き残り。テトラドでは人間を触媒に精霊の力を抽出している。しかし当時は契約者と同じ形態にこだわって、直接パスを繋いでいた。拒絶反応でほとんどが壊れていった……」


 彼は何か続きを話そうとしたが、考えを変えて口をつぐんだ。

 まだ気になることもあるが、どうやらここまでのようだ。

 今後の方針について決断する時間。

 もし彼がこちらの提案を飲まなければ、覚悟を決めなければならない。


「俺はここに長居するつもりはない。明日には子供達の保護に乗り出す。他の連中を捕えたければ、それまでに済ませな」


 こちらの一方的な提案に対して、佐参は緊張の糸が切れたのか、目をぱちくりしながら固まった。

 話を先に進めずただ返事を待つ。

 俺なりに考える時間を与えているつもりだ。


「……意外だな。情報を吐いた後は殺されると思っていたのだが、」

「あんたが死んだら、紫苑が五月蠅いからな……それに最初の一発、わざと急所を狙わなかっただろ」


 子供達の保護に失敗しても取り返しがつくが、こいつを殺したことを会長に知られたら、今後の任務に支障をきたす。


 彼女の手の内はまだ分かりきっていない。

 寝ている間に砂漠に拉致されたことがあるし、今日だって探索魔法で地下施設を発見している。

 いくら人気のない場所とはいえ、これだけ騒げば誰かが来てもおかしくない。

 もしかしたら会長が何かを仕掛けているのかもしれない。

 俺にとっての一番の制約は紫苑だが、佐参にとっての急所もまた彼女だ。


「殺されるつもりだったなら、ちょうどいい。こっちの調査にも協力しな。どちらにしても紫苑は止まらない」


 今日はこの辺りが潮時だろう。

 佐参のことは完全には信用できないので、残り少ない夜の時間は浅い眠りになりそうだ。


 ***


『殺されるつもりだったなら、ちょうどいい。こっちの調査にも協力しな。どの道紫苑は止まらない』


 そう言葉を残すと芙蓉は立ち去った。

 5年ぶりに再会した紫苑が連れて来た男。

 いけ好かない奴だが、実力は確かだ。

 能力とか以前に、単純にとても戦い慣れていた。

 俺だってこの年で危ない橋を何度も歩いて来たつもりだったが、あまりにも次元が違い過ぎる。

 命を取らなかったことだって、彼が甘いのではなく、余裕の現れに過ぎない。

 いつ裏切るのか分からない相手を傍に置くくらいならば、殺してしまった方がどれだけ楽か。


 しかし彼の言う通り、紫苑達が行動を起こすのならば、逃げられる前に実行犯の科学者を捕えたい。

 狙いを絞るならば、先ほど地下室でも対話した研究主任のあの男。

 ローズ・マクスウェルしかいない。


 彼との付き合いは長いもので、俺や紫苑が数字で呼ばれていた頃からだ。

 できることなら彼の研究が完成した段階で取り押さえたかった。

 彼の犠牲者が出るのは心苦しいが致し方ない。

 忌々しい名も無き水の精霊の呪縛から解き放たれるために、1年も反吐が出る仕事を続けてきたのに。


「おいっ、いつまで休んでいるんだ」


 斬られたくらいで消えるならば、俺だって苦労しない。

 しかし先ほどから奴の反応はなく静かなままだ。

 いつもならば消えて欲しくても、まとわりついてくる。


 5歳の時に無理矢理りつかれてから、ずっと心臓を握られているような感覚が続いている。

 痛みはないが、手の届かないところを掴まれる不快感。

 特に5年ほど前から辛くなり、このままではいけないと衝動に駆られて、九重院を飛び出した。


 ただの子供を契約者にするという計画に無茶があったのだ。

 精霊とパスを繋ぐことも大変なのだが、制御権を完全に人間側に与えようと欲を出したのが問題だった。

 結果として意思を奪われた物言わぬ精霊が生まれた。

 この不安定な状態は互いの命をむしばんだ。

 最近では俺の器からあふれ、勝手に顕現することだってある。

 もう終わりは近く今回が最後のチャンスだった。


 慎重を期すつもりだったが、紫苑の登場で歯車が加速しだした。

 明日ローズを捕えて、いよいよ俺と精霊とのパスを断ち切る。


 それにしても物言わないとはいえ、あまりにも大人しすぎる。

 そう言えば胸の辺りの障りもなくなっている。


「俺のことをからかっているのか!」


 返事はなく、夜の静けさだけが残った。

 4柱しかいない王とは違い、無数にいる雑兵に過ぎない水の精霊。

 言葉を発することはないが、俺が望もうが望まなかろうが、意思を主張してくる。

 戦闘中は俺の高ぶった感情に同調して従ってくれるが、普段は他人にバレないよう制御に苦心している。

 さっきの戦闘で奴も消耗しているが、俺だってかなり疲れている。


 些細でしかなかった違和感だが、自覚すると俺の意識を占める割合が増していった。

 このまま放置しておくことができず、足を止めて改めて確かめる。

 恐る恐る胸元に手を当てて、精神を集中させる。

 自身の深いところへと意識を伸ばすが、どこにも同居人の気配がない。


 半生以上望み続けていたことなのに、いざ訪れてみるとここまであっけないものだ。

 俺の中にいた水の精霊が死んだ。

 いや、厳密には殺されたのだ。

 芙蓉がった。


 これで俺が研究主任ローズを泳がせる意味がなくなってしまった。

 しかし唯一の能力も消えた。

 精霊がいることが当たり前だったので、目障りだった奴がいなくなると、つい頼っていたことを自覚させられてしまう。

 感傷に浸っている暇などない。

 奴がいないならば、灯りの乏しいこの廊下でまともな迎撃すらできない。

 潜入先で孤立している無防備なこの状況はかなり危険だ。


 そんな中、急に人影が近づいてきた。

 正面からゆっくりとこちらに向かって歩いて来る。

 上手くやり過ごさなければならない。

 ギリギリまで接近して、ようやく見知った顔であることが分かった。


「どう、私の後輩君は凄いでしょ」


 ガウェインに保護されてから、九重院で一緒に育った少女。

 研究所でたまに顔を合わせていたときは無感情な印象だった。

 施設で暮らすようになってからは、多少マシになったが、それでも自己主張が苦手なのは治らなかった。

 溜め込み過ぎて、1人で泣いてしまうとてももろい娘。

 面倒を見なければならない弟妹はたくさんいたが、施設を飛び出したときに彼女のことだけは気がかりだった。


 テトラドで5年ぶりに再会したときは、その変貌へんぼうっぷりに驚いた。

 言葉や仕草にはかつての面影があるが、とても明るく魅力的な子になっていた。

 俺ではどうにできなかったことを、芙蓉が変えたのだと思うと、どうにも煮え切らない感情がある。


「まさか紫苑に先を越されるとはな。あの短刀、お前の仕込みか」

「その通り! と言いたいところだけど偶然よ。後輩君に持たせたのは私だけど、佐参お兄さんがここにいるとは思わなかったわ。後輩君がやきもちを焼いてくれたのは嬉しかったけど、こうも簡単にぶつかるとは。男って単純よね」


 明るくなるのは良いことなのだが、小悪魔に進化するとは予想外だった。

 もともと掴みどころのない不思議な一面があったが、とてつもないモンスターに生まれ変わってしまったかもしれない。

 今後も彼女に付き合う芙蓉の奴はかなり苦労するだろう。


「俺だってあいつのことは好かないが、紫苑が好いているなら余計な口出しはしない。恋人を大切にしな」

「こ、恋人じゃないわよ!」


 久しぶりに彼女からマウントを取れた気がする。


「そうなのか。てっきりチューくらいはしたのかと思っていたけど」

「ちょっ、ちょっと何を言うのよ。チ、チュ、キスはしたけど、そ、それより先はまだよ」


「あの男は付き合ってもいないのに、紫苑の唇を奪ったのか。責任とってプロポーズくらいしないと俺は認めんぞ。ぶっ殺してやる!」

「さっき負けたばかりじゃない」


 ついつい感情的になってしまった。

 どうにも今の紫苑といると調子が狂ってしまう。

 しかしどうしても確認しなければならないことがある。


「……一体何を企んでいる?」

「佐参お兄さんと同じことよ。スリーが自身の運命に立ち向かったように、フォーティーンも向き合うことを決めた。たとえ変えることのできない滅びの運命だとしても、私の結末みらいは私自身で選びたい」


 彼女が口にした『みらい』という言葉は悲壮に満ちていた。


 ***

『あとがき』

潜入初日はこれにて終了です。

4章長編は14で完結を予定しておりますが、分量としてはここまでで半分です。

強敵に思えた佐参でしたが、4章の中ボスといったところでしょうか。

この先に控えるボスと比べてしまうと、もしかしたら彼はスライムやゴブリン程度かもしれません。


さてさて九重紫苑の背景が徐々に明らかになってきております。

彼女の正体も気になるところですが、その願いが何なのかもとても重要です。

紫苑は自身が世界を滅ぼさないために、完全に覚醒する前に死ぬことを決意しております。

そんな少女のささやかな祈り。

彼女が願う結末こそが、芙蓉が裏切りの騎士の道を歩くことへと繋がります。

比較的予想しやすいシンプルな答えなので、ここまでもこの先もヒントは出さないつもりです。

ぜひ最後までお付き合いください。

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