②さらば童貞? 口淫電撃作戦

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 その日、俺はAさんと二度目の二人きりになる約束をした。

 お互いの仕事の愚痴を言い合うようになったのがきっかけだった。Aさんの営業の仕事は相当しんどいようだった。毎日十何件ものアポ取りをしても一件商談に繋がるのがやっと。その上、労働時間ではなくノルマを達成したかどうかでのみ評価される。俺の知らない大人の労働の世界。

 俺は嬉しかった。Aさんが弱みを見せてくれる。俺に少しでも寄りかかってくれる。こういう時にいくらでも話を聞き、安心させてあげられるような男になりたかった。

 俺はいつもAさんに弱い部分しか見せられていない。俺も何かを与えられるようにならないと、Aさんは俺から離れていってしまう。

 だがそんなことを考えていられるのは心に余裕がある時だけだった。

 いつものようにプロデューサーに企画書を罵られ、寄る辺なく歩いている時だった。

 俺は気づいてしまった。

 今、この世界には俺の苦しみを聞いてくれる人が一人だけいる。俺はもう孤独じゃない。

 Aさんが心を預けてくれるような俺でありたい。そう思うなら弱い部分を見せてはいけないのに。帰り道、いつのまにかAさんにメッセージを送っていた。

「俺も今さっき、ちょっとしんどいことありました」

「仕事ー?」

「はい」

「話聞くよ」

 もう限界だった。

 メッセージで送るだけじゃ、この辛い気持ちは絶対にどうにもならない。一年半、ずっと抱えてきたものだったから。俺はこの壊れた一年半を、Aさんにも一緒に背負ってもらいたかった。

「今晩二人で話せませんか? VRCで」


   ×   ×   ×


 今回は俺がプライベートインスタンスを立てた。

 ワールドに選んだのはコテージが佇む夜の海辺だ。砂浜では焚き火が炊かれていた。薪が燃え、波が寄せては返し、その音が重なる。星空の下、ひっそりと立っているコテージは二人だけの密な話に丁度いい。優しい時間を過ごせそうな場所。

 ヤシの木の下で待っていると、ほどなくしてAさんがやってくる。遠くからでも桃色を基調としたアバターの色合いと、柔らかに揺れる黒髪ではっきりわかる。猫耳の生えた美少女と、俺はこれから二人きりになる。

「なんかすいません。急に呼び出しちゃって」

「もーお互い様でしょ、しんどい時は」

「そう言ってもらえると助かります」

 コテージの中に入り、ほどよい距離で向かい合う。少し手を伸ばすと鼻先に指が当たるくらいの近さ。VRではこれくらいが丁度いい。

「で、何があったの?」

 Aさんはどこか楽しげに聞いてくる。

「**くんの仕事、ちょっと気になってたんだよね」

 どこから説明したものか迷う。これまでの全ての辛さを慰めてはほしいけれど、俺の嘘つきで卑怯な部分を知られるのは困る。この人にだけは、絶対に。

「俺は……」

 その時、卑しい選択が脳裏をよぎった。

「俺、映画監督やってるんです。商業デビューまだなんですけど」

 嘘はついていなかった。 

「えー、嘘!? すごいじゃん! ヤバ!」

「いやでも全然です。企画も通らないし、それがしんどくて」

「今までVRで会った人の中でいちばんすごいんだけど!」

「俺なんかザコですよ。低予算ですし。プロデューサーと進めてるんですけど、脚本書いてもダメ出しばっかです」

「え、脚本も書けるの?」

「まあ、書けるだけですよね。俺とプロデューサーの考える面白いってのが合わないっていうか……難しいですよね」

「かっこいいじゃーん」

 自分に惚れているかもしれない女の前でカッコつけることが、こんなにも気持ちのいいことだったとは! まあ正確には男なのだが、この脳からマグマのように快楽物質が湧く感覚が、そんなことどうでもいいと言っている。

「俺、全然リアルで友達とかいないから……こうやって、頑張ってるんだって言ったのはAさんが初めてです」

「ホントに? ええー、なんか嬉しい」

 Aさんが俺の頬を優しく撫でてくれる。映画監督を目指していちばん良かったと思えた瞬間だった。多分脚本が通ったり、映画が完成したところでこの快楽には到底敵わない。

 ここには、俺を讃える女がいる!

「ずっと頑張ってたんだよね。夢を叶えるために努力できるって、すごいことじゃん」

 俺が欲しかった言葉。この人の前でなら、俺は怠惰さのツケを払いたくないと逃げ惑う弱い男じゃない。

 この女は俺を夢追い人にしてくれる。この女の前でなら、俺は才能がありながらも周囲には理解されない若き映画監督でいられる。

 才能がありながら孤独な俺と、それを献身的に支える愛らしい女!

「**くんのそういうとこ、好きだよ」

 今すぐ愛してると叫んで思い切り抱きしめたかった。俺もAさんの全部が大好きだ。誰にも譲らない。他には何も望まない。Aさんがこうして俺の頬を撫でてくれている限り、奨学金も単位数も親の視線も企画書が通らないことも、きっと全部が大丈夫になっていく。

 だってこんなにも、Aさんの指が温かいってわかるのだから。

 俺は、Aさんが好きだ。

 俺はいかに自分が映画監督を目指して苦闘の日々を送ってきたか、ひたすらAさんに語り続けた。Aさんは目の前にいる男が、大学生活五年目にして所得単位数三十一であることは知らない。

 この夜、俺は初めてAさんでオナニーをした。こんなに安らかに眠ったのは久しぶりだった。


 俺はやっと、俺自身の恋心を認めることができた。

 今すぐにでも薔薇の花束とダイヤの指輪を持ってVRに飛び込みたい。AさんとVRでセックスごっこがしたい。

 でも、拭きれない疑念がある。もちろん自分への。

 俺は現実世界で女と付き合えないから、好意を示してくれる中身が男の美少女に逃げているだけじゃないのか。好きだと言ってくれる人がいないから、Aさんを好きなんだと勘違いしているだけではないのか。

 俺は映画監督になる男だ。映画監督にネット恋愛は似合わない。

 黒澤明が現代に生きていたらVRで中身が男の美少女を好きになるだろうか? 小津安二郎は中身が男の美少女に恋をして眠れない夜を過ごすだろうか? 溝口健二は中身が男の美少女を想って日夜オナニーを繰り返すだろうか?

 おそらく答えは否だ。

 俺は映画を撮ることに興味はないが、名作を作り上げて巨匠と褒めそやされる未来の可能性は絶対に捨てたくはない。Aさんに告白して付き合うことは、輝かしい明日へと繋がる脆い橋を壊してしまう行為なのではないのか。

 VRでするセックスの真似事に満足するような男に何かが為せるとは信じられない。常に大金を持ち歩いて、デカくて美味い肉を食い、何人もの美女を抱くような男が本物なのだと俺は思う。

 VRにおける恋愛は所詮ごっこ遊び。ここは闘争領域ではない。

 この恋を唾棄しなければ、俺は前に進めない。

 

   ×   ×   ×


 その夜、俺はプロデューサーに連れられて飲み屋にいた。鳥貴族以外の飲み屋に行くのは久しぶりだった。飲み会の出席者は俺、プロデューサー、そしてプロデューサーの勤める映画会社の社長だ。

 プロデューサーは俺に自社の社長を紹介するため、三人で飲む席を設けてくれたのだ。映画会社の社長との会食。若者たる俺にとって疑いようもないほどのチャンス。しかし驚くほどに俺の心は躍らなかった。

 早く帰ってVRに行きたい。

 映画会社の社長は俺に言う。

「最近多いんだよね。キミみたいなオタクですって感じの。アイドルとか好きでしょ?」

「彼女いんの? 映画見てるばっかじゃダメだよ。若いうちに遊ばなきゃ」

「俺なんかは若いころ***と付き合ってたけどね。知らない? ほらあの、AV女優の」

「映画撮りたかったら道で喧嘩の一つでもしないと。デル・トロだってそう言ってるよ?」

 若者にご高説を垂れるのが好きな老人というのは実在する。プロデューサーはありがたい説法を聞いているかのようにうんうんと頷いていた。

 デル・トロの映画で「ブレイド2」がいちばん好きですって言ったら鼻で笑いそうな奴に、デル・トロの言葉で殴られるのがあまりにも屈辱だった。

 俺がインターネットで中身が男の美少女に恋をしていて、最近毎日そいつでオナニーしまくっていて、VRセックスごっこがしたくてたまらないのだと知ったら、この男はあらん限りの語彙を用いて俺を徹底的に罵倒するのだろう。

 飲み会を終えた俺は頭痛に唸りながら駅を目指す。飲まされたクソほども美味くない日本酒のせいで全身が最悪にされていた。

 Aさん、俺を助けてくれ。

 俺はディスコードでAさんに電話をかける。

「どうしたの?」

 その声に迷子センターで母親と再会した時の安堵を思い出す。仮に恋人が無理だとしても、Aさんは俺の母親になってくれるかもしれない。

「Aさん、俺はダメなんですよ」

 泣いてしまいそうになる。

「俺は黒澤明になれないんです。本当はクズでゴミなんですよ俺は。普通の人にできることなんにもできないんです。ちゃんとやれないことがとっくにみんなにバレてる。わかってたのに、俺は……」

「**くん、お酒飲んでる?」

「ごめんなさい。ホントに、こんなの酔っ払いのゲロなんですよ。俺の言葉全部ゲロなんです。臭くて汚い。なんかべちゃっとした日本語です。だからみんな俺と話すの嫌がるんですよ。いつまでたっても彼女できねえのも俺がゲロだからです」

「変なこと気にしすぎ。近くにコンビニある? 水買ってきなって」

「俺が変だったらなんなんですか!」

 もう立っていられない。その場に崩れ落ちた俺の膝に、ぽろぽろと涙が落ちる。

「俺、ずっとAさんに聞きたかったことがあるんです」

 困惑しているのか、Aさんは無言だ。

「Aさん、VRでセックスしたことありますか?」

 数秒の沈黙。

「まあ、あるけど……言いふらさないでね」

 クソがあああああああああよおおおおおおおおおおおおおおお。

「イったりイカされたりしたって認識でいいんですよね?」

「ちょっとなにその言い方……」

「どうなんだよ!」

「VRでえっちって、そういうことでしょ」

 こーーーのクソビッチがああああああああああああああああああああ。

「もういいですよ。俺のことは放っておいてください。どうせ俺といたって楽しくないでしょAさんは。俺は美少女アバターでもなければ可愛くもないし。同情とかほんといいんで。ごめんなさい、マジで。すみませんでした」

「ちょっと、怒るよ」

 当然の反応だ。俺は何をやってるんだろう。酒に酔って好きな人に八つ当たりだなんて最悪だ。俺はこんなことが言いたくて電話したんじゃない。本当は何がしたかった? 何が欲しかったんだ?

 全部が終わりかに思えた、その時。

「私がいるのに」

 正直、この言葉を期待していた。でも、まさか、本当に。

「へ?」

「今日何時ごろ家つくの?」

「一時間後くらいだと、思いますけど……」 

「着いたら連絡ちょうだい。インバイトで待ってるから」

 Aさんの言葉は、いつも肝心な部分が曖昧なままだ。

「ちゃんと水飲んでからじゃないとしてあげないからね」

 三度目の約束を言い残して、Aさんは通話を切る。

 帰りの電車に揺られながら、俺はペットボトルの天然水を三本も空にした。


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 走って、走って、走り続けて、ようやくたどり着いた。

 インバイトが承認され、ローディングが終わると視界が開ける。家に着いてすぐ汗まみれのままHMDを被った。そのせいで視界が曇る。息が苦しい。

 この場所に来たのはあの日の夜以来だ。二人で(500)日のサマーを見たホテル。ベッドに腰かけるようにしてAさんは俺を待っていた。足を揺らすいつもの癖が可愛く、安心感を覚える 。

 時刻は深夜一時過ぎ。Aさんは明日も仕事があるはずだった。それなのに、こうして俺を待ってくれている。それがどうしようもないほどに嬉しかった。自分が今、Aさんに迷惑をかけていることは明白だというのに。俺は肩で息をしながら声をかける。

「お待たせ、しました……ごめんなさい」

「ちょっと、息きれすぎじゃない? 大丈夫?」

「駅からここまで、走ってきましたから」

「なんでまた……」

「だって、俺があんなこと言ったのに、Aさんは待ってくれてるって……だから、やっぱり走らなきゃいけない気がして」

「そういうところが気にしすぎなんだって……お疲れ様。ありがとね」

 そう言ってAさんは笑顔で頬にキスをしてくれる。俺は何かスイッチが切れたかのように力が抜けて、椅子の上でへたり込んでしまう。

 気がつけば鼻水や涙や汗で顔面はぐちゃぐちゃだった。いくら息を吸って吐いても苦しいし、鼻水と痰が絡んだ汚い嗚咽が止まらない。酒も全然抜けてないから頭痛もひどく、汗が止まらないのに身体の芯は凍えるように寒い。胃の奥から不快な嘔吐感が迫り上げてくる。

「ごめんなさい……すぐ平気になるんでほんと、すみません……」

 必死にマイクをミュートにしようとするが、手が震えてどうにもならない。コントローラーを落としそうになる。

 小学生のころ、よくパニックを起こすとこんな風になってしまっていたことを思い出す。冷静に落ち着きを取り戻そうとするほどに、汚らしい姿を誰かに見られていることを理解してさらに苦しくなる。自分でも止められない。

「じゃあ、ぎゅーってしよっか」

 Aさんは俺を落ち着かせるため、ハグするような形で寄り添ってくれる。VRだから背中に回されたAさんの腕は視界の外にあり、見ることも感じることもできない。わかるのはAさんが俺を抱きしめるような体勢である、ということだけ。

「ゆっくりでいいからね。大丈夫だよ。深呼吸しようね」

 でもその時の俺には、それはただのハグよりよっぽど尊い行為だと感じられた。それが空疎な真似事だったとしても、そこにはAさんが俺を安心させようとしてくれる意思がある。

 それが物理的に伝わるかどうかじゃなく、そこに意思があることが何よりも仮想を現実へと限りなく近づけていく。Aさんはたった一回のハグだけで、俺に仮想世界の真実を理解させてしまったのだ。

「……落ち着いた?」

 俺はゆっくりと息を吐きながら、うなずく。

「まあ、しばらくこうしてよっか」

 鼻先が触れるほどの距離で見つめ合いながら、心地いい沈黙の時間を過ごす。時折漏れるお互いの吐息と、HMDのコツンと揺れる音。それらが静寂の中、はっきりとした存在の証左として立ち現れる。

 俺たちはここにいる。それがわかるというだけのことが、こんなにも愛おしい。

 

 そうして、どれだけの時間が経っただろうか。

「そろそろ、する?」

 するなら俺から頭を下げて頼み込むべき状況だった。なのにAさんは自分から俺に尋ねてくれる。勇気も自信も根性もない俺は、それにうなずくことすらできない。

「黙ってるならオッケーってことにしちゃうから」

 Aさんは俺の下半身に顔を埋める。そうして俺の股から搾り取るかのように、音を立てながら顔を上下させる。

 俺はAさんにフェラチオされていた。

 例えようもない感情がごちゃごちゃと無数に湧き出てくる。望み続けてきた瞬間を前にしながら、どうすればいいのかわからず立ち尽くすしかない。

「これ、エッチでしょ?」

 俺の下半身へしゃぶりつくように前後するAさんを見ながら、昔に見たVRAVをぼんやり思い出す。AV女優にフェラチオされる男の主観映像。それによりまるで自分が舐められているかのような気分を味わう。そんなVRAVと、今目の前で行われているそれでは何もかもが決定的に違った。

 他の誰でもないAさんがそこにいて、俺だけを悦ばせようとしてくれている。

 もしかしてAさんは、俺のことが好きなのかもしれない。

 俺は今、 初めて誰かに愛されているのかもしれない。

「動き、合わせて……してくれてる?」

 Aさんが俺に自慰を促す。俺は情動に頭を真っ白く塗り込められたかのような心地で、言われるがまま自分のそれへと手を伸ばす。

 この人に最後まで連れていってもらいたい。それ以外に何もいらないし、何も考えたくない。

 だがその時、予期せぬ事態に襲われた俺は一気に理性の世界へと引き戻される。

 それが、勃っていなかった。

「出そうになったら言ってね」

 ごめんなさいAさん。俺はやっぱりダメみたいです。

 人生でこれまでにないほど興奮しているはずなのに、俺のそれはだらりと芋虫の死骸がごとく沈黙している。先走りだけを垂れ流しながらぴくりともしてくれない。 醜悪な体液の滲み出るひしゃげた芋虫の残骸が、逃れようもなく俺の股間に粘着していた。

 嘘だろ。

 ふざけるな。

 昨日だって普通にオナニーできたのに、なんでこんなことになるんだ。

 どれだけ力を込めて握ろうと、俺の役立たずは少しも勃ち上がる気配がない。Aさんはそうとも知らずにフェラチオを続けてくれている。俺はどこまで男として世界に敗北すればいいのだろうか。せっかく、やっと、色んなものを越えてAさんに連れていってもらおうとしたのに。なんでこんなことで俺は。

 Aさんに勃起できないことを伝え、行為を中断してもらう手もある。それは正しい選択肢に思えた。Aさんも男だから、どうしようもない時があるというのもわかってくれるはずだ。

 でも、その屈辱に俺が耐えられる気がしなかった。

 酒に酔って泣き言を喚き散らしこんな深夜までAさん待たせ、その上パニックまで起こしたあげくに勃たないから一旦やめてくれなんて言えるわけがない。

 HMD越しなら、勃起しているかどうかなど確かめようがない。アバターの鎧が俺の不能を覆い隠してくれる。俺のそれは仮想世界でいくらでも屹立できる。

 今夜、俺が射精できなかったとしてもそんなことどうでもいい。自分の快楽よりも、俺には守るべきものがある。たとえ俺がVRでの行為ですら勃起できない弱い男だとしても、Aさんに恥をかかせるようなことだけはあってはならない。

 しかし、そうなると不安要素がもう一つ発生する。

 いったい、どのタイミングで射精したと伝えるのが自然なのだろうか?

 VR性体験の無さがゆえに、俺には正しい射精がわからない。早漏だとも思われたくないが、かといってAさんにだらだらと愛撫を続けさせるわけにもいかない。

 射精したと言わない限り、Aさんは様々な技を尽くして俺を絶頂に導こうとしてくれるだろう。二頭身で恐竜のマスコットのアバターの俺は、Aさんに性的な快楽を与えることができない。たとえ美少女アバターを纏ったとて、Aさんが過去に関係を持った相手以上に自分が性的な魅力を持てるとも思えない。

 俺が誰かを幸せにできるはずがない。俺に抱きしめられても、愛を囁かれても、きっと薄ら寒い思いをするだけで嬉しくない。俺を愛する得がない。

 俺には何もない。

 Aさんとの行為において、俺はどこまでも与えられる側でしかなかった。

 こんな俺と関係を持ったところで、Aさんは何も得しない。俺は何も返せない。だからこそ、可能な限り早く射精したと伝えるべきなのだと思う。どうせ射精できないのだから。

 そう考えると、途端に今こうしてAさんが俺に尽くしてくれる理由がいよいよわからなくなってくる。もしかして、本当に俺のことが好きなのか?

 (500)日のサマーだってそうだった。サマーはセックスさせてくれたのに、最初は真剣に付き合おうとはしなかった。映画だって、現実だって、性的に触れ合ったもの同士が必ず愛し合っているわけじゃない。

 VRでなら尚更なのではないだろうか。ここは現実以上に曖昧で不定形で空疎だ。俺にとって今夜が人生最高の一夜になったとしても、Aさんには数ある日常の一つでしかないかもしれない。誰もが同じような態度で仮想世界に向き合うわけじゃない。

 この世界ことも、俺のことも、本当はどうでもいいのかもしれない。

 俺だけが真剣になったって、こんな自分にフェラチオしてくれているこの人を困らせるだけなのかもしれない。

 もはや頭の中は行為を楽しむどころではないほどぐちゃぐちゃだった。Aさんにこの動揺を悟られないようにするだけで必死だ。泣きそうになる。

 そんなボヤける視界の中で、突然Aさんのアバターがくの字に曲がった。

「あーっ、こんな時に……」

 VIVEトラッカーの充電が切れたのだ。

 既に深夜二時も半ば。原因は明白だ。俺がAさんを待たせすぎた。

 VIVEトラッカーが無ければ、足と腰の動きを認識させられない。今のように、俺の下半身の前でしゃがみこむような体勢でのフェラチオは難しくなる。

 突然斜め上へと、滑稽な格好で吹っ飛んでいくAさんのアバター。この時、俺たちの間を繋いでいた緊張感のような何かが完全に途切れてしまった。

「ごめん、ちょっと待っててね。すぐに……」

 Aさんはトラッカーを外し、アバターを読み込みなおす。戻ってきたAさんは足腰のトラッカーが外れ、頭と両腕だけが動く状態だった。

 俺の頬を撫でながら、Aさんは言う。

「続き、どうやってしよっか……してほしいことあったら言ってね」

 この人はどこまで献身的なのだろう。まともに勃起すらできず、男として何もかもが惨めで情けないこんな俺に。でもその優しさが、恋という形をしている保証はどこにもない。

「トラッカーないと色々難しいけど、頑張ってみるからさ」

 それでも、今夜だけはこの人とずっと一緒にいたい。セックスだって、射精だってできなくて構わない。ただここにいてくれるだけでいい。ここまで心が近づいた夜なんだから、もっと触れ合っていたい。傲慢にもそう思ってしまう。身勝手なこの欲望をぶちまけてしまいたい。

 それなのに、俺の口から出たのは最悪の台詞だった。

「Aさんは、その……明日は時間とか大丈夫なんですか?」

 俺は醜い。こんなのは相手を思いやるふりをして、ただ自分の正直な気持ちを伝えることから逃げているだけだ。自分が傷つくのが怖いから。ここまでしてくれたAさんの気持ちなんか、何一つ考えちゃいない。

 Aさんの右手が俺の頬から離れていく。

「え? 私はまだ平気だけど……」

「でもこの前、毎週水曜の朝は早いって言ってたじゃないですか。俺のせいでムリとかしてほしくないですし」

 違う。こんなことが、俺はこんなことが言いたいんじゃない。

「そっか……」

 Aさんは黙り込んでしまう。

 少しの間、沈黙が続く。

 引き止めるなら今だと、本当のことを言うなら今だと、心の奥でもう一人の俺が叫ぶ。

 それなのに俺は、最後の最後で自分に自信が持てない。Aさんを信じることができない。

 Aさんは俺を哀れんでこんなことをしてくれているだけで、本当は今も明日の仕事のために早く寝たいと思っているのではないか。そう考えてしまうことをやめられない。

 それがどれだけ他人を見下した思い込みなのか、わかっていながら。

「じゃあ今日は落ちよっかな……おやすみ」

「……おやすみです」

 嫌われた、と思った。

 目の前から消えるAさんのアバター。今消えていったのは目に見えるものだけじゃない。ここから色んなことが変わっていける可能性、明日、未来。矮小な自尊感情を守るためだけに、俺はそれら全てを失った。

 この後、俺は寝る前に三回Aさんで射精した。それでも勃起は収まらず、何もかもが手遅れだった。

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