俺がVRChatで中身が男性の美少女に恋した話

オタゴン

①壮絶! 美少女は男性だった

※この物語はフィクションです。実在の人物、団体、サービスとは一切関係ありません。

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 VRChatはクソだ。

 俺はいつも孤独だった。今年で二十三歳になるがまったく友人がいない。今もクソみたいな仕事に振り回されてばかりの人生。

 そんな時VRChatの存在を知った。HMDを被ってアバターを纏い、VR空間で他のユーザーとコミュニケーションを楽しむ。

 どうせ集まるのは俺みたいな社会不適合者のオタク共なのだろう。きっと居心地がいい。

 俺は奨学金でHMDを買い、見合ったスペックのパソコンを四年のローンで購入した。合計約三十万。これで孤独が癒せるなら安いものだった。

 VRの世界が社会のどこにも居場所がないゴミ人間たちの掃き溜めでありますように。愛を込めた神への祈り。ゴミ溜めの中でなら、俺はきっと安らかに過ごせる。


   ×   ×   ×


 まず恐竜のマスコットのようなアバターを自作した。美少女アバターを買うという選択肢もあったが、大多数と同じ形に迎合するのが嫌だった。俺は俺だけのアバター、オンリーワンの存在でなければいけない。でもハイクオリティなモデルを作る技術は無く、それを学ぶのも面倒だった。

 俺はVRというぬるま湯に浸かりに来た。努力と研鑽のためじゃない。こうして二頭身マスコットの俺が誕生。この選択肢が誤りだった。

 VRパートナーという言葉がある。

 VRChat上での恋愛関係。告白をして恋人同士となる文化。ほとんどは美少女のアバターを纏った男同士。現実に敗残した性的弱者であるオタクの男同士が傷を舐めあうかのように恋愛ごっこに興じる。

 さらにはVRセックスと称してセックスの真似ごとまでする。もちろんセックスをしているように見えるのはVRの中だけで、端から見ればHMDを被りながら男がオナニーをしているだけだ。手コキもフェラチオも騎乗位も全て仮想空間でのごっこ遊び。こんなものセックスでもなんでもない。

 ただの醜悪に進化した自慰行為。反吐が出る文化だ。気持ち悪い。

 そんなものを、俺は羨ましいと思ってしまった。

 俺はリアルでもVRでも童貞だった。フェイクでもいい。俺は中身が男性の美少女にフェラチオがされたかった。二十三歳、成人男性の切実な願い。

 見渡せばみんなが美少女アバターだった。俺には意地がある。ただ可愛いと言われたいがために、なんの拘りもなく流行りに合わせた美少女を着回す連中と俺は違う。

 二頭身のアバターが俺のプライド。目立つ姿のおかげでそれなりに友達はできた。

 でも恋人はできなかった。可愛いアバターやボイスチェンジャーで美少女になりきるアイツらには、同じような美少女の恋人ができる。許せない。でも俺はマスコットだから、中身が男の美少女たちの恋愛対象にはならない。悔しい。

 中身が男の美少女に愛されたいから自分も美少女になるなんて、そんな醜悪な選択肢は許されない。それでは俺が現実で敵視してきた、他者の選択に迎合するだけでなんの自己決定の意思も持ち合わせないクズ共と同じになってしまう。一度吐いた唾は飲めない。

 結局VRに逃げても、嫉みと怨恨は俺を追いかけてきた。

 何か現実よりマシになるかもしれない。このHMDを被るだけで俺は別の何かになれるのかもしれない。そう信じた。

 それが裏切られた。このHMDは七万円もしたのに俺を恋人のできる男にはしてくれない。中身が男の美少女とセックスできるような俺にはしてくれない。

 あれは日本学生支援機構から借りた金だった。未来ある若者のための金。その金で買ったものなんだから、俺に未来を見せる義務がこのHMDにはあるはずなのに。

 みんな恋人がいて、孤独を癒してくれる誰かがいて、でもそれが俺にはいない。誰にも愛されない自分に対するどうしようもない嫌悪と、星の数ほど思いつくその理由に押しつぶされる感覚。

 それが嫌でVRに逃げてきた。でもVRの世界でも俺は持たざる側の人間になってしまった。

 もう他にどこに逃げればいいのかわからない。

 中身が男の美少女にすら愛されない俺に誰がキスをしてくれるというのだろうか。こんなのは俺が欲しかったものじゃない。

 VRの世界には未来とやらがあるとみんなは言う。そのみんなの中に俺はいない。

 時代が変わるとか御大層なお題目を掲げる奴もいる。時代じゃなくまず俺を変えてくれ。

 俺がセックスできない未来ならぶっ壊れろ。

 みんなが幸せになって俺だけが取り残されたままなんていうのは絶対に間違ってる。

 みんな死ね。

 セックスさせろ。


   ×   ×   ×


 でも、そんな俺を見てくれている人がいた

 それはAさんというフレンドだ。

 猫耳のついた美少女の販売モデルを改変したアバターを好んで使っている。桃色を基調として改変された制服を着て、長い黒髪をダイナミックボーンでふわふわと揺らしながら歩く姿が素敵だった。

 身長は俺より少し低いくらいで、いつも少し見上げながら目を見て話してくれる。フルトラッキングだけどいつも椅子に座っていて、楽しくなってくると足をふわふわ揺らし始めるのが可愛い。

 中性的で癒しを感じられる声も魅力的だった。「**くん」と呼ばれる度に、少し背筋がドキリとしてしまう。

 しかしもちろん中身は男。これは仲良くなってから知ったが、Aさんは俺の三歳上の二十六歳。都内で営業として働いているそうだ。

 仲良くなったのは映画の話がきっかけだった。

 VRChatにアニメや漫画が好きな人は多いが、映画好きは少ない。Aさんはマーク・ウェブと岩井俊二が好きだった。俺もそのあたりの監督の映画はだいたい抑えていたから、俺たちはすぐに仲良くなった。

 俺は映画の話になると少し喋りすぎてしまう癖がある。でもAさんは俺が話すことを全部楽しそうに聞いてくれた。猫耳を左右にゆっくり揺らしながら「うんうん」と俺の話に相槌を打ってくれるのだ。その笑顔を、可愛いと思った。

 そのうち、Aさんは頻繁に俺のいるインスタンスに顔を出すようになった。

「なんか俺たち、最近よく会いますよね」

「私、**くん見かけたらジョインするようにしてるからね」

 誰かが俺と話したいと思ってくれて、しかも頻繁に会いにきてくれるようになるなんて、想像したこともなかった。みんなで輪になって話している時も、気づけばAさんはいつも俺の隣にいた。

 良い友だちができてよかった。最初はそう思っていた。


 でも事情が変わってきた。最初にそれを感じたのは、初めてプライベートインスタンスで二人きりになった時。プライベートインスタンスとは、そのインスタンスのオーナーの承認がなければ入ることはできない場所のことだ。

 俺たちはVRChat内で酒を飲みながら、マーク・ウェブの「(500)日のサマー」を一緒に見る約束だった。

 Aさんがワールドに選んだのは、狭いホテルの個室のような場所だった。電球色の暖かいオレンジ色に照らされた一室に、ダブルベッドが置かれている。そこはユーザー同士が二人きりでVRセックスをするのに有名な場所だった。インスタンスの定員人数も二人までに制限されている。

「ホントにここで見るんですか?」

「二人ならちょうどいい広さかなーって」

 少し戸惑う俺にいたずらっぽくAさんは言う。Aさんのアバターはスカートが短く、誘惑するように舌を出す表情もできるようになっている。

 たまに俺にその表情を見せては、ドキリとする俺をからかうような人だった。俺に意識させようとしているのだろうかと考えてしまう。

 そんなやりとりもほどほどに酒を開けて乾杯、OVRdropを展開して(500)日のサマーを見始める。

 ローカルでお互いのHMDの画面に映画を表示し、タイミングを合わせて再生ボタンを押す。それがVRChatで映画を一緒に見る方法だ。

 Aさんと同時に「せーの」のかけ声で再生ボタンを押す時、俺は幸せだった。お互いにに同じものを見て、同じものを感じようとしていることがわかる。それが嬉しい。

 この映画は建築家になることを夢見る青臭い主人公が小悪魔のような女性であるサマーに恋をする物語だ。運命の恋を信じる主人公はサマーへ果敢にアプローチをかけて遂に一夜を共にするが、サマーにとって主人公はただの友達でしかなかった。男女のどうしようもないすれ違いを描いた映画で、正直特筆して好きな映画ではなかった。銃撃戦もないし、怪獣も出ない。

 でも隣に美少女がいるVR空間で見る初めての映画としては、悪くない気がした。そもそも人と一緒に映画を見るというのが久しぶりだった。そういえば映画鑑賞というのは二人以上でもプレイ可能だったのだ。


 映画が半分ほど進んだところでストロングゼロの500の缶が空になる。心地よい暖かさの中で隣を見ると、じっと画面を見るAさんの横顔がある。

 その頬があと少し寄ればキスできる位置にあることに気づいて、動悸が激しくなる。きっと酒のせい。

 突然、Aさんは俺に肩を寄せるように近づいてくる。何も言わずに映画を見ているAさん。何を考えているかわからない。俺も何事もないかのように映画に集中するフリをする。

 自分の肩を見ればAさんの頭がそこに寄りかかっている。くすぐるように俺の頬に触れるAさんの猫耳。もちろんそれはVR上のことであって、俺自身の肩にも頬にも何も触れてなんかいない。

 本物の俺はホテルの個室ではなく、カップ麺の空き容器と読みかけの本が散乱する暗く汚くて狭い部屋にいる。おまけに隣にいる美少女の中身は男なのだ。

 Aさんは男。心の中で念仏がごとく何度も唱える。映画の内容が頭に入ってこない。

 肩をぴくりとも動かしてはならない気がしてしまう。肩の動きなんてトラッキングされていないのに。俺の肩はVRに繋がってなんかいない。でもAさんを感じてしまう。振り切ることができない。

 Aさんが酒を飲み、ごくりと喉を鳴らす小さな音が耳元で聞こえる。仮想と現実を隔てる水面がどろりと揺れる音だ。

 映画が終わってもAさんは俺の肩から頭を離そうとはしない。俺たちはお互いの近すぎる距離に触れないまま、映画の感想を語り合った。

 Aさんも俺も酒がまだ残っている。俺はストロングゼロの二缶めを半分ほど開けたところだ。

「やっぱサマーってクソ女でしょ」

「ホント、俺ら男からしたらどういうことだって感じですよ」

「ね、シャワーしながらあそこまでさせてくれたのにさ」

 不思議な感覚だった。目の前にいるのは確かに美少女なのに、俺たちは(500)日のサマーの感想を男の目線で語り合っている。Aさんは俺と同じように、主人公を振り回すサマーはクソ女だけど最高なのだと言う。

 それは明らかに男の声なのに、なぜか俺の耳をくすぐってくる。同じ目線で通じ合うものがあって、それが男同士だからというのがわかるのに、俺はガールフレンドができたらこんな風なのかと思ってしまう。

「コピー室でキスするシーン、最高だよね」

 キスできる距離で、Aさんはそう言う。

「俺も憧れます。キスとかしたことないんで」

「私もリアルではないなぁ」

「Aさんの周り、可愛い子多くて羨ましいですよ。俺はVRでもそういうのないですし」

 俺はとにかくキスをしたことがないと強調する。

「ウソだぁ。**くんも一回くらいはあるでしょ」

「ホント無いです。マジで」

「え、なにキスしたいの?」

「そりゃあしたいですよ。でも俺モテないんで」

 Aさんとしたいです、とは口が裂けても言えない。

「じゃあ、する?」

 望んでいた言葉がやってきた。それなのに。

「いやいいですよ別に。Aさんだって嫌でしょ、俺となんて」

 あまりにも滑稽すぎる予防線の張り方に自分でも驚く。

「別に私イヤじゃないけど。みんなキスくらい普通にするじゃん」

 確かにAさんの言う通りだった。

 美少女アバター同士、キスくらい挨拶のようにしている人たちはよく見かける。何も実際に唇が触れ合うわけではない。CGモデルがこちらに近づいてくるだけのキスごっこだ。

 そんなことはわかっている。

「んーっ」

 わかっている、つもりだった。

 Aさんがグズグズする俺に突然キスをしてきた。

 HMDにはAさんのアバターの目を閉じたキス顔が、鼻から上だけ映っている。それなのに、これほどまでAさんの唇の存在を感じるのはなぜだろう。思わずうっと声が出てしまう。

「はい、ファーストキス終了~」

 キスの余韻を奪い去るかのようにAさんが言う。きっと何もかも見通されている。何を言えばいいのかわからなかった。

「あの、えっと、ありがとうございます」

「そんな大げさだってえ」

「大げさでもなんでもないですよ。俺VRでもこんなアバターだから、貴重な機会です」

 酒が回りすぎた。これ以上喋ってはいけないと理性からの警告。

「みんないちゃついてて、でも俺は輪の外からそれ見てるばっかなんですよ。VRパートナーとかいうのもふざけんなって思うし、今日だってこんなラブホみたいなワールド来るの初めてで。だから俺は……」

 俺は何が欲しくて、こんなことAさんに言ってるんだろう。

「だいたい今日だってAさんこんなワールド立てて、俺が勘違いでもしたらどうするんですか。俺キモいんですぐ粘着しますよ。だってクソ童貞ですから。しょうがないじゃないですか。勘違いさせたいのかよってなるじゃないですか。俺ダメなんですよ」

 最終的に謎の自虐に帰結する。

 ずっとVRChatにいながらひた隠しに思ってきたことを、何もかもぶちまけてしまった。完全に異常者だと思われた。

 向こうからしたらちょっと映画を二人で見ていたら、突然隣の二頭身マスコット恐竜が発狂し始めたように見えるのだろう。恐怖体験すぎる。


「私は**くんのこと好きだけどなー」


 は?

 一瞬思考が沸騰する。

 もちろん友達として、という意味だろう。

 そうに違いない。

 気が付けば額から汗が噴き出していた。

 HMDの画面が、よく見えない。

「あ、ありがとうございます」

 絞り出した精一杯の言葉だった。

「えー、それだけ?」

 それだけってどういうことなんだ。

 問いただしたい。

 それなのに、俺は黙り込んでしまう。

 しばらく続く無言の時間。

 お互いにゆらゆらと揺れながら見つめ合う。黙って動かないままだと回線が切れて落ちたと思われてしまうから。無言であるということを表現するため、俺たちはお互いに揺れ動く。運動による沈黙。時折「んー?」と声を出すAさん。

 多分、俺が何か言わなきゃいけない。


 そうしてどれだけ時間が過ぎただろう。おもむろにAさんが言った。

「そろそろ寝よっかなー。**くんどうする?」

 何か大きなチャンスを逸した気がした。

 それはもう二度と戻ってはこなくて、俺の人生を大きく二分するような何かだった。

 何もかもが手遅れになってしまったのかもしれない。それなのに、この安堵はなんなのだろう。

「俺も寝ます」

「じゃ、私ここでそのまま寝ちゃうね」

 Aさんはリアルでベッドにでも横になったのだろうか、その場で眠り始める。おそらくHMDは被ったままだ。

 VRでの睡眠は横に誰かがいないとあまり意味がない。そしてここは他のユーザーが入ってこられないプライベートインスタンス。今ここで一緒に眠れるのは俺だけだ。

 Aさんは一言も、一緒に寝ようとは言っていない。

 これからここに人を呼ぶのだろうか。でもAさんはもう眠り始めている。

 俺が、この人の隣で寝てもいいのだろうか。

 答えは出ない。

 だから、何も言わずに俺もここで寝ることにした。

 まるでそれが当たり前であるかのように。

 おやすみの挨拶すらする勇気がない。俺は無言で椅子からベッドに移動し、HMDを付けたまま横になる。

 隣にはAさんのアバターが目を閉じて眠っている。それはさっきのキスの表情と同じだった。二頭身マスコット恐竜の俺は、キスも添い寝もすることになるなんて思っていなかったから、この状況に適した表情がない。アニメーションオーバーライドとシェイプキーを設定しなければ、この世界では笑うことすらできない。

 このままではAさんの方を向けない。俺は壁を見て眠った。画面に見えないはずなのに、背中にはAさんの暖かさを感じた。

 翌朝、起きた時にはAさんはいなくなっていた。


   /2


 あの夜から何日かが過ぎた。

 俺は仕事の都合で数日VRChatには入れず、結局Aさんと再び会ったのは四日後だった。

 フレンドプラスのインスタンスにいるAさんへとジョインした俺は何事もなかった風を装い、俺たちは他のフレンドたちの前でいつも通り過ごした。

まるであの夜のことには触れないと、無言のうちに確約するかのように。

 距離感が近すぎることも遠すぎることもない。事実何もなかったのだから当たり前とも言えるかもしれない。俺たちはただキスをして一緒に寝ただけだ。カップルでなくたってやっているVRChatユーザーたちはいる。俺が現実の女性と同じ距離感を、仮想世界の男性に感じてしまっているだけだ。

 いくらそう思おうとしても、あの言葉が脳裏から離れない。


「私は**くんのこと好きだけどなー」


 誰かに好きだと言われたのは初めてだった。

 でもそれがどういう形の好意かに確信が持てない。もしこれが現実だったなら、肩を寄せられキスをされたともなれば相手には明確な恋愛感情があるに違いないはずだった。

 でもVRとなると事が違ってくる。VR内での距離感はユーザー毎に千差万別だ。HMD越しに見える仮想世界。それをゲーム画面と見るか、身体感覚の延長と感じるか。友人同士のコミュニケーションでキスをするユーザーもいれば、それらを許すのはパートナーだけというユーザーもいる。

 Aさんは明らかに前者だ。よくフレンドの美少女アバターと遊びのキスをしている。だからといってあの夜のキスが、他のフレンドにするそれと当価値とは思えない。俺はあのキスに重力を感じた。

 何よりあれは、俺にとって初めてのキスだった。たとえそれがインターネットで美少女の皮を被った男としたキスごっこだったとしても。俺にとってはやっぱり、どうしようもないほどにファーストキスなのだ。それを特別ではないと、仮想世界では路傍の石のように転がっているものなんだと認めたくはない。

 エゴで事実を歪めてしまいたくなる。あの人はあの夜、確かに俺の前で女になっていたのだと。

 誰もがVRで自分の性別を明確に意識しているわけじゃない。普段は美少女のアバターを着ているだけの男であるユーザーが、誰かの前では心まで女のように塗り替わる時もある。全ては曖昧で不定形、常に変化していく。

 そんな中で一番わからないのは、俺がAさんのことを好きなのかどうかということだった。


   ×   ×   ×


 結局なんの変化もなく、あの夜の記憶も茫漠とした日常に溶けていけば、どれだけよかっただろうか。だが現実は流動する。同じ場所に留まってはいられない。

 ある日、ディスコードにAさんからのメッセージが来た。映画鑑賞会の日程調整をするため、こちらでもフレンドになっていたのだ。

「遊び見たよ〜この前おすすめしてくれたやつ」

 この『遊び』とは一九七一年の映画のことだ。増村保造が倒産直前の大映で撮った最後の作品。マーク・ウェブの映画における男女のままならなさ、岩井俊二の映画におけるセカイの閉塞感。それらが好きだというAさんにおすすめしたのがこの『遊び』だった。ヤクザの使いパシリの少年と、父親の借金を返すためにキャバレーに勤めようとする少女が恋に落ちる話。

 六十年代の高度経済成長が終焉へ近づき、第一次オイルショックを目前に控えた低迷への予感を匂わせる七十年代初頭の日本。その底辺で出会う二人の、あまりにもどん詰まりなボーイミーツガール。

 古いせいで興味はないだろうと思っていた。見てもらえるかじゃない。俺はAさんの特別になりたかった。だから絶対、誰も紹介しないであろう映画を教える必要があった。

 映画なんてどうでもいい。俺を見て欲しかった。

 それがまさか本当に見てもらえるなんて。なんと俺がおすすめした映画を見てくれる人類は実在したのだ。衝撃の真実。嬉しかった。

 もしかして、俺とこうしてディスコードで会話するきっかけが欲しくて見てくれたのではないか。そう都合のいい妄想をしてしまう。そんなはずはない。Aさんは俺ではなく映画を見ているのだ。自分にそう言い聞かせた。


 このことがきっかけで俺たちはディスコードで頻繁にやりとりをするようになった。俺たちはVRの外でも言葉を交わすようになっていった。朝にはおはようと挨拶をし、昼飯が美味しそうだったら見せ合って、仕事が終わればお疲れ様とお互いを労う。Aさんとのやりとりはいつの間にか日常のサイクルの一部となっていった。

 Aさんが俺に何か言葉をかけてくれる度に、飛び上がるほど嬉しかった。自分からAさんにメッセージを送る勇気はなかったから、俺は毎日悶々としながらスマホを握るしかない。メッセージが届いても毎回すぐ返信すると気持ち悪いと思われるから、必ず一時間ほど時間をあけた。

 自分がAさんに粘着するような男になってしまうのは耐えられない。だから自分からは何も送らないし、返事も必ず時間を開ける。

 Aさんは毎日なんてことないささいなメッセージを送り続けてくれた。それは俺にとって、VR世界を超えて現実へと伸びてくるAさんの救いの手だった。

 仮想現実で出会ったあの人は、俺のクソみたいな現実にまで、間違いなく光を与えてくれていたのだ。


   ×   ×   ×


 少し現実の話をしよう。

 俺は自主映画監督をやっている二十三歳の男だ。

 今は大学を休学しながら初監督の商業映画の完成を目指し、プロデューサーと企画を進めている最中だ。

 映画監督を目指し始めたのは、十分ほどの短編映画で小さな賞を取ったことがきっかけだった。全霊を込めて撮った七十分の長編はぴあフィルムフェスティバルに出しても掠りもしなかったが、その前に軽い気持ちで撮った短編の方が賞を取った。出品したことも忘れていた作品で、山荘で殺人鬼の姉妹に青年が殺される映画だった気がする。大学にいた頃に撮った作品で、役者はみんな映画研究会の後輩だ。

 

 大学に入ってすぐ俺は映画研究会に所属した。そしてひたすら映画を見ては撮るだけの生活を過ごした。大学についたらまず教室を借用。そしてレンタルDVDをプロジェクターで上映し、何本か見たら近場の名画座かシネコンに行く。

 昔から映画は好きだった。映研に入ってからはそれが歪なプライドになった。

 サークルの中で俺は他の部員に比べ、明らかに映画をたくさん見ていた。撮影と編集ができるというだけで俺は尊敬された。初めて知った、人として認められる喜び。

 今思うと、あの頃は映画作りよりそれによって周囲に承認されることが嬉しかった気がする。このまま映画を撮っていれば彼女だってできるかもしれないと思っていた。脚本を書いた分だけ、カメラを回した分だけ、カットを繋いだ分だけ誰かに愛される気がした。


 そうして大学三年生になった時、俺の所得単位数は三十一だった。卒業に必要な単位数は確か百二十といくつだった気がするが忘れた。授業にまともに出たのは一年のころだけだった。今は休学して二年目で大学生活五年目。もちろん単位数は変わらず。

 授業に出られないクズな自分を隠したくて映画にのめりこんだ。

 俺には才能があり、監督として大成するのだから単位なんか取れなくていい。映画で成功してしまえば大学を中退しようが誰にも文句は言われないですむ。

 庵野秀明だって大阪芸大を放校処分にされている。俺は庵野秀明になる男だ。俺は所得単位数三十一の庵野になるんだ。取り返せない怠惰のツケを清算するため、俺は映画監督になる決意をした。若者の輝かしい夢が生まれる瞬間だ。俺は作品を次々と映画祭に出品し、小さな賞を取った。

 賞を取った俺はすぐさま両親に頭を下げた。

 映画監督になりたいから休学させてくれと。とにかく時間を稼ぎたかった。両親には条件を提示された。

 二年の休学期間中、つまり大学生活五年目が終わるまでに成果が出なければ復学して就職すること。俺の大学は二年以上の休学が許されない。両親は俺が大学生活三年間で順調に単位を取っていて、あと一年あれば卒業できると思っていた。あと三年は卒業にかかるとは言えなかった。

 でも、この二年の間に映画監督として成功して退学してしまえば問題ない。まだ俺の嘘と怠惰はどうにかできる。俺はこの瞬間、今までの人生でいちばん映画監督になりたいと感じた。俺は夢にときめく好青年だ。自分自身にそう言い聞かせた。決して逃げてなんかいない。俺は心の底から映画監督になりたい純粋な男!


 そんな時、チャンスが訪れた。

 俺の短編映画を見た独立系映画会社のプロデューサーがウチで長編を撮らないかと声をかけてくれたのだ。その会社はインディーズ出身の学生監督に、よく低予算で商業作品を撮らせることで有名だった。俺は二つ返事でその話を受けた。

 それが大学生活四年目の夏のこと。この頃から映研には行かなくなっていた。

 プロデューサーが提示した企画はこうだった。

 動画サイトで一話十分の映像を八週連続で公開。数ヶ月後に特別編集版と題して八本を一つにまとめたフィルムをミニシアター系で上映する。主演は売り出し中の若手女優で、今作が初主演となる。決まっているのはそこまでで企画と脚本はこれから俺とプロデューサーで開発していく。

 正直、企画の詳細などどうでもよかった。商業作品として名前が出て、退学の言い訳になればそれでいい。

 しかしプロデューサーもまた俺に条件を提示してきた。

 少なくとも映画が完成するまでは大学を休学や退学してはならない。授業に出て単位を取る。それがこの作品を監督する条件。

 企画が潰れた時、俺の人生への責任が負えないというのが理由だ。俺はプロデューサーにも自分の大学生活の状況は喋っていなかった。既に休学していて三十一単位しか取っていないことをバカ正直にバラせばこの話は消えてしまう。それだけはダメだ。

 俺は一留が決まっているが来年には卒業できると、再び嘘をついた。

 そうして無事、プロデューサーと企画書を作り始めることとなった。休学期間は再来年の春まである。それまでには完パケしているだろう。作品が出来上がってしまえばこっちのものだ。仮にこのプロデューサーとこの先に仕事が続かなくても、名前さえ出せてしまえば仕事はいくらでも取れるはず。

 誰もが俺が映画に挫折しても、簡単に卒業して就職できると思っている。俺の人生は替えがきくと安心している。俺は独り、人生が壊れる予兆に震えていた。誰にも言い出せない嘘を抱えることが、これほどまでに苦しいなんて思わなかった。

 

 映画の企画は二転三転した。

 毎週何本もの企画書を出してはその全てが書き直し。プロデューサーは本当に俺に撮らせる気があるのか何度も疑った。

 そのうちにアイディアもやりたいことも尽き、自分でも何が面白いのかわからない企画書を出すしかなくなる。そもそも映画が撮りたいわけではなく、ただこの地獄からアガって楽になりたいだけの俺に、どんな映画が考えられるというのか。

 何本かの企画書は脚本段階まで進んだが、毎回いくらか改稿を重ねたところでプロデューサーの鶴の一声と共にボツにされてしまう。

 いかにプロデューサーを納得させるかだけで企画書と脚本を書いた。

 毎週行う会議の二日前には原稿を送っていたのが、気がつけば会議の数時間前にやっとの思いで提出するのが常態化していた。そして毎回そのことを会議前にプロデューサーから叱られる。遅すぎる、やる気があるのかと。授業とレポートが大変でと苦し紛れに言い訳するが、もちろん大学になんか行っていないからそんなものはない。

 こういうことが重なると会議の中でプロデューサーに自信を持って発言できなくなっていく。常に腹の内側でナメクジが這うような吐き気がする。借金地獄から抜け出せないクズというのはこういう気分なのではないだろうか。

 そうして今、大学生活五年目の秋となっても企画はいっこうに進んでいない。途中で半年ほどプロデューサーが別件で打ち合わせを完全に止めたのが手痛かった。

 

 毎晩ベッドに入る度に泣きそうになりながら明日にならないでくれと祈る。進まない企画のことを思い出すからほとんど映画は見なくなった。映画だけでなく物語そのものが嫌いになり、小説もアニメも遠ざけるようになった。

 企画に必死で映研に行かなくなって、友達がいなくなった。少し顔を出さないだけで疎遠になってしまうような関係性しか築けていなかったことを思い知らされた。

 家にいるだけで親の視線が辛い。いつ嘘を見抜かれるのかと思うと心が休まらない。どこにいても見えない誰かに糾弾されているようで、叫び出しそうになる。

 そうしてやっと思い知らされる。自分がどうしようもなくクズであること。

 

 俺には全てを忘れさせてくれる娯楽、そして嘘をつく必要のない友達が必要だった。心安らかでいられる場所。それだけでいい。この孤独で狭くて息ができない俺の人生からの逃避。

 そんな時、VRChatの存在を知った。 VR、仮想現実。これだと思った。この場所なら、誰も俺の心を揺らがし苦しめるようなことはしない。俺はそう信じた。

 ここ一年、俺はプロデューサーの知り合いを紹介してもらい、ノンクレジットで撮影や編集の手伝いをして日銭を稼いでいる。ほとんどは一日拘束されて五千円ほどしか貰えない。というか金を払わず現場が解散することも多い。

 金は出せないが手伝いがほしいという時に呼ばれるのが俺だった。どの現場でもいちばん年下は俺。こんな仕事をなぜ受けるのかと言われれば、それはコネのためだ。今の俺に手が届く映像関係の仕事はこのあたりしかない。

 散々ボロ切れみたいに扱われ、帰ってきたらHMDを被る。

 誰がどう見てもこの状況を作り出したのは俺だ。

 全部俺のせいだ。

 そんなことは俺がいちばんよくわかっている。

 だから苦しくて辛くて泣きそうなのを全部我慢しろだなんて、俺には耐えられない。

 ふざけるな。なんで俺がこんな思いしなくちゃいけないんだ。俺は誰かを傷つけたりしたわけじゃない。

 だから俺は仮想世界に逃げていいんだ。誰だってそうやって生きている。楽しいことだけを数珠のように繋げて生きていたいと思うことの、何がいけないのか。


 こんな俺でも、やっと希望を見つけた。Aさんが愛してくれるなら、俺は全てから解放されるかもしれない。

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