第166話 Pー4 花田虹橋

 花田虹橋はなだアルクは下校中、急にゲーム内に囚われていた頃の記憶が戻った。なぜか。


 それは今日、ユウがパンツではなくスカートを履いたからか、それとも普段から感じている言葉にできない何かが急に引き抜かれたからか。


 どちらかはわからない。


 けれど、ゲーム内に囚われていた頃の記憶が急に戻ったことは事実である。


 当時の記憶が蓋からとめどなく溢れ出てきて、意識が奪われた。

 蓋が開き、記憶が鮮明に蘇り、一つことがまた別の記憶を呼び起こさせ、連鎖的に記憶という暴力がアルクを襲った。


 アルクは感情的に、逃げるように走り、家に着くや、すぐに自室に入り、ベッドにダイブした。うつ伏せになり、掛け布団にしがみつく。


 心を落ち着かせようとするも、溢れた記憶は心を掻き乱し、感情を揺さぶる。

 そしてなぜ忘れていたのかという悔恨もアルクを襲う。


 アルクはそれらせめぎ合う感情や悔恨に体を縮こませ、落ち着くのを待つ。


 どれくらい時間が経ったのか。長い間うなされていたかもしれないし、短い間だったのかもしれない。


 アルクはスマホで時間を確認した。

 家に着いた時間は分からないが、いつもの帰宅時間と照らし合わせ、自分が30分以上うなされていたと考えた。


「私は……」


 アルクはベッドへと座り直す。そして壁に後頭部を当てる。

 目を瞑り、整理をする。


 ゲーム内の囚われていた頃の記憶は事実だ。

 だが、囚われずに現実世界で生活していたのも事実だ。

 どちらが本物か?


「…………」


 どちらも本物にしか思えなかった。


 冷静になり、自分以外の……ユウについて考えた。

 ユウには記憶があるのか?


 アルクはスマホを取り出し、電話帳のアプリを開く。しかし、あとは通話をタップするところで指が止まる。


 何と伝えれば良いのか?

 悩んでいるとスマホから通話音が鳴った。


「おっ!? わわっ!?」


 アルクは驚き、スマホを手の中で跳ねさせる。画面見ると相手はくだんのユウだった。


「ヒュウー、ひょーしたの?」


 つい声が裏返ってしまった。


『え、えっと、明日の英語の件だけど? なんかあった?』

「ううん! 別に! なんにもない!」

『そう?』

「で、何?」

『え? だからの英語グラマーの件だけど?』

「分かってる。で、グラマーが何? 宿題?」

『……明日はテキストを使うって言ってたけど、明日は仮定法過去完了のとこだっけ?』

「ええと待って」


 アルクは目を瞑り、前回のグラマーの授業について思い出す。

 確かに教師はチャイム前に、次はテキストを使い、仮定法過去完了について授業をすると言っていた。


「うん。仮定法過去完了だよ」

『やっぱり。でも仮定法過去はやらないのかな? ページ順では仮定法過去なんだけど?』

「ちょっと待って」


 アルクはスクールバッグから英語のテキストブックを取り出した。そしてページを捲り、確認する。


「本当だ。先に仮定法過去があるね。たぶんそこからじゃない?」

『そっか。それじゃあ、仮定法過去完了まではやっとくべきかな?』

「どうしたの? えらくやる気ね」

『そりゃあ、テキスト使うってことはその後、問題集も使うってことでしょ? 次は私の列辺りが当てられそうだし』


 教師が生徒を当てる際、よくあるのが日付である。しかし、グラマーはよく生徒に問題を解かせて、当てて答えさせるということが多いため、前回の当てた列の次の列から当ててくる。そして次の列はユウの席がある列だ。


「なるほどね。でも、仮定法過去完了も一年の時に習ったから問題ないでしょ?」

『……いや、一年の時なんて触りじゃん』

「まあね。難易度が上がるよね。私、苦手」

『私はリーディングが駄目』


 アルク達が通う高校では一年次は普通の英語の授業がある。文を読ませて、次は翻訳。そして時折、新しい文法を教わるというもの。


 それが二年次になると英語はグラマーとリーディングに別れる。

 グラマーは文法。リーディングは長文読解。そして問題の難易度が抜群に跳ね上がる。


「分かる。私もリーディングは駄目。英語というより、あの授業が嫌」

『うんうん、分かる。月岡のやつ、黒板を一切使わずに駄弁だべってるだけだもん』


 月岡はリーディングの教師である。

 そしてそのリーディングの授業は黒板を使わないのだ。月岡曰く、「大学では板書なんて基本ない」とか。


 さらに長文を教師が訳すこともなく、生徒にも訳させることもなく、asが前置詞か接続詞であるか等、節と句、熟語の説明ばかりであり、しまいには「俺ならこういう英文にするな」とリライトをする。


 特に厄介なのが、英文を分解した時にその節が名詞節、副詞節、形容詞節のどれに当てはまるか、そしてどこに修飾しているかという解読説明がきつい。それゆえに生徒からは意識高い授業なんて陰で揶揄やゆされている。


 そういったことは、初見では教師の言っていることが日本語なのにさっぱりであり、生徒達には英語よりもまず日本語の意味を知らないといけないというジレンマが発生する。


「でもその分、グラマーは楽でしょ?」

『まあ、楽というか、授業は分かり易いけど、やっぱり難しい』

「ユウって英語苦手だっけ?」


 アルクの記憶ではユウは得意だったはず。


『苦手じゃないよ』

「なら記憶に何かある?」

『え? 記憶?』

「いや、何でもない。ごめん、忘れて」


  ◯ ◯ ◯


 ──あれ? 「私」って言ってなかった?


 通話後、アルクは違和感に気付いた。


 ユウの一人称は「俺」のはず。勿論、それは絶対ではない。大人や目上には「私」や「自分」と一人称を変える。

 だが、アルクに対して「私」と使ったことはない。


 ──やっぱり記憶?


 だがゲーム内に囚われていた頃の記憶がないとしても、ユウは「私」と言うだろうか。


 ──ユウではない? いや、さすがに別人は……違う。


 でもどこかモヤモヤする。

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