第50話 物見遊山
宿の一階には小さなカフェのような空間があり、そこでパンとコーヒーで腹拵えを済ませた。サーシャはテーブルの上に地図を広げ、俺にこのバイネルという場所について説明を始めた。
「今、この駅前の繁華街にいますね? 例の徘徊する"呪いの人形"が目撃されているのは、ここから北に行った湖の近くです。お金持ちの別荘とかが並んでいるあたりですね」
「……しかし今更だが、どうやって調査するんだ? 何所に現れるかは見当もつかないんだろう?」
「夕方ごろからその辺りに張り込むしかないでしょうね。この宿は一週間予約を取っています。ケイスさんの説明では、目撃頻度はおおよそ三日に一回だとか。人づてに噂が広がって、そういう変な話が好きな人が集まってきているので、目撃報告の件数が一気に上がったとか」
「……リーベルンと戦争中だってのに随分とお気楽な奴が多いもんだ」
俺が呆れたようにそういうと、サーシャはふう、と息を吐いて、
「まあ、まだ内部まで被害が出ているわけではありませんからね。現実感がないのです」
「そんなものか」
「そんなものです。さあ、湖の近くまで歩いて行きましょうか。とりあえず昼間は、バイネルの観光と洒落こみましょう。地形の確認は戦いにおいて重要ですからね」
外行の支度をさっさと整えると、俺とサーシャは宿の玄関を潜った。爽やかな朝の風が、俺たちの体をすり抜けるように吹いていた。
人通りも疎らな早朝の大通りを歩く。バイネルの歓楽街のそれとは違う、どことなく落ち着いた雰囲気の街並みが並んでいる。
「いい町でしょう」
サーシャは俺の一歩前を歩きながら、妙に誇らしげにそう言った。
「きれいな場所だ、うん」
きれいな場所だ。その言葉に一切の偽りはなかったが、感動とは別に妙に心に刺さるものがあった──バイネルの街並みは、俺の故郷レイビスの風景とどこかしらに通った雰囲気があった。
俺がレイビスから逃れてからひと月近くが経とうとしている。このひと月の間、余りにも様々な出来事が怒涛の如く押し寄せて、元居た場所のことなど考えている余裕などなかったのだ。
「……どうなっているのかなあ」
その後レイビスがどうなったのか、俺は一切知らない。気を聞かせて教えてくれる人間もいなかった──いや、気を利かせた結果教えてくれないのかもしれない。少なくとも、俺の記憶の中にある美しいレイビスの街並みは跡形もなく、瓦礫の散乱する廃墟が立ち並んでいるに違いない……。
変な感傷に浸りながらサーシャの後について歩いて行き、小さな林道を抜けた先に、突然巨大な湖が姿を現した。
「あれがクレムノ湖ですよ。バイネルの一番の観光地です」
サーシャはそう言って、太陽の照り返しで白んでいる湖を指さした。……成程確かに素晴らしい光景だ。緑色の草原の中に唐突に穴をあけたように、巨大な円形の湖が存在している。そして、その湖を取り囲むように、木造の別荘のような建物が数多く林立している。
「その、呪いの人形というのはこの辺で目撃されているというのか」
「ケイスさんの情報を信じるなら、そうですね」
サーシャは湖の畔の一角──何やら屋台が立ち並んでいる場所を見つめると、
「いずれにせよ、人形が徘徊するというのは夜らしいですからね。それまで観光でもしながら待ちましょうよ」
それからは──俺たちは随分と楽しんだ。
観光客用の出店を巡ったり、珍妙なお土産が並ぶ小屋に立ち寄ったり、湖と山岳地帯を眺めながらぼーっとしたり……ともかく、俺はその美しい光景と空気を満喫して過ごしていた。サーシャは殆ど表情を変えず、相変わらず何を考えているのか掴めない顔だったけれど、少なくともつまらなくはなさそうだった。
すっかり任務のことなど忘れて楽しんでいると、時計の針はみるみるうちに先に進んでいった。太陽が傾き始め、陽光の中に朱色が混ざり始める。
「そろそろですかねえ」
サーシャはそういうと、突然すっくと立ちあがって、腰に構えた剣に手を携える素振りを見せた。抜刀こそしなかったけれども、そのあまりにも自然体な動きを見るにつけ、彼女も"剣聖"の一員なのだと改めて理解する。
俺も釣られるように立ち上がって、夕闇が迫りつつある湖の畔の風景に目を凝らす──サーシャ曰く、目撃されているのは子供ほどの大きさがある動物の人形で、それが不自然に動いたり飛び跳ねたりするらしい……。
……俄かには信じがたい。呪いのおかげで動けている俺がそんなことを言うのもおかしな話だが、そんなことが起こりうるのだろうか?
次第に太陽が山の際に隠れ、いよいよ辺りが暗くなる──と、突然サーシャが大声で叫んだ。
「あれっ!」
「えっ、どれ?」
彼女は勢いよく暗闇の中の一点を指さしたが、俺の目には何も映ってはいなかった。彼女は急に真剣な表情に変わり、徐に腰の剣を引き抜くと、
「こんなに早く出会えるとは僥倖です。いざ!」
と叫んで闇に目掛けて疾走を始めた。俺は何が起こったのか分からないまま、黒い剣を抜刀して彼女の後を追った。
追ったのだが……サーシャの足はあまりにも早い! ミーンの力添えで、自分自身の脚力よりも早く走っている自覚があるのだが、それでも彼女のスピードには全くついていけない。オスローも相当足が速かったが、それよりも倍は早い感覚がある。
「待ってくれ! 一体何を見つけたんだ!?」
段々と距離を離されていきながら、俺は必死になって叫んだ。
「何って、当然アレですよ! さっさと捕まえましょう」
俺は懸命に彼女を追った。しかし、限界が来る。
俺は息を切らして立ち止まった。彼女は俺には見えない何かを追いかけて、電燈の明かりも届かない闇の中へと消えていった。
……仕方がない。呼吸を整えてからもう一度走り出そう。というか、俺を放っておいて駆けていってしまうのだったら、俺がここに来た意味とは? 俺は一人でぶつくさと言いながら、再び走り出せる体力が回復するまで肩で呼吸を続けていた。
──その時はまさか、この日もうサーシャに会えなくなるとは、露ほども考えてはいなかったのだ。
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