第49話  嘘をついた人

 味は素晴らしかった。しかし、疲れた体には重い料理だった。


 一時間ほど滞在して、俺とサーシャは店を出た。彼女は支払い場で何やら喋っていたが、金を払っている様子はなかった。おそらくツケにでもしたのだろう。


 クラマースのジトリとした視線を潜り抜けて、俺とサーシャは部屋に戻った。彼女は部屋に戻るなり、


「汗をかいたのでシャワーを浴びてきます」


などと言う。俺は動揺をひたすらに隠しながら平静を装う。


「分かっているとは思いますが、覗かないでくださいね」


「分かってる!」


 俺は声色荒く答えた──心配なら部屋を二つ予約しておけばよかろうものを!


 俺は巨大なベッドの上に寝ころんで、天井を見上げた。橙色の照明が灯り、緑色の植物を象った文様が天井に広がっている。その幾何学模様の繰り返しは、疲れ果てた俺にとっては催眠術のような効果があった──急激に瞼が重くなっていき、あっという間に意識を失ってしまう……。


 ……瞼の裏に、奇妙な情景が浮かんでくる。


 俺は真っ白な空間に座り込んでいる。俺の周りには、真っ黒な人影が手を繋ぎ、俺を中心に輪を作って囲んでいる。俺はぼんやりとした気分のまま、輪を形成している黒い影の数を数え始める。一つ、二つ、三つ……全部で十二つ。十二の影が、俺を取り囲みながら回転していた。


 俺が座ったまま様子を伺っていると、影の一つが突然、キンキンと耳に痛い声で叫び始める。


『裏切り者がいるぞ!』


 そしてそれに呼応するように、周囲の影たちも声を荒げる。


『裏切り者がいるぞ!』


『裏切り者がいるぞ!!』


『裏切り者がいるぞ!!!』


『悪辣で冷酷な、狡猾で薄情者な、質の悪い裏切り者がいるぞ!』


『それは、誰だ? 誰だ? この中にいる?』


『ええ、その通り。そいつは何食わぬ顔で平然と居座っている……』


 俺は──何が何だか分からない。思わず立ち上がって、周囲をきょろきょろと見廻す。影たちには表情がない。目も口も耳も何もない。真っ黒な人型の影。黒い空間から漏れ出すように、怒りに満ちた声がその空間に響き渡る。


『裏切り者には死の制裁を!』


『裏切り者には死の制裁を!!』


 声はだんだんと大きくなっていき、耳を塞いでいなければ気が狂いそうなほどの大音量へと至る。俺は目と耳を固く閉じて、耐え忍ぶように体を縮めた。


 死の制裁を、死の制裁を、死の制裁を……。




「……もしもし、まだ眠らないでください?」


「うおっああっ!」


 サーシャの声で俺は飛び起きた。余りの勢いに、柔らかなベッドの上に体が弾んだ。


「そんなベッドのど真ん中で眠られたら、私が眠るスペースがありません」


「ああ、ああ……」


 俺は直ぐに立ち上がって、ベッドを降りた。全身に汗を掻いていた。サーシャはいつの間にか薄ピンク色のパジャマに着替えており、湿り気を帯びた長髪を指先で弄びながらこちらを眺めている。


「汗だくではないですか。悪夢でも見ていたのですか? 早くあなたもシャワーを浴びてくるといいですよ」


 彼女はぼんやりとした表情でそういうと、さっさとシーツの中に潜り込んでしまう。俺は寝起きでちかちかとする目を擦りながら、彼女の提案通りシャワールームに向かった。乱雑に服を脱ぎ捨てて、冷たい水を頭から被る。先ほどの嫌な夢を洗い流すような気分で。


 ……俺が再びベッドの前まで戻ると、サーシャは既に眠りに落ちていた。


 ベッドの前に再び立ってみると、彼女とベッドを共有していいものかという下らない葛藤が胸中に戻ってきた。自分よりも明らかに年下の女の子と、他意はないにせよ一緒に寝るというのは、何か世界の、あるいは宇宙の倫理に背いているような気分になってくる。


 普段であれば、奇妙な意地を張り倒して俺は床で眠っていたかもしれない。しかし、この日の旅に疲れた俺の体は、柔らかなベッドの感覚を望んでいたのだ。


 俺は意を決してシーツに潜り込んだ。横を向いて眠っているサーシャから、体二つ分の感覚を開けるようにして──ベッドは二人で使っても広すぎるほど巨大なのに、俺は自ら作り出した見えない壁にベッドの端に追いやられて、大変窮屈だった。


 そして、十分な距離を取っているにもかかわらず、サーシャの方からシャワー上がりの良い香りが漂ってくるのである──こんな状況で何も気にすることなく眠れる人間が存在するのだとしたら、俺は一生その人間とは話が合わない自信がある。


 結論を言うのであれば、俺は奇妙な緊張感に全身を雁字搦めに縛られて、結局殆ど眠ることが出来なかった。サーシャの方はというと、一晩中寝返り一つ打たずに静かに寝息を立てていた。俺は彼女の図太さ、無頓着さに尊敬の念を抱いたが、真似することは終ぞできなかった。


 その後、朝がやってくる。


「……眠れましたか?」


 サーシャは目を覚ますと、大きな欠伸を交えながら尋ねてくる。俺は目の下に隈のできた無残な表情を晒しながら、


「眠れました」


と力なく答えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る