第一章 呪われた少年と炎の少女
第2話 剣の悪魔ミーン
深くて暗い水底から浮かび上がるように、俺はゆっくりと意識を取り戻した。雨は止んでいた。風の音もしなかった。ぞっとするほどの静寂。
体の痛みは嘘のように引いており、立ち上がるだけの体力が戻ってきている。奇妙だ。ひと眠りして命の瀬戸際から回復したのか? いや、常識的には考えられないが……。
起き上がって自分の体を見回して、俺は驚いた。身に着けていた服が泥と血の汚れに塗れていたのは変わりないが、全身の切り傷や刺し傷が、既に治りかけているのである。深々と突き刺さっていた木片はいつの間にか消え、紫色にはれ上がっていた右腕も、多少染みるような痛みがするだけだ。何が起こったのか。もしや今まで俺が見てきた惨状は幻覚だったのか──ほんの一瞬望みを持ったけれど、周囲を見渡せば滅茶苦茶に崩れた建物、曇天に向かって棚引く煙の筋。戦争は現実で、揺らぐことはなかった。
既に太陽は地平線の向こうに消えかけていて、夜の影が足元まで迫っている。どこかへ、どこか遠くへ行きたい。行かなければならない。この悲惨な風景から逃れ、気が休めることができるどこかへ。しかしどこへ? 故郷は更地と化し、友人も家族も失った俺はどこを目指せばいい?
俺は分からなかった。ただぼんやりと、灰色に濁った空を見上げていた。
「……目が覚めたみたいじゃないか」
「……?」
ふと、唐突に声がする。俺は驚いて、慌てて周囲を見渡したが、視界の中に人影はなかった。
「誰だ」
「ククク、誰だと思う? なんだと思う? か細い想像力で考えてごらん」
挑発するような男の声。俺はその声色から、奇妙な確信を抱いた──少なくとも、まともな奴ではない。俺は周囲の暗がりに目を凝らし、そして気が付く。崩れた建物の柱の上に、黒い鞘の剣が一本置かれている。俺は本能的に嫌な予感を覚えたけれど、好奇心が俺の足を剣の方へと差し向けた。柱の前に立ってその剣を手に取ると、見た目以上にズシリとした重量感が腕に伝わった。
「まさか……お前か? お前が俺に話しかけたのか?」
「……頭でもおかしくなったんじゃないかと疑っているな? 安心しろ。お前が聞いている声は、幻聴でも何でもない、本当の現実さ。俺様は……ミーン。剣に取り付いた大悪魔、ミーン様だ」
「悪魔だって!?」
俺は危うく剣を放り投げるところだった。悪魔だなんて、そんな馬鹿なことが──しかしその黒い剣は、俺の常識を嘲笑うかのように楽しそうな声を上げ続ける。
「そうさ。俺様の本業は悪魔。だがしかし、君にとっては天使のような存在なんだぜ。なにしろ、お前の命を救ってやったのは、俺様が起こした奇跡の力なんだからな」
「なんだって?」俺は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「不自然に思わなかったのか? お前は数時間前、殆ど死にかけだった。いや、もう殆ど死人同然だったようなものだ。俺様が力を貸してやらなかったら、そこらへんに転がっている死人どもと同じ結末だった。しかし目を覚ますと、おやおや、傷が既に癒えているじゃないか。なんという奇跡! ……それも全て、俺様の偉大なる力のなせる業なのだよ」
「なぜ……そんなことを……」
なぜ俺を助けたのか。なぜ俺だけを助けたのか。こいつの目的はなんだ。本当に悪魔だというのか。様々な疑問が俺の頭の中に渦を巻いた。そしてミーンと名乗った悪魔は、心の中を見透かしているかのように話を続けていった。
「何故俺様がお前を助けたのかを疑問に思っているようだな。それは簡単なことだ。我が主様の気まぐれだよ。たまたまここを通りかかった主様がお前を見かけて、機嫌がよかったのか悪かったのか、思い付きでお前の命を救済した。刀に宿った悪魔である俺様をお前に取り付かせて、命を救うように命じられた。ククク、自らの幸運に精々感謝することだな」
俺は自分の記憶の中から、気を失う前に言葉を交わした人影のことを思い出した。想像するに、ミーンの言う『主様』とやらはあの人影のことだろう。あの人物は一体……悪魔を使役するなんて、本当に現実の話なのか? しかし全身の傷が不自然にも治っていたという事実が、ミーンの言葉に説得力を与えている。俺は必死に頭の中を整理しながら、黒い刀に質問を投げる。
「つまりお前は、その主様とやらの命令で俺に取り付いているわけだ。……何のために? 命を救うのだけが目的ではあるまい。『悪魔』と名乗るくらいだ。何かしらの見返りを求めているんだろう?」
「クククク……、よく分かっているじゃないか」
悪魔は随分と機嫌よさげに、底意地の悪い笑い声を上げる。
「その通り。お前は成り行きとはいえ、悪魔と契約を果たしたのさ。契約は絶対! それはこの世の真実である! ……お前にはしばらくの間、俺の言うことを聞いてもらうぜ」
「悪魔が俺に……俺に一体、何をさせるつもりなんだ?」
俺がわずかに震える声で問いかけると、ミーンは背筋が冷えるような暗い声で返答する。
「なあに、簡単なことさ。主様の目的のために、"駒"として働いてもらうだけさ」
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