2 巡洋艦

 ぼんやりと空の彼方に淡い点が見えてきた。おそらくあれがツァカル諸島共和国の首都があるマキーラ島だろう。段々と輪郭露わにしていく浮島は、およそこの世の物とは思えないような姿だった。綺麗なお椀型の島は、その上部には鬱蒼とした密林が、島の下部は白い岩肌が見えた。自分が死んでしまったら、仮に天国に行ける資格があるのであれば、眠りについてから最初に見る景色は、これがいいと思った。そこでは食欲も性欲も失い、人々は所有と時間の概念さえ忘れ、青い空と島の下に広がる海を眺めて暮らすのだ。私は、二十五年前にこの島を訪れた時のことを思い起こそうとした。しかし、眼前に広がる幻のような風景に、波打ち際の砂の城のように脆い私の記憶は崩されていった。唯一思い出したのは、空港のある島からフェリーでマキーラに向かう途中、地元の漁師が使う木造の船を見かけたことくらいだった。赤黒く焼けた漁師が銛を片手にじっとこちらを見ていた。私は、その眼差しに若干の居心地の悪さを感じた。


 甲板がにわかに騒がしくなり、乗客たちが船の後方に集まりだした。私も流れに任せてついて行った。

「見ろ!ネイビーの船だ!」

どこかで誰かが叫んだ。目を凝らすと、灰色の巡洋艦がぐんぐんと近づいている。大きさ的にミサイル巡洋艦だろうか。考えあぐねていると、群衆の中の物知りさんが

「あれはインディペンデンス級のシンシナティⅡだ!アメリカ海軍の新造艦だ」と教えてくれた。灰色の鯨は巨体を優雅に滑らせながら、空を航行している。


 向こうの甲板で作業をする兵士の顔までよくわかるくらい近くなると、歓声はいよいよ激しくなった。おそらくこの船はアメリカ人が多いのだろう。兵士たちはこちらに一瞥することもなく黙々と作業をしていた。やがて、ゆっくりとアリアドネ号を追い越していくと、乗客たちは三々五々に帰って行った。


 私も自室に戻り、部屋にかかったマキーラ島の地図を睨んだ。かつて緑豊かだったこの島の三分の一がアメリカ軍の基地となっていた。先ほどのシンシナティと同じ明るいグレーで示された基地は、密林を侵蝕するかのごとく、複雑な形をしていた。


 ツァカル諸島が浮いてしまってすぐ、時の共和国政府は国連に支援要請をだした。国民の安全確保の支援とこの天変地異の事態究明を求めた。だが、真っ先に駆けつけたのは、皮肉にもアメリカ海軍の艦艇だった。かねてより伸張する付近の大国との冷戦状態にあったアメリカはこの海域に軍事拠点を設けようとしており、ホワイトハウスは国連の即応部隊をずる賢く動かして、主導権を握っていった。あらゆる見地からの検証が必要とのことで、世界各地から調査団が派遣され、島はかつてない賑わいを見せた。やがて、この浮島を海上に戻すことが難しいことがわかると、誰に唆されたのか、共和国政府は、これからツァカルの民は空で生きていくと高らかに宣言し、観光立国を標榜した。しかし、大きな代償も払った。かつては島の周りにあふれていた魚たちの代わりに、五万人の軍人と二百の空飛ぶ鋼鉄の鮫を受け入れて、この島は生きていくことを選んだのだ。アメリカ軍は島の北東に基地を設けた。雇用が生まれた。やがて、白人たちが大勢やってきて、カジノやらホテルやらを作って、また雇用が生まれた。


 不意に誰かがノックをした。扉を少し開けると、ベージュの麻のスーツを着た、がっしりとした背の高い金髪の男がにこやかに立っていた。

「これが廊下に落ちていたんだけど、あなたのですか?」

はきはきとした英語で彼はそう言って、パナマ帽を見せた。

「いや、私のじゃありません。向かいの老人のものかもしれませんが」

「あぁ、それは失礼しました。まぁ持ち主が見つからなければスタッフまで届けてきますよ」

「ありがとう。助かります」

「では、良い旅を」


 ゆっくりと扉を閉めた。じんわりと汗をかいている。胸の鼓動はいつもより早くなっていた。おそらく基地の情報部あたりの人間だろう。船の運行会社と繋がって、乗客リストを洗い出し、怪しい経歴を持つ者が島に入る際には、こうやって牽制するのだ。「いつでも見ているぞ」と。あのよく焼けた肌と厚い胸板を見れば、たとえ洒脱な格好に身を包んでいても、一目で他の乗客と住んでいる世界が違う人間だということがわかる。


 この単なる平和的な再訪に、残念ながらやましいことなど一つもない。兵士の来訪は、私の中に小さな黒い雲を作った。窓を見やると、先ほどよりもくっきりと島が見えてきた。私の心とは裏腹に、相変わらず雲一つなく晴れ渡っていた。

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