浮遊海域〜ツァカル諸島再訪記〜

井中 鯨

1 離海

柔らかな午睡から目を覚ますと、窓の外の景色がいつもより少し明るかった。私は、慌てて窓越しに外を見ると、数時間前まで広がっていた海原は見えなくなっており、その代わりに厚い入道雲が重たそうに浮かんでいた。


「本船は、ツァカル諸島海域を順調に航行中です。」

 船長の落ち着いた低い声が船内で木霊していた。しまった、と私は悔恨した。離海の瞬間を逃したくはなかったので、早めに昼飯を終え、ベッドで休んでいたらこのザマだ。昼寝でついた寝癖を直し、私は甲板へと向かった。太陽の日差しが昨日よりもきつく感じられた。甲板は乗客でごった返しており、屋外のバーカウンターでやっと一席確保して、ビールを頼んだ。すると、隣に座っていた六十代くらいの白人が興奮気味に私に声をかけてきた。


「あなた、この辺りの海ははじめてかしら?」

「いや、ツァカルは二度目です。っていっても結構前ですけど」

「あら素敵。私は今回で三度目よ。何度来ても浮かび上がる時は気持ちがいいわね」

こちらも大変気持ちよく寝ていました、とも言えず言い淀んでいると、

「はじめての時はお仕事?それとも観光で?」と畳み掛けてきた。

「仕事です。でも浮かぶ前ですよ、奥様。だから・・二十年以上前ですかね」

「まぁ、珍しいのね!在りし日のツァカルを知っているなんて!お仕事は外交官かしら、それとも自然保護活動家?」

「まぁ両方正解みたいなもんですよ」

私はそう適当に答え、強引にグラスを傾け乾杯を促した。小気味いい音が響いたところで、私は立ち上がり「では絶景を拝んできますね」と微笑み、強欲な貴婦人に別れを告げた。


 一番高いデッキに上り、グラスを風で持っていかれぬよう慎重に柵に近づいた。今は海面から何メートルほどだろう。客船アリアドネ号は、南洋特有の翡翠のような深い青空を背景に、静かに空を進んでいた。海を進む時と違うのは、右舷左舷からそれぞれ突き出た、細長い翼状の制御装置だ。楕円形のそれの内部には薄い膜が張ってあり、気流の流れに合わせて微妙に蛇のようにその身をくねらせながら、船体のバランスをコントロールしていた。宙を浮かぶ白亜の巨大船は、まるで誰かが水平線を書き換えてしまったかのように、そして何事もなかったかのように、ただ真っ直ぐ航行している。


 我々は今まさに、世にも珍しい浮遊海域を進んでいるのだ。低重力海域やツァカル空域など呼称は様々だが、私は浮遊海域という響きの方が好きだ。実にロマンティックな響きだ。

 二十二年前、突如としてツァカル諸島を構成する大小合わせて五十八の島々が一夜にして宙に浮かんだ。海抜二百五十メートルほどで上昇は止まり、神話の時代より海と生きてきたツァカルの民は、一晩にしてその生涯の伴侶と切り離された。質量が重いものは浮かび、軽いものは海に残った。鯨やイルカは浮かびあがり、そして死に絶えた。濃緑のジャングルを彩っていた極彩色の鳥たちは、残念なことに浮島の住民にはなれなかった。ツァカルの白い砂浜はさらさらと崩れ落ち、珊瑚でできた脆弱な島の層が露わになった。泊めていた船は浜辺の奥のジャングルで座礁していた。豚や牛などの家畜は小屋で繋がれていたこともあり、そのままだった。では、人間はどうだったか。幸運にも、いや不幸にも海の神は、人間を新しい世界への乗客に選んでくれた。


 度重なる海面上昇で、十年後には沈没して消滅するとされていたこの小さな国は、いにしえより生と死をもたらしてきたツァカルの海との契りを捨て、空と契りを結び直した。こうして「天国に一番近い島」と呼ばれたツァカル諸島共和国は、さらに二百五十メートル分「天国に一番近い島」となった。


 (続く)

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