011 呼ぶ声の青

 まぶし過ぎて暗い、とあなたは言った。暗いことはないわ、とわたしは言った。かもめ海猫うみねこの違いが分からない。雲の名前も詳しくない。あれが入道雲なのだろうか。さある、と波のすそがやって来て足先に巻き付いた。さある、引く時には柔らかな砂を持っていく。海は手招きしている。


 暗いよ、とあなたは言う、真っ青だ、黒いほど青だ。いつかヨーロッパに行くとき機上で青黒い空を見たけれどあれとは違う、あれは宇宙の切れ端だった。終わりなき戦慄のぐんじょうだった。しかし今は、これは。不透明の青なんだだから、暗い。


 さある。さある。小さな波が親指の爪に熱を残してゆく。おいで。おいで。くるぶしまで濡れた足は、いっそ全身浸かってしまえば楽だと考えている。あなたはまだ砂浜にいて波に触れない。いつもそうね、同じものを見ているのに。波にあなたを引き込むだけの無邪気は、随分昔にわたしを去っている。あなたは暗そうな顔をしている。目が見えなくなってしまうの?


 見えるのに見えなくなってしまうことは珍しくない、とあなたは言った。眩しい、暗い、と言う癖に目を閉じはしない。赤も、青も、世界を停めてしまう、そう呟きながらあなたは、決してわたしに近付かない。警戒、している。君の足、青くなってしまうよ。さある。さある。言いながら見ない、警戒して、いる。さある。さある。おいで、おいで。


 し掛かるようなこんじょうだった、それは確かだ。どこか、遥か遠くでこの重圧に潰れる記憶、塗り潰される、それは暴力で、しかし何故だろう、求められている。この空は、青は。わたしたちを切望して眩しい。甘やかな、喰われる、それもまた、無数の記憶のひとつとなり、枯れて無為に終わるより、青よ、さある、わたしは踏み出す。眼の奥でほんの小さな星が弾け、わたしの脳を損ねる。さある。知っているわ。おいで。紅い花が咲いている、どこかに。さある。さある。


  紅い花が。

  白い、雲が

  芝を踏む脚だけ見えていた、

  風がページめくって乾いた音を立てると梢を目指して飛び去った。

  飛行機雲は少しずつ解け、

  触れぬ間に溶けた氷がグラスを打って鳴る

  かろん、


 あなたは何を言っているのだろう。手首が握り潰されて手だけ落ちるのではないかという気がする。何を言っているの。わたしの知らないことば。分からなくて懐かしいことば。あなたの。さある。声は何故か、さある、急き立てられたように、おいで。わたしを、さある、わたしの、さある、おいで、名を呼んで。


  水撒きをしていたらホースが破れたのだった。

  デッキごとびしょ濡れになったあなたは苦笑し、

  そして起き上がったわたしの方を見て、

  跳ね起きたものだからわたしは少し眩暈めまいがした、

  裸足で芝を踏んで、

  わたしはあなたに近付いていく。

  あなたがじっとわたしを見ている。


 あなたがじっとわたしを見ている、かげが青い。鴎が鳴いている。抜けるほど強く腕を引かれて、わたしの両足は灼けて乾いた砂を踏み、まとわりついたそれがわたしの青をだめにしてしまった。どうしてなの。あなたの後ろにはすぐ山が迫っている。燃え上がる緑がモノクロームから立ち上がり、わたしは呼吸を思い出す。   、あなたはわたしの名を呼んで、まるで波のおいでにぶつけるように呼んで、そうして何故そんなにわたしに近い、泣きそうな顔をするのだろう。不透明のむこうに、とあなたは言った、不透明のむこうに君が消えるのは怖い。怖い。怖い、


 さある。さある。海は手招きしている。永遠に。無数のとげを立てて、誰かの記憶を待っている。

 わたしは助手席から投げ出した素足の砂を落とし、あなたはラジオのスイッチを入れた。すっかりぬるくなったミネラルウォーターは解毒剤のようだった。

 なまえをよんで、とわたしは言った、あなたは何度でも   と呼んだ。盗られかけた記憶を結び直すための手続きみたいに。   。   。   。そうでないとわたしの名前はさある、に、なってしまう。   。あなたはまるで痛いみたいな顔をして。

    、帰るんだよ。

 わたしは。

 耳元に、さある。

 海のささやきを残したまま。


 どこに帰るのだろう。


 さある。

    。

 さある。

    。

 さある。


 あなたがわたしの、手を、とった。






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