第54話 母をたずねてお邪魔します
──オルバエスト大陸西部、レイノワール帝国城近辺。
漆黒の鎧を纏った衛兵が隊列を成し、城壁の内側で武器を持って行進している。それをじっと見つめ、茂みの中からぴょこぴょこと長い耳を動かしたロザリーは薄紅色の瞳を輝かせた。
「へーたいさん! かーっくいー!!」
「バッカ、ロザリー!! 見つかるだろ隠れなさい!!」
彼女の口をがぼりと押さえ付け、ルシアは小声で叱咤すると小さなその体を抱き寄せて拘束する。茂みの奥に引き戻されたロザリーは「むむー?」と首を傾げたのち、「なんでー? へーたいさんみる!」と駄々を捏ね始めた。
「ダメだ! ちょっと大人しくしてろ!」
「なーんーでー! にゃんにゃんのいじわるー!」
「い、意地悪したいわけじゃないんだが……っ、と、とにかくダメなものはダメだ! 俺は心を鬼にする……!」
ルシアは渋い表情で奥歯を食いしばり、ロザリーに嫌われてしまう事を覚悟しながら彼女の『駄々』を跳ね除ける。しかしそれまで地団駄を踏んでいたロザリーはぴたりと硬直し、彼の顔を不安げに見上げた。
「……おにしゃん……?」
「……は?」
「にゃんにゃん、おにしゃんになるの……? こわいこわい……?」
絶望したかのような顔で問い掛けるロザリーは、どうやらルシアの発した『鬼』という言葉に反応したようだった。普段、これでもかと言うほどにウルの鬼嫁ぶりを見せつけられてきた彼女である。その脳裏を過ぎるのは、銃を乱射させて悪魔のような笑みを浮かべる、“
──にゃんにゃんが、うーたんみたいな、きょうあくできょうぼうな、おにしゃんになってしまう……?
幼い彼女は最終的にそんな結論を導き出し──途端にぶわりと瞳を潤ませたかと思えば、「だめー!!」と絶叫してすぐさまルシアに抱き着いた。
「なっ……!?」
「だめー! おにしゃんなっちゃだめー! ろざりー、にゃんにゃんがいいの!! にゃんにゃんがしゅきなの〜!!」
ひしっ、とロザリーはルシアにしがみつき、「おにしゃん、あっちいけー! えいえい!」と何やら念を送り始める。思わず硬直してしまったルシアだったが、その後も何も言わず、必死に『おにしゃん』を追い払おうと奮闘しているロザリーのつむじをただただ小刻みに震えながら見下ろしていて。
そんな二人を少し離れた場所から傍観していたウルは、ぷるぷると細やかに震えているルシアの背中を呆れたように見据える。
「……ちょっと、クソ猫。感動に打ちひしがれてる暇があったら、早くロザリーを静かにさせてちょうだい」
「いや……無理……しんど……かわい……」
「え、やだ……あなたロリコンなんですか? ホントどこまでも気ッ色悪いんですね、その子に近寄らないで」
「うるっせえ! 違ェわ!!」
ルシアは牙を剥き、涙目のロザリーをぎゅっと抱き寄せてウルを睨んだ。「俺は断じてロリコンなんかじゃない!! ロザリーに対して
ウルは瞳を冷たく細め、「うわぁ……」と引いた様子だったが、ルシアは即座に「大体なあ!」と不服げに声を荒らげた。
「そもそも、貴様がロザリーまでここに連れてくるのが悪いんだろ! 危険すぎると思わなかったのか!? このクソ女!」
「……!」
「リザかセルバの家にロザリーだけ預けてくりゃ良かっただろ! 何でわざわざ連れて……」
「必要なのよ」
ルシアの言葉をぴしゃりと遮り、程なくしてウルは黙り込んだ彼から顔を背ける。「……必要なの、ロザリーも」と再び繰り返した彼女の様子に眉を顰めたルシアだったが、不意にその腕の中にいるロザリーが「ねー、ママはー?」と口を挟んだ事で、彼は続けようとした言葉を飲み込んだ。
ウルはにこりと微笑み、ロザリーの問いに答える。
「もうすぐ会えるわよ、ロザリー。あの向こうでママが待ってるわ」
穏やかに紡ぐ彼女の言葉を聞きながら、ルシアは黙ってウルの言う“あの向こう”へと視線を移した。
彼らが身を潜めているのは、レイノワール城から程近い森の中。そして彼女が見つめているのは、おそらくグリアムが居ると思わしき城の内部である。
「……本当に、ここにアイツがいるのか?」
努めて冷静にルシアが尋ねれば、ウルはこくりと一つ頷いた。
「ええ、おそらく。彼の魔力を追ってここまで来たけど、あの城門の前で魔力の痕跡が途絶えている。レイノワール城の周辺には特殊な魔法が掛けられてるって話だから、もし城の内部に入ったのだとしたらグリアムくんの魔力はもうこれ以上追跡出来ない」
「でもアイツ、『俺は帝国には行かない』って言ってたんじゃ……」
「あのバカの事だから『東に逃げたら
「何も否定出来ん」
ルシアが頭を抱えた頃、不意に彼の胸にしがみついていたロザリーが「ろざりー、はやくママにあいたい……」とぐずり始めた。二人は声を詰まらせ、視線を落とす。
彼女は、昨晩からグリアムに会えていない。
母親が恋しい年齢であろうロザリーは、たったの一晩だとしても“ママ”と引き離されてしまって心細いのだろう。今にも泣き出しそうに表情を歪めてしまった彼女に「お、おい、泣くなよ……!」とルシアが焦燥する中、ウルは穏やかにロザリーの顔を覗き込んだ。
「……大丈夫よ、ロザリー」
口元に笑みを貼り付け、優しく彼女に語りかける。丸い瞳に涙を浮かべたロザリーは、程なくしておずおずと顔を上げた。
「もうすぐ、ちゃんとママに会えるから。ママも、きっとあなたに会いたがってる」
「……ほんと?」
「ええ、もちろん。……でも、ママに会うには、ロザリーがまず頑張らなくちゃいけないの。いい?」
ウルの発言にロザリーは首を傾げる。ルシアもぴくりとその言葉に反応し、訝しげに彼女へと視線を向けた。
「あのね、ロザリー。あの大きなお城にはね、すっごく悪い魔法が掛かっているの」
「……まほー?」
「そう。その魔法のせいで、今あの城門は、“レイノワールの
「──おい、ちょっと待て」
ウルの話を遮り、ルシアが鋭く口を挟む。刹那、その場の空気はぴり、とあからさまに凍り付いた。
ルシアは瞳孔を見開き、殺気を隠す事なくウルを睨む。対するウルは彼と目を合わさず、淡々と彼をあしらった。
「今、大事な話をしてるの。口を挟まないでクソ猫」
「……はぐらかせると思うなよ、クソ女。まさかとは思うが、最初からそういう
ルシアは声を低め、ロザリーを庇うように抱き込むとウルの肩を強引に突き飛ばす。彼女の華奢なその身は容易く後ろに傾いたが、地面に倒れる事はなかった。
やがて持ち上がった冷たい碧眼がじろりとルシアを睨み、ルシアもまた、
「妙だと思ったんだよ。最初は黙って家を出て行こうとしてた癖に、グリアムの向かった先が西だってのが分かった途端、ロザリーをわざわざ叩き起こしてまで連れ出して」
「……」
「……なあ? ウルティナ。貴様──ロザリーを、一人であの城の中に乗り込ませようとしてるんだろ」
より一層声を低め、責めるような口振りでルシアは言い放った。
帝国によって造られた
ウルは暫く黙り込んでいたが、ややあってぴくりとも表情を変えずに口を開く。
「ええ、そうよ」
「……!」
「私達だけじゃ、この壁を越えられない。だからロザリーを連れてきたの。この子を先に侵入させて、まずは城に貼られた
「貴様、正気か!? ふざけんな、俺は絶対に許さんぞ!! まだ六歳の子供にそんな危険を背負わせるなんて──」
「──私だって本当はこんな事させたくないに決まってるでしょ!!」
声を荒らげるルシアに対し、ウルもまた語気を強めて言い返した。彼が思わず声を詰まらせた頃、ウルは俯いて「そんな危険な事、本当は、させたくないよ……」と再び弱々しく繰り返す。
「……でも、これしかない……! これしか、あの城に侵入する手立てがないの!」
「……っ」
「私は彼の補佐として、必ず師団長を助ける!! そのためなら手段を選ばない!! だから私はっ……! 私は、ロザリーを……っ」
ウルは声を震わせ、表情を歪めながら歯を食いしばった。言葉は徐々に尻すぼみになり、彼女は力無く座り込んで項垂れる。
そんな彼女を見下ろしていたルシアは、やがて呆れたように嘆息し、抱いていたロザリーを地面に降ろした。彼はそのまましゃがみ込み、俯くウルの顔を覗き込む。
「……そんな泣きそうな顔するぐらいなら、こんな方法はやめておけ」
「……っ、でも……!」
「他の手段なら、いくらでも俺が一緒に考えてやる。ロザリーは貴様の娘だろ。俺は自分の親の顔なんか知らんが、世の中の親なら誰でも、普通は自分の子供に危険な事なんかさせたくない」
「……」
「だから貴様は、任務よりも自分の娘の安全を優先していいんだ」
ルシアはそう告げ、俯くウルの額をバチンと指で弾く。不意打ちのデコピンに「痛っ!」と眉根を寄せ、ウルは不服げに顔を上げた。するとその場にしゃがみ込んでいるルシアは不敵に口角を上げ、「しおらしい顔なんざ似合わねーんだよ、クソ女が」と悪態をつく。
──が、その瞬間、凄まじい勢いでウルに顔面を握り込まれた。
「
「あ、ごめんなさい。つい」
「“つい”のノリで人の顔面潰そうとすんな!!」
ルシアはウルの手を引き剥がして激昂した。するとウルは彼から目を逸らし、「……だって、なんか悔しいんだもの」と小さくこぼして唇を尖らせる。
「……いつも、私ばっかりあなたに励まされて、背中押されてる気がして……ムカつく」
「……!」
「猫の癖に生意気よ、ばか」
顔を逸らしながらか細い声で憎まれ口を叩く彼女を見下ろし、ルシアの胸がきゅう、と狭まる。程なくして、彼はじっと彼女の顔を見つめた。
「……なんか今の、ちょっと可愛かったぞ」
「……は? 何よいきなり……まさか人妻を口説く気ですか? ロリコンな上に寝取り趣味? 不潔〜、エロい目で見ないで気持ち悪い」
「誰が見るかァ!! やっぱ前言撤回、全ッ然可愛くねえ貴様なんぞ!!」
一瞬でルシアは意見を
彼女は
「……悔しいけど、あなたの言う通りだと思うわ。ロザリーを一人であの城に侵入させる方法は現実的じゃなかったと思う。……別の方法を考えましょう」
「ああ、そうしてくれ。ひとまず一旦村に戻って、ロザリーだけリザに預ける事も視野に入れ──」
「……ちょっと待って。それよりロザリーはどこ?」
ふと、ウルは彼の声を遮って早口で問い掛けた。「あ?」とルシアもまたきょろりと周囲へ視線を巡らせるが、先程までこの場にいたはずの幼女の姿がどこにもない。
「……あれ!? どこ行った!?」
「ええ!?」
二人は目を見開き、慌てて彼女を探し始める。しかし数秒も経たぬうちに、彼らはいなくなったロザリーの姿を発見したのであった。
──レイノワール城の門前をてくてくと駆けていく、ロザリーの小さな後ろ姿を。
「えええええッロザリぃぃぃ!!?」
二人は顔面蒼白で絶叫し、遠くなっていく彼女の姿に焦燥する。しかしロザリーは二人の呼び声に気が付く事なく、ついに城門をくぐって城の中へと消えてしまった。
ルシアはウルの肩を掴み、前後に激しく揺さぶりながら声を震わせる。
「お、おおぉい!! どうすんだ!? 一人で中に入っちまったぞ!!」
「あ、あなたがあの子を抱いてたはずでしょ!? 何で目を離したんですか!!」
「だってまさかこんな一瞬であんな所まで行くとは思わねーだろ!!」
「何言ってるの、六歳児の行動力ナメんじゃないわよ!! 好奇心だけで何でも突破出来る年頃なんだから!!」
茂みの陰でぎゃあぎゃあと揉める保護者二人を他所に、小さな子兎は母の姿を求め、不気味な帝国の中へと乗り込んでしまったのであった──。
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