幕間
幕間 - 4 - グリアム=ディースバッハの逃亡
──世界最強の魔導師は家出したので、探さないで下さい。
少し前にも記した覚えのあるそんな文章を、グリアムは震える手で書き連ねる。
床に倒れているウルの目尻には涙の粒が光っていて、泣かせてしまった事に対する罪悪感や、このまま床で眠って凍えやしないだろうかといった不安が胸の内に
「……俺、ウルが好きだったよ」
耳元に告げるが、反応はない。
しかしこれでいいのだとかぶりを振り、グリアムは床に倒れているウルにそっと毛布を被せて立ち上がる。彼は最後に「P.S.」から始まる追伸を置き手紙に残し、何度も何度も振り返りながら、ついに“偽りの家族”と共に過ごした暖かい家を出て行った。
──ざく、ざく、ざく。
冷たい風の中、降り積もる雪を踏み締めて、彼は夜道を歩んで行く。寒さによって無意識に手をポケットの中へと突っ込めば、こつりと硬いものが指に触れた。
「……」
これまで何度も触れて、確かめたそのケースの感触。それを指先で撫でながら、彼の胸はまた痛みを放つ。
「……これも、もう……要らないな……」
グリアムは呟き、ポケットから取り出したケースを開いた。その中心に収められた、シンプルなデザインの指輪を暫し切なげに見下ろし──彼は、雪道の真ん中にそれをぽとりと投げ捨てる。
雪の上に落ちた結婚指輪から目を逸らし、やがて空になったケースも遠くに投げ捨てて、彼は再び歩き始めた。
──朝になったら、俺はどこにいるのだろう。そもそも、“俺”のままでいれるだろうか。
そんな言葉を自分に問い掛けて、俯く。
とにかく今は、どこでもいい。自分が自分であるうちに、彼女や大切な家族から逃げ出さなければならない。
どこか、遠くへ。ただひたすら遠くへと──。
「── “
宙に描いた
グリアムの居なくなった雪道に残されたのは、彼の投げ捨てた指輪だけ。それはしんしんと降る白い雪に埋もれながら、ただきらきらと、寂しく輝いていた──。
──というのが、ほんの数分前の話。
「…………」
現在、グリアムは焦っていた。
それはもう、とんでもなく焦っていた。
だらだらと、全身の毛穴からは冬だと言うのに嫌な汗が止めどなく噴き出している。彼は顔を蒼白に染めて両手を挙げながら、カラカラに渇いた喉の奥で絞り出した生唾を
……まずい。これはまずい。めっちゃ間違えた、とグリアムは強烈な後悔と焦燥に苛まれる。
──とにかく、ただ、遠くへ行こうと思った。ただそれだけだ。それだけだったのだ。しかしまさか、それが
彼の過ごしたレマリア村があるのは、大陸の中部。東側へ逃げれば
グリアムは忙しなく視線を泳がせ、剣の切っ先を己に向けながら周囲を取り囲む黒い鎧の衛兵達の姿に震え上がった。しかしこの場所へと転移してしまったのだから、こうして囲まれて剣を向けられてしまうのも致し方ない。
なぜなら、ここは大陸の西部。
そこに位置している国というのは、もちろん。
「──いやあ〜、わざわざ迎えに行く手間が省けたよ。まさか君の方から来てくれるなんてねえ? グリアム」
コツ、コツ、コツ。
ブーツの踵を踏み鳴らし、グリアムとよく似た顔の青年がへらへらと笑みを浮かべて近付いてくる。不気味なその笑顔に心底肝を冷やし、グリアムは周囲を見渡した。
高く聳える黒い城壁。高々と掲げられた旗に描かれたよく知る紋章。そして、昼間にも見た彼の顔。それらに視線を巡らせ、グリアムは確信した。
……俺は間違いなく、間違えた、と。
「さて。早速、君を歓迎しなくちゃね、グリアム」
顔面蒼白のグリアムを見下ろし、青年──アンデルムは楽しげに言葉を続ける。彼は両手を大きく広げ、グリアムに向かって微笑みかけた。
「ようこそ、もう一人の皇帝候補。君の
巨大な城をバックに、アンデルムは高らかと言い放つ。グリアムは相変わらずだらだらと冷や汗を流したまま、ややあって恐る恐ると口を開いた。
「……ま……」
「……、ま?」
「……ま、ま……、間違えたんで、ちょっとあの、最初からやり直していいですか……」
「いや普通にダメだけど」
何言ってんだコイツ、とでも言いたげな視線をグリアムに向けた直後、アンデルムは「はい確保ー」と衛兵に指示を出して彼の体を拘束する。「えええ!! ちょっと! お願いしますもう一回だけやり直させてください!!」と懇願するグリアムだったが、「嫌だよ、逃げる気でしょ」と呆れ顔で一蹴されてしまった。
じたばたと暴れるグリアムを衛兵と共に引きずりながら、アンデルムはにんまりと口角を上げる。
「──残念だけど、もう逃がしませんよ? 師団長さん」
「……っ」
してやったり顔のアンデルムを涙目で睨んだ頃、重々しい扉がゴゴゴ、と音を立てて開かれた。何とか逃げ出そうと足掻くグリアムだったが、結局為す術もなくずるずると引きずられてしまう。
いや、違う、違うんだ……!
こんな……、こんなはずじゃ……!
「こんなはずじゃ無かったんだぁぁーー!!」
そんな絶叫と共に、彼の体は重々しい扉の向こうへと連行されてしまったのであった。
〈幕間 4 …… 完〉
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