第51話 P.S. 君を愛していた
「ママー! おかーり!」
暖かい家の扉を開ければ、ぴょんと嬉しそうに跳ねてロザリーが飛び込んで来た。冷え切った手で受け止めれば、「ママ、おててちめたーい」と楽しそうに笑う。
グリアムは擦り寄ってくる彼女を抱き締め、「……うん、ただいま」と薄く微笑んだ。満足げに頬擦りをするロザリーの頭を撫でていると、不意にリビングから顔を出したルシアが二人の居る廊下へと出て来る。
「……おい、貴様、大丈夫だったのか? 随分遅かったが……」
「……ああ、タオル。心配かけてごめん、もう大丈夫」
「は、はあ!? し、心配なんかしてねーわ!」
かあっ、と頬を赤らめ、ルシアは牙を剥いて反論した。すかさずロザリーが「にゃんにゃん、おこぷんぷん、めっ!」と頬を膨らませれば、ルシアは「う……」とあからさまにたじろぐ。そんな彼らの様子にグリアムは笑い、ルシアの肩をぽんと叩いた。
「……なあ、タオル」
「……は?」
「俺がおかしくなったら、後は頼むな」
そう告げると、ルシアは訝しげに眉を顰めた。何言ってんだこいつ、とでも言いたげな視線を送った後、「いや、貴様いつも様子おかしいだろ……」と口火を切った彼に、グリアムは柔らかく破顔する。
その不自然な笑顔にもルシアは一層怪訝な表情を浮かべたが、直後、リビングからはウルが顔を出した。彼女と一瞬目が合ったグリアムは、思わずぱっと視線を逸らす。
「……おかえりなさい。遅かったですね」
口を開いたウルに、グリアムは「……あ、ああ……」とぎこちなく相槌を打って彼女の横を素通りした。彼の反応は見るからによそよそしく、ウルは伏し目がちに黙り込む。
一方のグリアムもまた、視線を落として奥歯を僅かに軋ませていた。
──教団はウルティナを使って、君を騙して監視している。
昼間のアンデルムの言葉が蘇り、痛む胸を押さえる。彼がそう告げた時、これまでのウルの一連の行動が心底腑に落ちてしまった事が、グリアムはとてつもなく悔しかった。
(……全部、最初から、計画されてて……。俺は教団の手の上で、転がされていただけ……)
ぐ、と無意識に強く手を握り込む。ロザリーはきょとんと目を丸め、不意にグリアムの顔を覗き込んだ。
「ママ……、どこかいたいの?」
「……え?」
「いたいの、いたいの、とんでけー!」
言いながら、ロザリーは小さな掌でグリアムの両頬をぺちりと挟むように叩く。子供の力とは言えなかなか全力で叩かれたため、そこそこに痛い。「いやいや、叩いてどうすんの……」と思わずこぼしかけたが、目の前の彼女は真剣に彼を心配しているようで。
「……もう、いたいの、とんでった?」
そう不安げに尋ねたロザリーに──グリアムの胸は、また強い痛みに襲われる。彼は思わず彼女を抱き締め、か細い声を発した。
「……ごめんな、ロザリー……」
「……? まーま?」
「……俺が……お前の本当の母親、見つけてやるって言ったのに……」
──俺だった。俺のせいだったんだ。
グリアム消え去りそうな声で告げ、困惑しているロザリーを更に抱き寄せる。
彼女がどのような経緯で、
ロザリーに、自分の一部が埋め込まれてしまったせいで。彼女は、本当の家族から引き離されてしまったのだ。
「……ごめん……」
何度もそう繰り返し、床に膝をついてロザリーを抱き竦めている彼の背中を、ルシアはますます訝しげに見つめる。
「……? やっぱりアイツ、もう既に様子おかしいんじゃ……?」
「……彼に、何か言われたんですか?」
グリアムを凝視しながら呟いたルシアに、ウルがぼそりと尋ねる。ルシアは「え? ああ……」と頷き、先程グリアムから告げられた言葉をウルへと伝えた。
「なんか、『俺が様子おかしくなったら後は頼む』って。つっても、元々アイツ様子おかしいだろ? 何を今更……と思って」
「……」
「……? おい、どうした?」
黙り込んだウルの顔をルシアはそっと覗き込む。すると、彼女は俯いたまま小さく声を発した。
「……バレた」
「……え?」
何が? と尋ねる前に、ウルはパッと顔を上げて笑顔を作る。困惑しているルシアににこりと微笑み、「もう夜も遅いから、そろそろ寝る用意します」と彼女は身を
「は!? お、おい……!」
「それじゃ、また明日」
ウルは笑顔でルシアに背を向け、まるで彼を閉め出すかのようにリビングの扉をぴしゃりと閉める。
冷たい空気で満ちる廊下に一人取り残されたルシアは、行き場のない手を宙に漂わせたまま、「……な、何なんだよ……」と狼狽え──やがて、渋々と踵を返したのであった。
* * *
ロザリーを寝床へと誘導し、背中をトントンと優しく叩いて彼女を寝かし付けた後。特に会話も無く黙り込んでいた二人だったが、程なくしてウルが「体、冷えてるでしょう? お風呂溜めましたから、先に入っちゃってください」と背中を押した事で、長い沈黙には終止符が打たれた。
こうして、グリアムはやや強引に浴室へと押し込まれたのである。
──それから、数十分。
風呂の湯に浸かって暖まった体を拭き、インナーの袖に腕を通しながら、彼は不意にズボンのポケットに入れたままだった睡眠薬の小瓶を取り出した。
振れば、カラン、と中の錠剤が揺れる。グリアムは眉を顰め、再びカラン、と中身を揺らした。まるで何かを確かめるようなそれを何度か繰り返し、彼は視線を落とす。
「……」
暫し何かを考え込んで沈黙したグリアムは、やがて小瓶をポケットに戻すと脱衣所を出た。するとすぐに、ふわりと良い香りが漂って来る。
「……あ、師団長。ちょうど良かったです。たった今、ご飯の支度が出来たところなんですよ~」
「……そうか」
にこやかに告げるウルから目を逸らし、卓上へと視線を向ける。遅い時間のせいか、普段よりも控えめな食事がそこには並んでいた。
パンに、白カビチーズと、芋のポタージュ。
濡れた髪を耳に掛け、グリアムはテーブルへと近付く。
「どうぞ、座って下さい。寝る前なので軽くですけど……何も胃に入れないより、少し食べた方がよく眠れると思いますから。今日の自信作はお芋のポタージュですよ~、召し上がれ~」
「……」
「コーヒーも飲みます? あ、でも寝る前だからホットミルクの方が良いかしら。すぐ淹れますね」
「……ウル」
キッチンへ向かおうと立ち上がった背中に呼び掛け、グリアムは彼女を引き止める。するとウルは立ち止まり、笑顔のまま振り返った。
「どうしました? 師団長」
「……コーヒーは自分で淹れる」
「あら、ご自分で? 出来るんです?」
「……教団でも、コーヒーだけは自分で淹れてた。心配しなくてもちゃんと出来る」
暗い声色で素っ気なく続け、グリアムはウルの横を素通りする。ウルは何か言いたげに一瞬口を開いたが、彼女がその声を発する事はなかった。
グリアムはキッチンのコーヒーミルに豆を入れ、ゴリゴリと回し始める。やがて慣れた手つきで抽出したコーヒーをカップに移しながら──グリアムは、ポケットの中の睡眠導入剤を取り出した。
「……ウル」
「はい」
「お前、コーヒーに角砂糖入れた方が好きだったよな。何個入れる?」
言いながら、グリアムは小瓶の蓋を開けた。ウルは暫し黙って考えていたが、程なくして「そうですねえ、二つぐらい入れた方が好きですよ」と答える。
「……そうか」
グリアムは頷き、錠剤を二粒
「……ちょっと、抽出する量を間違えた。ついでだからお前の分も置いとくぞ」
白々しく
「……」
訪れる沈黙の中、グリアムは自ら淹れたコーヒーに口をつけた。こくりとそれを喉に流し込めば、暖かな苦みがじわりと口の中に広がる。
その一方で、ウルは彼の淹れたコーヒーを一切口に運ぼうとはしなかった。
「……飲まないのか」
ややあってグリアムが尋ねれば、ウルはにこりと微笑んで「私、実はすっごく猫舌なんです~。少し冷ましてから頂きますね」と答える。その返答にグリアムが無言で頷けば、「それより、」と今度は彼女が首を傾げた。
「師団長こそ、早くご飯食べてくださいよ。せっかく温めたのに冷めちゃいますよ、お芋のポタージュ」
愛らしく微笑み、ウルは頬杖をついてポタージュに視線を向ける。「何なら食べさせてあげましょうか? 甘えん坊な旦那様ですねえ」とおどけながら伸ばされた彼女の手を、グリアムはやんわりと片手で制した。
「……なあ、ウル」
「はい?」
「初めてお前が俺に作ってくれた朝食も……芋のポタージュだったよな」
「……え?」
「俺、あの時、本当に……この芋のポタージュが、世界で一番旨いと思ったんだ」
──でも、今日は食べない。
そう続けて、グリアムはウルの目を見据える。
「……お前、この中に入れただろ」
「……、何の話……」
「とぼけるなよ。入れたんだろ? これ」
グリアムは自らのポケットに手を突っ込み、触れた小瓶を取り出して卓上に置く。ウルは黙り込み、無表情に目を逸らした。
「……知りません。何ですか、それ」
「とぼけても無駄だ、もう分かってる。俺が風呂に入ってる間に、中身が一粒分減ってた。小瓶を振った時の粒が落ちるタイミングと、音の違いですぐに分かる。僅かな差だけどな」
「……」
視線を逸らしたまま、ウルは口を噤む。「ウル、」と再び呼び掛けるが、反応はない。
「……お前、俺の事全部知ってるんだろ。実験で造られた、敵国の皇帝だって事も……、俺が教団に利用されてる道具だって事も」
「……」
「ずっと、俺を騙して監視してたんだろ。逃げないように。寝返らないように。予期せず俺の中の皇帝が復活したらどうする気だった? 俺を殺すのか? それとも捕まえて、また隔離して──」
「……っ、違う、私は……っ!!」
ウルは突として声を張り上げ、その場に立ち上がった。泣き出しそうな表情でグリアムを見下ろす彼女を、彼は黙って見上げる。
「……私は……、私達は……っ」
「……」
「……あなたを、守りたくて……」
ぐ、とウルは強く拳を握り込み、震える声を絞り出した。下唇を噛み締めて俯く彼女を見つめ、グリアムは口を開く。
「……明日の朝、アンデルムが俺を迎えに来る。帝国に来る意思があれば、待ち合わせ場所に来いって言われた。お前と穏便に別れたいなら使えって、ご丁寧にその薬まで渡されてな」
「……っ」
「でも、お前は優秀な部下だ。そんな小細工、一瞬で見抜かれるのも分かってた」
グリアムは冷静に語り、不意に、トレイの上に置かれたままだった木のスプーンを握り取った。冷めつつある芋のポタージュをくるりと掻き混ぜ、彼は睡眠導入剤入りのポタージュを並々と掬う。
「……でも、俺は、」
「……、師団長……?」
「……俺は、帝国には行かない」
最後にそう告げ、グリアムは薬の入ったポタージュを自らの口に含んだ。その行動にウルが目を見開いたのも束の間、彼の体はぐらりと傾く。
「──師団長!」
ウルは叫び、即座に床を蹴った。倒れ込んで来た彼の体を寸前で支え、抱き寄せる。
しかしその直後、状況は一変した。
──ドンッ!
「……っ!?」
突如体を強く押し返され、背中への衝撃と共にウルの視界が暗転する。何が起きたのか状況を理解する暇もなく、次の瞬間には彼から唇を塞がれていた。同時に口内にはどろりと液体が流れ込み──まずい、と焦燥した頃には、もう遅い。
「っ、ん、んんー……っ!」
抵抗しようと暴れるが、グリアムに拘束された四肢は振り解けなかった。薬の入ったポタージュを口移しによって口内に流し込まれ、吐き出そうと抗うが、グリアムがそれを許さない。
喉を通って体内へと流れ込んだ睡眠導入剤は、徐々にウルの意識を奪い始める。
「……っ、う……、ぅ……」
「……ウル、ごめん」
遠のいて霞み行く意識の中、ウルの唇を
「……俺は、帝国には行かない。……けど、」
「……っ、グリ、アム、く……」
「──ここにも、居られない」
涙で滲む視界の中、同じように表情を歪めて目尻に涙を浮かべる彼の顔が映った。「……いや……」と力無く声を発せば、またグリアムの唇が重なって、離れる。
「……ごめん、ウル……」
「……嫌、だ……」
「お前のお願いは聞けない」
「……っいや……、お願い、」
──行かないで。
震える手を伸ばして、グリアムに縋る。けれど意識はどんどん遠のくばかりで、彼も、頷いてはくれない。
あの日散った赤い薔薇が、一瞬ウルの脳裏を過ぎった。
どんなに手を伸ばしても、追いかけても。
彼の手はいつも掴めなくて、萎れた赤い花弁だけが、手の中からこぼれ落ちるばっかりで。
「……俺達の家族ごっこは、これで終わりだ」
──さようなら。
彼の涙声が、耳元で別れを告げる。それを最後に、ウルの意識は、とうとう闇の中に沈んだ。
* * *
「──い……おい……、おいクソ女! 起きろ!」
「……!」
はっ、と次にウルの意識が覚醒したのは、窓から朝日が差し込む冷たい床の上だった。「貴様、何でこんな所で寝てるんだ」と呆れ顔で見下ろすルシアと目が合い──彼女は大きく目を見開いて上体を起こす。
「……っグリアムくん!!」
「うお!?」
突如起き上がったウルにびくりと肩を震わせるルシアだったが、続いて「グリアムくんは!?」と掴みかかった彼女のただならぬ様子に、喉元まで出かけた文句すらも飲み込んでしまった。
「し、知らねーよ……俺が来た時には、もう、家に居なかったけど……」
辿々しく彼が続ければ、ウルは絶望したように表情を歪めてふらふらとその場に崩れ落ちる。しかし程なくして「あ、でも……」と彼が語った言葉の続きに、項垂れていた彼女の顔は持ち上がった。
「なんか、手紙? みたいなのは、机に置いてあった」
「……え……?」
「俺は教養がないから、字は読めん。多分、貴様に宛てた手紙だろ。ほら」
そう告げたルシアから手渡された紙を、ウルは震える手で受け取る。そして、恐る恐るとその短い文面に視線を落とし──彼女は、とうとう泣き崩れた。
「……は!? お、おい、どうした!?」
「……っう……、うあぁ……っ」
「おい、ウルティナ……!」
「うあぁぁ……っ」
ぼたぼたと、握り込んだ白い紙の上に大粒の涙が染みを落として行く。彼女に宛てられた置き手紙には──こう内容が記されていた。
『──世界最強の魔導師は、家出したので探さないで下さい。
P.S.
俺は、君を愛していた』
「うわぁぁぁ……っ!」
偽りの夫婦が数ヶ月間を過ごした幸せの家には、ウルの悲痛な泣き声だけが、響き渡っていた。
〈第6章 …… 完〉
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