第50話 vs 嘘と幸せ
冷たい風が強く吹き、舞い上がった白い雪が遠くへ吹き飛ばされていく。日暮れの公園に人の姿はない。グリアムはかじかむ手を握ったり、開いたり。それを何度も繰り返し、ただ遠くを見つめていた。
「──あら? グリちゃん?」
ふと、背後から掛けられた声。びく、と肩を震わせて振り向けば、そこには不思議そうに目を丸めたリザが立っていた。彼女はベンチに座り込むグリアムに近付き、「寒いのに、こんな所でどうしたの?」と優しく問い掛ける。グリアムは何も言わず、リザから目を逸らした。
「あらあら、こんなに雪を被って……。手も真っ赤じゃない。雪だるまになっちゃうわよ」
「……」
「……何かあったの? 元気がないみたいだけれど」
リザは微笑み、自身のマフラーをグリアムの首に巻き付ける。「こんなお婆ちゃんの古臭いマフラーでごめんなさいね」と付け加えた彼女の優しさが、言いようのない虚無感に苛まれていたグリアムの胸に僅かな安らぎをもたらした。
しかしそれでも、落胆して濁り切った彼の心の色は元に戻らない。視線を落としたまま何も言わない彼の冷え切った手を、リザは
「ほら、グリちゃん。お家に帰りましょう? ウルティナさんやロザリーちゃんが心配するわ」
まるで幼い子供に言い聞かせるような、慈愛に満ちた声。帰ろう、と手を握る彼女に、グリアムの表情は僅かに歪んだ。やがて彼は、消え去りそうな声を紡ぐ。
「……嫌だ……」
「……え?」
「帰りたく、ない……」
──帰るのが、怖い。
そうぽつりと呟き、グリアムはリザの手を離す。そのまま俯いてしまった彼に、リザも口を閉ざして黙り込んだ。
しかし程なくして、彼女は再びその口元に笑みを描く。
「……そう。それなら、仕方ないわね」
「……」
「ねえ、グリちゃん。……あなた、私と初めて会った時のこと……覚えてるかしら」
「……え……?」
不意に尋ねられた問い。グリアムが僅かに顔を上げれば、やはりリザは柔らかく微笑んでいた。
「ほら、マーテル
「……、ああ……」
「あの日ねえ、私……、実は、お墓参りに行った帰りだったの」
「……お墓参り……?」
「ええ。……息子のね」
ふ、と切なげにリザは視線を落とす。グリアムは瞳を見開いて声を詰まらせた。リザはグリアムの横に腰を下ろし、「ふう、」と白い息を吐く。
「……私の息子ね、去年死んじゃったのよ。ちょうどグリちゃんぐらいの年頃でね、可愛らしい女性と結婚したばっかりだったわ」
「……」
「数年前にこの村を出て、ずっと王都に住んでいたんだけれど、奥さんの妊娠をきっかけにこの村に戻って来る事になってね。それで、今グリちゃん達が住んでる、あのお家を建てたのよ。……あの家には、本当は息子夫婦が住むはずだったの」
リザは懐かしむように目を細めた。「……結局、あのお家に息子夫婦が住む事は無かったけれどね……」と続けた彼女に、グリアムは苦く表情を歪める。
──新築一戸建て。小さな庭付きの木造家屋。
建てられたばかりのはずなのに、誰も住んでいなかったあの家。住民はいないのに最低限の家具が揃っていて、部屋の中も小綺麗に掃除が行き届いていて、何故か、大きなダブルベッドが置かれていた。それらの理由が、今になってようやく腑に落ちる。
何も言葉を発せないグリアムの隣で、リザはぽつぽつと過去を語り始めた。
「……去年の秋口だったわ。直前まで続いていた長雨のせいで、マーテル山道で土砂崩れが起きて……村に向かっていた息子夫婦を乗せた馬車が、巻き込まれて土砂に埋もれてしまったの。……それで呆気なく、あの子達はこの世を去った」
「……」
「あまりに突然で、現実味がなくて……。小さい頃からイタズラが好きな子だったから、『全部嘘だよー』なんておどけながら、ある日突然帰って来るんじゃないかと思ってね。……今思えば、現実から目を逸らしていただけだったけれど……ずっと、あの空き家のお掃除をして、息子がいつでも帰って来れるようにしていたの。……馬鹿みたいでしょう?」
ふふ、と小さく笑って、リザは暗くなった空を見上げる。グリアムはやはり何も言えず、俯いたままだ。
「……あの日はね、息子夫婦が死んでからちょうど一年目の命日だった。それで、マーテル山道に行ったら、」
「……」
「──あなたが、行き倒れて転がってたのよ。グリちゃん」
ぴくりと、グリアムの肩が小さく震える。そろりと顔を上げ、視線を彼女に向ければ、リザはやはり微笑んでグリアムを見つめていた。
「私、最初はビックリしちゃってねえ。怪我でもしてるのかと思って慌てて声を掛けたら、『お腹すいた』ですって。思わずおかしくって、笑っちゃった」
「……、うん……」
「……それで、つい放っておけなくて、家に連れて帰っちゃってね。もし悪い人だったら、って後になって少し心配になったけれど……あなたが美味しそうにご飯を食べてる姿を見たら……、何だか……」
「……」
「……息子が、帰ってきた、って……思っちゃって……」
時折言葉に詰まりながら、リザは続ける。「勝手にそんな風に思って、ごめんね」と謝った彼女に、グリアムは力無く首を横に振った。
リザは鼻を啜り上げながら、しんしんと雪の舞う空を仰ぐ。
「……本当はね、あのお家、見るのが辛くて……、いっそ取り壊そうかと、思ってたの……」
「……うん」
「でも、グリちゃんとウルティナさんが、あの家に住むようになって……ロザリーちゃんや、セルバくんや、タオルちゃんが、あの家で楽しそうに過ごしてくれて……。それが、すごく嬉しかった。まるで本当の息子夫婦と、孫が出来たみたいで……」
「……うん……」
「私はね、グリちゃん。あなたと素敵な奥さんが……、あなた達みたいな素敵な家族が、あの家に住んでくれて……とっても救われたのよ」
ほう、と白い息を吐き、リザは破顔した。かじかむグリアムの手を握り、「ありがとうね」と告げた彼女に──グリアムの胸は強い痛みを放つ。
こんな風に、純粋に。冷え切った己の手と心を温めようとしてくれる彼女の優しさが、今はただ、苦しい。
なぜなら、自分は嘘をついている。
リザの言う“奥さん”も、“家族”も──“グリちゃん”ですらも。全て、偽り。全部、嘘だ。
(……俺は、リザさんの息子の代わりには、なれない……)
本当の事など何一つ告げていない、そんな後ろめたい自分に、純粋すぎる彼女の息子の代わりなど務まるはずがない。グリアムは下唇を噛み、リザから目を逸らす。
(俺は、ただ……リザさんの息子が得るはずだった、幸せの場所を奪い取って……嘘だらけの家族ごっこで、日々を誤魔化して過ごしているだけ……)
その場しのぎの、不安定な繋がり。ほつれて複雑に絡まっただけの細い糸のような、そんな関係だ。
いくら結び目を頑丈に固めたって、手前の綻びを少しでも強く引っ張ってしまえば、容易く千切れてバラバラになってしまう。
脆くて、儚い。名前のない、虚弱な関係性。
一度付けようとした
グリアムは目を逸らしたまま考え込み、ポケットの中の指輪のケースを握る。何も言わない彼の顔を一瞥したリザは、やがて重い腰を上げた。
「……何があったかは、私には分からないけれど……、落ち着いたら、早めにお家に帰ってあげてちょうだいね。みんな、きっとグリちゃんの事を心配してるわ」
「……うん」
「それじゃあ、また明日。風邪ひかないようにね」
そう言い残し、リザはグリアムの元を離れて行く。ややあって、その場には痛いほどの静寂が戻って来た。
気が付けば、周囲は真っ暗。雪がチラつく夜空には星も見えない。
グリアムは黙り込んだまま空から降る雪を見つめていたが、程なくしてようやくその場に立ち上がった。リザに貸してもらったマフラーを口元まで引き上げ、ふらりと雪道を歩き出す。歩き慣れたと思っていた家までの道は、なぜだかやけに遠く感じた。
ざく、ざく、ざく。
重たい足取りで、白く染まる地面に足跡を残しながら家までの道のりを歩く。それほど距離は離れておらず、ゆっくり歩いたはずなのに、ほんの数分で家の灯りが見えてしまった。
──身勝手な家出を決行して、早数ヶ月。偽りの自分が、偽りの家族と共に過ごした、あたたかい家。
本当は、他の誰かが暮らすはずだった、幸せの家。
「……」
グリアムは立ち止まり、地面を見つめる。──ああ、ダメだ、と拳を強く握り込んだ。
あの家の幸せを、壊す事など、やはり出来ない。
(このまま俺がこの家に居れば、いつか、俺の中の皇帝が目を覚ます……)
そうなれば、あの家の幸せが壊れてしまう。たとえ偽りの幸せでも、ウルの言葉が全て演技でも、それでも──。
(……俺は、あの家の幸せを、壊せない……)
じわりと滲む視界。グリアムはそれを誤魔化すようにかぶりを振り、ポケットの中に手を突っ込んだ。
触れた小瓶の中の錠剤が、からんと音を立てる。
(……俺は、……俺は……)
彼は奥歯を軋ませ、手に触れていた冷たい小瓶を、強く握り締めた。
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