第46話 いいえ、何も
窓から穏やかな光が差し込み、ウルは暖かな温もりに包まれて目を覚ました。ゆっくりと瞼を開ければ、目の前には自分を抱き寄せたまま眠る愛しい彼の寝顔。幼い頃のあどけなさをほんのりと残しているその顔に、ウルは小さく微笑みをこぼす。
不意に視線を落とせば、左手の薬指には、銀のシンプルな指輪が嵌められていて。ああ、そうだった、とウルの頬は沸々と熱を帯びた。
(……私……)
──彼の、奥さんになったんだ。
そう、改めて自覚する。薬指に光るシンプルな装いの指輪が、なぜだかきらきらと輝いて見えた。言いようのない愛おしさが込み上げて、思わず彼女は眠るグリアムの胸の中に飛び込んでしまう。「んむ……」と寝苦しそうに彼は声を発したが、どうやら起きてはいないようだった。
(どうしよう……。グリアムくんと顔を合わせたら、私絶対ニヤけちゃう……)
緩みそうな頬を引き締め、ぎゅうう、と彼の細い体を抱きしめる。そろそろ朝ごはんの支度をしなくちゃいけないのに、このまま離れたくないなあ……、とウルはグリアムの胸に頬を寄せた。
(ううう、好き……どうしよう、私、もうだめかも……)
好きすぎて爆発しそう……、とグリアムと同じような思考に陥り始めたところで、ようやく彼女は自分を律して彼の腕の中から脱出する。名残惜しさを感じつつグリアムの寝顔を見下ろし、彼女は恐る恐るとその頬に顔を近付けた。
──ふに。
起こさぬよう、ゆっくりと。
眠る彼の白い頬に唇を押し付けて、ウルはパッとベッドから離れる。途端に顔を紅潮させ、彼女はにんまりと口元を緩めた。薬指に嵌められた“証”を視界に入れる度、嬉しくて何度も左手を見つめてしまう。浮かれて指を切らないようにしなきゃ、と自身に言い聞かせながら、彼女はいつものように朝食の準備に取り掛かった。
しかし、その直後。
ウルの脳内には、ノイズのような音が鳴り響く。
──ザザッ……ザッ……ザ……。
「……!」
ハッ、と彼女は今の今まで緩んでいた顔を引き締め、息を呑んだ。すぐさま踵を返すとリビングの扉を開け、冷たい空気で満ちる廊下へと足を踏み出す。ザザ、ザ、と脳内に響いていたノイズには、やがて人の肉声が混じり始めた。
『──ザザ……ウル……、──ザッ、──くん……、ウルティナくん……』
「……」
『……ウルティナ……くん、聴こえ──ザザッ……かな……』
ウルティナくん、と何度も呼び掛ける声。ウルは暫く黙り込んでいたが、やがて目を閉じ、脳内に響く“
「──はい。聞こえています、オズモンド司令官」
『……ザッ──……、ああ、よかった。繋がったみたいだね』
ようやく鮮明になる声。
念話の送り主は“
ウルは整然として「応答が遅くなり、大変申し訳ございません」と彼に謝罪を告げる。オズモンドは朗らかに笑い、『いやいや、いいんだよ。早朝にごめんね』と穏やかに応答した。
「……任務の件でしょうか?」
些か間を置いて、ウルが問い掛ける。するとオズモンドからは『ああ、そうそう。最近連絡がないから、何かあったのかな〜って思って』と返事が返された。ウルはにこりと微笑み、努めて明るく声を発する。
「うふふ、すみません司令官。私とした事が、つい連絡を怠ってしまいました。師団長の監視なら問題なく遂行しておりますわ。どうぞご心配なく」
『あ、そう? 問題ないなら良かった。ほら、グリアムくんって時々突飛な行動に出るでしょ? 何考えてるのか全く読めない時があるからね。苦労してるんじゃないかなって心配してたんだよ』
「……いえ〜、そんな事は〜」
──めっちゃありましたね。ええ。
ウルは遠くを見つめ、胸の内だけで本音をこぼした。しかし彼女はあくまで平然を装い、「師団長、ああ見えてしっかりしてるんですよ〜」と心にもない嘘を
『まあ、任務が順調なのはいい事だね。その調子で今後もよろしく頼むよ、ウルティナくん』
やがてそう続けた彼に、ウルは言葉を詰まらせて黙り込む。ふと下げた視線の先には、左手薬指に光る銀の指輪。次いで彼女の脳裏を過ぎったのは、いつの間にかこの家に馴染んでしまっていた、一人一人の“家族”の顔だった。
「……あの……司令官……」
ウルは指輪を見つめたまま、オズモンドに語りかける。『ん?』と答える彼に、彼女は続けた。
「……この、任務って……」
『うん』
「いつまで……」
言いにくそうに告げた彼女に、オズモンドは『なんだ、そんな事も忘れちゃったのかい?』と笑う。ウルが何も答えずにいれば、彼は更に続けた。
『前にも言ったはずだけど……この任務は、“彼”が生きている限り永遠に続くんだよ』
「……」
『期限は“彼を始末するまで”だ。それまでは監視を続けてもらう。絶対に逃がしてはいけない。……そう説明しただろう?』
予想通りの返答に、やはりウルは黙り込んだ。何も言わない彼女を訝しんだのか、オズモンドは『……ウルティナくん? どうしたんだい?』と不思議そうに呼びかける。
──何か、言わなくては。
ウルは自身の手を握り締め、笑顔を作った。
けれど、その唇の上に乗せられたのは、用意していた建前とは全く別の言葉で。
「──私、家族が出来たんです」
ぽろりと、口をついたのはそんな言葉。
しかし口にしてすぐ、一体自分は何を言っているのだろうかと焦燥した。案の定、オズモンドは『……は?』と素っ頓狂な声を発している。
──違う、こんな事を言うつもりじゃない。
すぐに発言を訂正しようと考えたウルだったが、一度飛び出してしまった言葉は、なぜかなかなか止まらなくて。
「……私、今……愛する夫が居て、可愛い娘と、息子みたいな……子供も出来たんです」
『……、え? ……は?』
「……それに、クソムカつくし嫌いだけど、割と頼りになる猫も飼ってて……。近所に、お
『ちょ、ウルティナくん、』
「今日も、今から、みんなに朝食を作らないと──」
『ちょっと待ってウルティナくん。どうした? 君、寝ぼけてるのかい?』
ウルの言葉を遮り、オズモンドは困惑したように声を被せる。ウルは息を呑み、薬指の指輪を見つめて唇を噛んだ。
やがて、オズモンドは呆れたように嘆息する。
『……はあ。一体何の夢を見ているんだか知らないけど、冗談もほどほどにしてよ……。そもそも、前から思ってたけど結婚って誰と? まさかグリアムくんと結婚したとでも言うつもりかい? 冗談きついよ』
「……っ、冗談なんかじゃないんです、司令官! 私は、彼と……!」
『──ウルティナ』
ぴしゃりと、鋭い声がウルを制す。彼女は声を詰まらせ、口を閉ざした。脳内に響く低い声は、更に深い溜息をこぼして言葉を続ける。
『……いい加減にしろ。君、自分の立場分かってるの? 何を甘えた事を言っているんだ、今更怖気付いたのか?』
「……」
『ウルティナ。君の任務は何だった? 言ってごらんよ』
鋭く投げ掛けられ、ウルは奥歯を軋ませる。ややあって、彼女はオズモンドの指示通りに“任務”の内容を紡いだ。
「……私の……任務は……、師団長を監視して……逃さないように、する事です……」
『ああ。……それで? もし、彼に予兆が現れたら?』
「……」
黙り込んだウルは、俯いたまま視線を泳がす。しかし念話の向こう側にいるオズモンドは、圧を感じさせるような声で『言いなさい』と低く
(……“予兆”……)
先日の、様子がおかしかったグリアムの姿を思い出す。彼がまるで別人のような言動を紡いでいたあの時に──既に彼女は、“彼”の片鱗を見ていたのだ。
ウルは唇を噛み、指輪の光る左手を握り締める。
次いで、“俺と結婚してくれ”と涙声で告げた、昨晩のグリアムの顔が彼女の脳裏を過ぎった。
「……師団長に、予兆が現れた、その時は……」
『……』
「私が……」
ウル、と呼び掛ける優しい声。家族になりたい、と紡いだ弱々しい声。昨晩の彼が告げた、不器用な言葉の一つ一つ。それは紛れもなく、“グリアム”のものだ。
彼の事を思い出すと今にも泣いてしまいそうで、ウルは思わず左手で目元を覆った。ひやりとした指輪の冷たさが、胸を締め付ける。
「私が……師団長を……」
『……』
「──始末、します……」
そう言葉を続けた瞬間、目尻から溢れた雫が指の間を伝って流れ落ちた。ウルはその場に力無く座り込み、耐えきれずに溢れ出した雫をぽろぽろと落とし始める。
そんな彼女を気遣う様子も無く、『分かってるなら、あとは理解出来るね?』とオズモンドは冷淡に声を紡いだ。ウルは「……はい……」と掠れた声で呟き──薬指の指輪に、そっと指先を触れる。
涙で濡れた銀の指輪は、氷のように冷たく感じた。
『……じゃ、今後も君に任せるけど……夢を見るのはほどほどにして貰わないと困るよ。僕は君を信頼して、彼の下に置いてるんだ。彼と結婚するだなんて戯言は、一瞬の気の迷いだと思って今回は忘れてあげるから……後は頼むよ』
「……」
『失望させるなよ、ウルティナ。君には期待しているんだから』
──それじゃあ、また。
その言葉を最後に、ブツッ、とオズモンドとの念話が途切れる。
脳内に響く声が聞こえなくなっても、まだ、ウルはその場から動けない。
彼女は座り込んだまま、抱えた膝に自身の額を押し付けて唇を噛み締めた。
脳裏に浮かぶのは、愛おしい彼の顔。特別になれたと思っていた、儚くて淡い、一夜限りの夢物語。
(……グリアムくん……)
ウルは声を押し殺したまま嗚咽に喉を震わせ、涙を拭って、左手の薬指に嵌められていた指輪を抜き取る。不器用な彼が昨夜あれほどモタつきながらそこに通したはずの指輪は、いとも容易く外れてしまって。──それがなんとも切なくて、また泣けてくる。
(グリアムくん、ごめんね……)
私、あなたの特別になりたかった。
でも、私ね、どうしても譲れないものがあるの。
強くなって、あなたを守ると──あの日、潰れてしまった赤い薔薇に誓ったから。
だから、ごめんね。
(……たった、一夜限りだったけど、)
──私は、あなたの花嫁になれて幸せでした。
* * *
「……ん……」
丁度その頃、彼が起きた事に気が付いたのか、テーブルに料理を並べていたウルが振り向く。彼女はいつものように微笑み、ぱたぱたとグリアムに駆け寄った。
「あ、やっと起きたんですか〜? もうお昼になっちゃいますよ? ほんとに寝坊助ですねえ、師団長ったら」
「……、」
──“師団長”?
まだ酒の残っている覚束ない頭が、彼女の発言に違和感を覚える。最近ほとんど呼ばれる事のなかったその呼称に首を傾げていると、「相変わらずアホ面ですねえ、師団長は」と彼女は更に“師団長”という言葉を続けた。
暫し訝しんだグリアムだったが、不意に、昨晩己が彼女にプロポーズしてしまった事を思い出して──彼の動きはぴたりと止まる。
(……あ……、そうだ。俺……昨日、ウルに……指輪……)
そう考えた途端、顔には一気に熱が集中した。鼓動が早鐘を打ち始め、グリアムは生唾を飲むとあっという間に首から耳に至るまでを真っ赤に染め上げる。
目の前で微笑んでいるのは、正真正銘、自分の“妻”なのだ。
「……っ、う、ううう、ウル……! お、おは──」
おはよう、と。
そう声を紡ぎ掛けて──グリアムの言葉が止まる。
彼の視線の先には、ウルの左手。その手の薬指に、昨晩確かに己が嵌めたはずの指輪が──なぜか、見当たらない。
(……あれ……?)
グリアムは困惑し、自身のポケットの中を探った。すると、そこには彼女に渡したと思っていた指輪のケースが未だに入ったままで。
ますます、彼は混乱する。
(え? え? な、何で? ……お、俺……昨日、ウルに指輪渡して……結婚しようって、言ったよな……?)
じわりと掌に汗を滲ませ、彼は目を泳がせた。最悪の想定が脳裏を過ぎり、まさか、と彼は戦慄した。
まさか──全部、夢だったのだろうか?
(あ、あり得る……。俺、酔ってたし……)
そう考えて更に冷や汗を流し、グリアムは「嘘だろ……」と焦燥した。……だが、あんなに鮮明な夢があるだろうか。
幸せそうにはにかむウルも、愛おしさで泣けてしまったあの感情も、触れ合った唇の熱も──全部、夢だったなんて。そんな事あるか?
「……なあ、ウル……」
「はい?」
にこりと、ウルは微笑んで答える。
グリアムは意を決し、彼女に問いかけた。
「お前、昨日……」
「……」
「俺から、その……何か、受け取らなかった?」
はっきりとは口にせず、それとなくグリアムは尋ねる。ウルはいつも通りの笑顔を崩さぬまま、こてんと愛らしく首を傾げ、すぐにその答えを告げた。
「──いいえ、何も」
あっさり、一言。ただそれだけ。
グリアムは声を詰まらせ、何か言葉を返そうと口を開く。
けれど、結局、何も言えなくて。
「……そ、か……」
彼は目を逸らし、乾いた笑みを力無くこぼして──彼女の華奢な左手の“空白”のままの薬指を、黙って見つめる事しか出来なかった。
.
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