第43話 “お前が誰だ”

 くらくらと、世界が回る。まるで頭の中身がかき混ぜられているかのように、視界は揺らいで定まらない。


 やがて、ようやくグリアムの視界の揺れが治まった頃。目の前に伸びるのは、大理石調の真っ白な廊下だった。ここは夢の中だろうか。周囲には白い薔薇の花が咲き誇り、グリアムを導くように風に揺れている。


 ──カツ、カツ、カツ。


 眩しい程に真っ白な廊下を、グリアムは歩いた。白い薔薇の花は、ただ静かに彼を廊下の奥へといざなう。


 すると程なくして、彼の耳は微かな声を拾い上げた。

 嗚咽を上げて泣きじゃくる、誰かの声。



(……、ウル……?)



 白い薔薇に囲まれた、長い廊下の最奥部。床にぺたりと座り込み、吐息を震わせて涙を落としていたのは、幼い頃のウルだった。


 彼女の目の前には、一輪の薔薇。

 潰れて、踏み散らされ、見るも無残な姿と化した──仲間はずれの、赤い薔薇。



『……連れていかないで』



 幼いウルは、震える声でそう言葉を紡ぐ。床に座り込む彼女と赤い薔薇の前方には、黙ってたたずの姿があった。



『……お願い……、グリアムくんを、連れていかないで……』


『……』


『グリアムくんを、返して……!』



 潰れた薔薇の赤い花弁に、ぱたぱたとウルの涙が落ちる。俯いて泣き縋る彼女の目の前に立つ少年は、くすくすと彼女を見下ろして楽しげに笑った。


 長く無造作に伸びた、白銀の髪。

 やんわりと細められた、琥珀色の瞳。

 華奢で頼りない、細く白いその身体も。


 グリアムは、よく知っている。



(……あれは──俺?)



 幼いウルを見下ろす、。その姿は、幼い頃の自分そのものだった。

 ウルは大粒の涙を止めどなく流しながら、目の前に立ち尽くしている幼いグリアムに懇願する。──“グリアムくんを返して”と。



(……どういう事だ? あれは俺じゃないのか? だとしたら──)



 ──あれは、誰だ?


 そう訝しんだ瞬間、ふと、それまでウルを見下ろしていた“誰か”の視線が上がる。幼い頃の自分によく似た彼は、背後で傍観していたグリアムの目を黙って見つめた。やがて、その口角がにんまりと上がる。


 冷たい琥珀の双眸。その視線に射抜かれたグリアムは、ぞくりと背筋が凍り付く感覚を覚えた。


 感じたのは、得体の知れない、恐怖。



「……誰、だ……」



 ぽつりと、グリアムは声を発する。

 畏怖すら感じる少年の瞳を見つめ、彼はてのひらに滲む汗を握り込んだ。



「誰なんだよ、お前……!」



 続けて問えば、少年はくすりと笑って首を傾げる。彼は赤い薔薇を踏み付け、ゆっくりとグリアムに近付いた。


 そして、彼は──幼い頃の自分と同じ声で、グリアムに告げる。



『──



 ぶつん。


 グリアムの意識は、そこで途絶えた。




 * * *




 ──くん……、……アムくん……。



「グリアムくん……!」


「……!」



 はっ、とグリアムの意識が浮上し、閉じていた瞳がぱちりと開眼する。目の前には心配そうに見下ろすウルの顔があり、ようやく目を覚ましたグリアムに「大丈夫……?」と問い掛けた。

 未だにぼんやりと覚束無い頭を少しずつ動かし、グリアムは上体を起こす。やがて彼が「……うん……」と寝ぼけ声で答えれば、ウルはホッと安堵したように息を吐き出した。



「……良かった……。すごい量の鼻血が出てたから、一瞬ほんとに死んじゃったのかと……」


「……え……? 鼻血……?」


「覚えてないの? グリアムくん、お風呂場で鼻血出して気絶しちゃったのよ」


「……、ああ……思い出した……。けど、情けなさ過ぎて今すぐ記憶消したい……」



 思い出さなけりゃ良かった……、と不甲斐なさすぎる先程の入浴の顛末を憂いていれば、ウルは珍しく消沈した様子で俯いてしまった。鼻の詰め物を取りつつ、「……ウル?」とグリアムが不思議そうに呼びかける。すると、彼女はぼそりと弱々しい声を紡いだ。



「……グリアムくん、ごめんね」


「……え?」


「私……考え事で頭がいっぱいで……グリアムくんの事、全然考えてあげられてなかった……。生粋のヘタレで女性に対する免疫の乏しいグリアムくんといきなりお風呂なんか入ったら、耐性無さすぎて最悪ショック死してもおかしくないって、冷静に考えれば分かったのに……」


(どうしよ、嫁にすんごい不名誉なイメージ持たれてて今めっちゃ泣きそう)



 グサグサと、彼女の辛辣な言葉が心に突き刺さる。グリアムは落胆しつつ、「いや……ウン……。ソダネ……」とぎこちなくこぼした。


 ふと自身の格好を見てみれば、大きめのタオルで体を包まれてはいるものの、実質のところ裸のまま。ウルは既にベージュ色の寝間着に着替えていて、濡れていた髪も乾き始めている。彼女は気まずそうに顔を上げ、更にもう一枚、大きめのタオルを彼の肩に掛けた。



「……ごめんね、グリアムくん……。さすがに裸の男の人を着替えさせるのは、その……忍びなくて……。寒くない……?」


「……あ、ああ……大丈夫……」


「……鼻も、痛くない? ごめんね……」



 しゅんと肩を落とし、何度も「ごめんね」を繰り返すウルに、グリアムの胸の奥はきゅうと狭まる。その表情が幼い頃の彼女の姿を彷彿とさせて、グリアムは愛おしげに目を細めた。



「……随分変わった気がしてたけど……お前、やっぱり本質はあんまり変わってないんだな」


「……え」


「小さい頃も、俺がちょっと怪我したりすると、ウルは何度も謝ってたなと思って」



 別にお前が悪いわけじゃないのにさ、と彼は小さく笑う。不器用ながらも優しいその微笑みに、ウルは不意に泣き出しそうになってしまった。


 黙りこくった彼女を不審に思ったのか、グリアムは「……ウル?」と怪訝な表情で呼び掛ける。それでもウルは、黙ったまま俯いていたが──やがて、彼女は彼の体にこてんと力無くもたれかかった。



「……っ、え……!? ウル!?」


「……かないで……」


「え?」


「行かないで、グリアムくん……どこにも……」



 ぺたりとグリアムの胸に額を押し付け、ウルは呟く。弱々しく告げられた言葉に困惑しながら、グリアムは行き場のない己の手をわたわたと宙で泳がせた。



「……お、おい、ウル? どうした?」


「……グリアムくん、お願い……」


「……?」


「ずっと、グリアムくんのままでいてね……」



 どこにも行かないで……、と再度繰り返し、ウルはグリアムに縋り付く。一方のグリアムは、彼女の言葉の意味が分からずに戸惑うばかりだった。



「お、お前……急にどうした? 何言ってるんだ?」


「……」


「……なんか、よく分かんないけど……俺はずっと、俺のままだろ? 心配しなくても、俺はこのまま何も変わらな──」



 ──“お前が誰だ”。



「……!」



 ふと、グリアムは言葉を詰まらせた。

 先程夢の中で対峙した、“己によく似た誰か”に告げられた言葉が、脳裏に響いて木霊する。


 不敵な笑みをこぼす銀髪の少年は、ウルの育てた赤い薔薇を踏み潰してグリアムの元へと歩み寄って来ていた。こちらを見つめる琥珀色の瞳に、得体の知れない恐怖を感じた事を覚えている。



 お前は誰だ?


 ──お前が誰だ。


 俺は、俺だろ?


 ──いいや、違うよ。



 くすりとわらう声が、頭の中で楽しげに響く。そして、“彼”は告げた。



 ──“お前”は、“俺”じゃない──。



「……グリアムくん?」


「……!」



 ハッと我に返り、グリアムは目を見開く。すると、彼に縋り付くウルが不安げに瞳を潤ませてグリアムを見上げていた。「……あ、ごめん……ぼーっとしてた……」と苦し紛れに告げれば、彼女は一層不安げに眉尻を下げる。やがてウルはグリアムの頬に手を添え、その耳元を軽く掌で覆った。



「……ウル?」


「……誰かの声が、聞こえるの?」


「……え……」


「聞いちゃだめ……聞かないで。今度は私が、グリアムくんの耳を塞いであげるから……」



 そう言って、ウルの細い手が彼の両耳を塞ぐ。「……大丈夫。これでもう、何も聞こえないよ」と囁く優しい声が、微かに耳に届いた。それはまるで、グリアムがウルの耳を塞いで“怖い音”から彼女を守った、あの時を再現しているかのようで。

 今にも泣き出しそうなウルの碧眼を見つめ、グリアムは開きかけた口を閉じて押し黙った。


 きっと、彼女は何かを知っている。

 けれど、それを尋ねるのが心底怖いと──そう思った。


 脳裏には、まだ、少年の声が残っている。“お前が誰だ”と問い掛ける、楽しげな己の声が。



(……俺は……)



 ──俺は、誰なんだ?


 喉元まで迫り上がったその問いが、彼の口から言葉として発せられる事は、やはりなかった。




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