第42話 vs お風呂
ドッ、ドッ、ドッ……。
けたたましく早鐘を打ち鳴らす己の鼓動の音が耳に届く。浴槽にたっぷりと張られたお湯。タオルケット一枚で下半身を隠したグリアムは、バスチェアに腰掛け、浴室の中でだらだらと冷たい汗を流していた。
──どういう事だ。なぜこうなった。
自問するが、答えは出ない。
扉を一枚
……やばい。まずい。
グリアムはバクバクと爆速で鼓動を刻みつつ、焦燥に苛まれる頭を抱える。──これは、勝てない。いくら世界最強と言えど、こればかりは勝てない。童貞をこじらせすぎた、この虫けらレベル僅かな理性が、既に狼の顔を覗かせ始めた本能に勝てるはずがない。
(だ、だって、無理だろ……? い、今、俺のすぐ隣の、あの空間に、ウルの……、な、な……)
生おっぱいが──、と、そこまで考え至った所で、ガラガラッ、と音を立てて扉が開いた。途端に心臓が跳ね上がり、グリアムは咄嗟に風呂桶を掴むとバッシャァァン!! とお湯を汲み取って勢いよく頭から被る。浴室に足を踏み入れたウルは「きゃ!?」と小さく悲鳴を上げ、奇行に及ぶグリアムを睨んだ。
「……ちょ、ちょっと! いきなり何してるんですか、びっくりするでしょ」
「……、す、スミマセン……」
「もー、湯冷めしますよ? 寒いんだから……」
ぺた、ぺた、ぺた……。
タイル張りの床を踏み締める足音が耳に届く。その音が近付くに連れ、グリアムの心拍数はどくどくと上がり、髪から滴る水滴を目で追いながら黙り込んだ。
続いて彼の耳に届いたのは、ちゃぷん、と風呂桶を湯船の中に沈める音。彼女のいる方向へと僅かに視線を向ければ、湯を汲み上げる白い腕が視界に入る。ただそれだけの事で彼の胸の奥は狭まって、喉がきゅう、と詰まるような錯覚に陥った。
「──背中、流しますね」
やがて、そう告げた声が浴室内に反響した頃。背中にはトクトクと優しく掛けられたお湯の温かさが広がる。程なくして、「あなた、ほんとに身体ひょろひょろですねえ」と呟いたウルの指先が背中に触れ、グリアムは俯いたまま肩を震わせると心の中で絶叫した。
(う、うおおおっ……!? お、お、俺……っ、これどう反応すんのが正解なのおおお!?)
──わからん。マジでわからん。
先程からぺたぺたと背中を触るウルの手の感覚がこそばゆく、グリアムは顔を真っ赤に染め上げる。どうにか煩悩を散らそうと奮闘するものの、この状況では理性も全く歯が立たない。
まずい。このままでは持て余した性欲が爆発してウルに襲いかかるのも時間の問題。どうにかこの煩悩を散らさなければ……! と、追い詰められた彼は最終手段として──背中にしつこく触れるウルを、「芋」に置き換えて考える事にした。
(……そうだ。今、俺の後ろにいるのは芋……芋だ。顔面はデコボコ、手触りもゴツゴツ、硬いし泥臭いし、決して生で食べるものではない……そうだ、俺の背中を洗っているのは芋だ! 俺は芋に洗われているんだ!!)
そう自身に強く言い聞かせ、グリアムは「芋……芋……」と呪文のように繰り返す。するとグリアムの背中に触れていたウルが、不意に声を発した。
「……背中には、無い……」
「……へ?」
「グリアムくん。次は前を洗うから、ちょっとこっち向いて」
「……、前っ!!?」
想定外の発言に、一気にグリアムの頬が熱を帯びて紅潮する。
いや、待て、“前”って何だ!? “前”ってどこを洗う気なんだ!? と困惑するグリアムを他所に、ウルは「だって、背中はもう洗い終えましたから」とあくまで冷静に返した。──いやいや、そういう問題じゃない。
「い、いいって! 前は自分で洗うし……!」
「だめです、私が洗います」
「何でだよ!?」
「いいから、早くこっち向いて!」
「いや無理っ……ほんと無理、マジで無理!! 多分俺、今お前のこと見たら、出る!!」
「はあ? 出るって何が!?」
「は、鼻血が!! 鼻血が出る!!」
強引に振り向かせようと迫るウルを拒み、グリアムは彼女から逃れようと蹲る。
そもそも今、体の前方を見られる事自体がかなりまずい。前屈みの体勢を保たねばならない、のっぴきならない男の事情があるのだこちらには。
しかし、ウルは「もう! 早くこっち向いてください!」と苛立ったように語気を強めて肩を掴んでくる。「無理! 今まだ無理なの!」と騒ぐグリアムは、ひとまずアレしてしまっているアレを
直後、頭上から勢いよく降って来たのは冷たい水。
「……っ、きゃあ!? 何、つめた……!」
突然冷たい水が降り注ぎ、ウルは思わずグリアムから離れた。一方のグリアムは頭から冷水を浴び、その冷たさによってようやく昂っていた熱を落ち着かせる。
一瞬で体が冷え、肌を刺すような寒さにぶるりと身を震わせたが、痴態を彼女に見られるよりはマシだと己に言い聞かせて耐えた。
(……あ、危なかった……。とりあえず、緊急事態は、脱し──)
げんなりとした表情で口元を押さえ、グリアムはふと顔を上げる。
すると、目の前には──亜麻色の長い髪を普段よりも高い位置でお団子に結い上げ、濡れた
今のシャワーによって濡れてしまった白いタオルが素肌に張り付き、彼女の身体のラインが浮き彫りになってしまっている。たわわに膨らむ胸元の、魅惑の谷間も、くっきりと彼の目に焼き付いてしまって──。
「……」
「……あ、やっとこっち向いた。もう、いきなり水なんか被って、あなた何して──、……グリアムくん?」
「……ウル、ごめん」
ぽつり。グリアムが唐突に謝る。対するウルが「は?」と訝しげに眉を顰めた頃、彼は続けた。
「……出た」
「え?」
「……出ちゃった」
「出……?」
「……鼻血」
──ぼたっ。
水が流れるタイルの上に、真っ赤な液体が数滴落ちる。よく見れば、口元を押さえていたグリアムの手の内側から、大量の血が噴きこぼれていた。
「……え、……えええっ!? ちょ、ちょっと!?」
「ううぅ……」
「ぐ、グリアムくん!?」
くらくらと、白んでいく頭の中にウルの声が響く。
風呂場の床を血まみれにしたグリアムは、ふらつく身体を彼女に支えられ、やがてその柔らかな胸元に、顔を埋めるような形でぽすりと倒れ込み──
(……あ……、おっぱ……)
──がくん。
ついに、意識を手放したのであった。
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