幕間

幕間 - 3 - ルシアの苦悩

 けほ、けほ、こほん。


 苦しげに咳込む声が、先程から何度も耳に届く。咳の音に紛れ、「クソ猫、水取って……」と呼び掛けるウルの掠れた声を聞きながら、ルシアは非常に苛立っていた。

 もぐもぐと手作りのグラタンを口にしながら「うまー」と微笑むロザリーの口元を布で拭い、ルシアは立ち上がる。そのまま乱暴に水をグラスに移し、ウルの元へと持って行けば、彼女は弱々しく「……あと、寒い……ホットミルク飲みたい……」と続けた。更には、「タオルー……俺にも水……」とウルの背後からも声が届く。


 ──ぶちり。


 そしてついに、ルシアの中の何かが、盛大に音を立てて切れた。



「──いい加減にしろよ、貴様らァ!! 小出しに言うんじゃねえ!! まとめて言え、このボケ夫婦!! 二度手間だろうが!!」


「う……、大きい声出さないで、頭痛い……ごほ、ごほ!」


「うるっせえ! そのまま死ねクソ女!! 本当に二人同時に寝込みやがって!! 何で俺が貴様らの看病しなきゃいけないんだ!? あァ!?」


「だって、我が家の家政夫でしょ、あなた……」


「違ぇわ!!」



 怒鳴りつつ、ルシアはウルの口内に体温計を突っ込む。「むぐっ」と声を発して彼女がそれを咥えていれば、やがて示された値にルシアは舌を打った。



「チッ、熱が高いな。さっさと寝ろバカ女。食欲は?」


「……ない……、ゴホッ」


「ふん、だろうな。ホワイトソースの余りでリゾット作っておいたから、腹が減ったら食え」


「タオル~……水……」


「今持ってくるから黙れ死神! つーか貴様は熱ないだろうが! 何で貴様まで寝込んでんだよ!!」


「う~……でもなんか、体が変なんだよ……死ぬかも……」


「はあ!?」



 グリアムの弱気な発言にルシアが眉を顰める。「……ちなみに、どう変なんだよ」とやや心配そうに彼が問えば、グリアムは頬を赤らめ、自身の胸を押さえながら続けた。



「そ、それが……なんか、脈拍がおかしくて……」


「……脈拍?」


「な、なんか、ウルの事考えると、急にドキドキして動悸がする……。それに急に胸が締め付けられて痛くなるし、変な汗出るし……い、今もウルが隣に居るから、すごいドキドキするんだよ! しかも、なぜか抱き締めたくなったり、すぐくっつきたくなるっていうか……とにかく、俺おかしいんだよ! これ、多分病気だよな!? 俺、今まで一度も病気とかした事ないから対処法が全然分かんないんだけどどうしたらい──」



 ──ドスンッ!!


 グリアムの声を遮り、彼の顔の真横に鋭利なナイフが突き刺さる。途端に冷や汗を浮かべたグリアムが視線をルシアへと戻せば、冷ややかな黒い瞳がゴミでも見るかのような眼で己を見つめていた。



「……俺はなあ……今、貴様らの看病とロザリーの子守りで忙しいんだよ……惚気のろけなら他所でやれ、この浮かれ芋が……」


「う、浮かれ芋……? とは……」


「貴様の事に決まってるだろ。……つーか、これ以上この女の熱上げるなよ……茹で上がるぞ、そろそろ」



 低い声でそう付け加え、彼は顎をしゃくってウルを見下ろす。グリアムが視線を彼女に向ければ、真っ赤に染まった顔を両手で押さえ付け、ぷるぷると震えているウルが視界に入った。



「……えっ!? う、ウル!? お前どうした!? 熱上がったのか!?」


「……っ、ばかぁ……」


「ど、どうしようタオル!! ウルが茹だってる!!」


「知るか。勝手にやってろバカ夫婦」



 嘆息し、ルシアは空になったグラタン皿を引いた。「にゃんにゃん、あそぼー」と脚に引っ付いてくるロザリーの髪を撫ぜ、「また明日な。もう寝る時間だ」と返した彼は、ロザリーの手を優しく解くと玄関へ向かう。


 親二人が寝込んでいて退屈なのか、ロザリーはちょこちょことルシアの後を追い掛けた。



「にゃんにゃん、どこいくのー?」


「んー? もう帰るんだよ、風邪ひかないように暖かくして寝ろよロザリー」


「……かえるって、どこに?」



 ぴたり。玄関から一歩足を踏み出して、ルシアの動きは止まった。口を閉ざして振り返れば、ロザリーがきょとんとした表情で彼を見上げている。



「……にゃんにゃん、おうち、ここじゃないの?」


「……」


「じゃあ、にゃんにゃんと、ろざりー……かぞくじゃないの……?」



 しゅん、と白い耳が垂れ下がる。見るからに落胆してしまった彼女を見下ろし、やがてルシアはその場にしゃがみ込むと悲しげに俯くロザリーの頭を撫でた。



「……ああ、違う。俺とロザリーは、家族じゃない。……俺なんかと、家族になっちゃだめだ」


「……? なんで? ろざりー、にゃんにゃんのこと、だいしゅきなのに」


「……」



 ルシアは黙り込み、奥歯を噛み締める。彼はロザリーから目を逸らし、頭をぽんぽんと軽く撫でて立ち上がった。



「……もう寝ろ。おやすみ、また明日な」


「……はやく、かえってくる?」


「……ああ」


「ほんと? あのね、ろざりーね、いいこにまってる! にゃんにゃん、はやくかえってきてね! いてらーしゃい!」



 ぴっ、と手を挙げ、ロザリーが嬉しそうに破顔する。ルシアは切なげに目を細め、彼女に手を振ってその場を後にした。



 ──ざく、ざく、ざく。


 砂利を蹴り、枯葉を踏んで、俯いたまま彼は誰もいない畦道あぜみちを進む。ふと顔を上げて空を見れば、分厚い雲に覆われているのかそこには月も星もなかった。


 月明かりも街灯もない、深い闇に包まれた夜の道。

 歩み慣れたはずの一人きりの小道が、何故だか無性に寂しく感じる。


 程なくして、彼はぴたりと足を止めた。



(……いってらっしゃい、か……)



 そんな言葉を誰かに告げられた記憶など、ついぞない。ろくでもない人生を過ごして来たのだから、当然と言えば当然なのだが。


 捨て子だったルシアは、幼少期を孤児院で過ごし、貧困の最中で売られて行く子供と、汚くて強欲な大人を見ながら育って来た。


 ──外見が良いと、売りに出されてしまう。


 幼いながらにそう理解していたルシアは、身を守るため、わざと自身の顔の左半分を切り付けて大きな傷を残した。食事も極力取らず、日に日に痩せ細って、己の商品価値を落とす。

 しかしそんな事を繰り返す日々の中、とうとう彼も売りに出される事が決まってしまった。外見の悪い子供が売買出来るものなど、だけ。そこで彼は、身を守るための最終手段として──人を殺める事に、手を染めたのだ。


 彼は、家族を知らない。

 誰かの愛情を知らない。

 人を殺める事しか、知らなかった。


 つい最近までは。



「……早く帰ってきてね、なんて……初めて言われたな……」



 ぽつりと呟き、自嘲する。今までさんざ人を殺めておいて、あんな子供の一言に心が揺らぐのも馬鹿馬鹿しい。


 女だろうが、子供だろうが、邪魔だと判断すれば容赦なく殺して生きて来た。十代も後半になり、なりたくもない大人へと徐々に近付くのが苦痛で、二十歳ハタチを迎える前に自ら死んでやろうとずっと考えていた。どうせ、悲しむ者もいないのだから。


 しかし不意に、先程ロザリーが悲しげに呟いた一言が脳裏を過ぎって、彼の口元からは自嘲的に描かれていた笑みが消える。



 ──にゃんにゃんと、ろざりー……かぞくじゃないの……?



「……家族……」



 地面を見つめ、ルシアは小さく呟いた。自身の手を持ち上げれば、人を殺めて来た汚いてのひらが視界に入る。


 この手で幼いロザリーに触れる事を、最初は酷く戸惑った。けれど彼女は、いつもその小さな手を伸ばして、自分を求めてくれるから。


 きゅ、とルシアは自身の手を握り込む。



(……俺は、本当は、)



 純粋に微笑むロザリーの、辿々しい「いってらっしゃい」が、冷たく凍り付いていたはずの心を溶かし始めて。



(……本当は、きっと、誰かに──)



「──あら、タオルちゃん?」


「どォわあぁッ!!?」



 直後。突然背後から掛けられた声に、ルシアは思わず絶叫して飛び上がった。長い尻尾を両手で握って振り向けば、きょとんと目を丸めたリザが紙袋を持って立っている。「あらあら、驚かせちゃったかしら……」と微笑むリザに、ルシアは牙を剥いた。



「っ、ば、ば、ババア、貴様! ふざけんなよ!! 心臓止まるかと思ったぞ!!」


「うふふ、ごめんなさいねえ、驚かせちゃって。タオルちゃん、今からグリちゃんの所にいくのかしら? ちょうど良かったわ」


「は? い、いや、俺はもう、たった今、」



 出てきたところ、と声を続けかけたルシアだったが、最後まで言葉を言い終える前にリザが「はい、これ」と彼に茶色い紙袋を手渡す。ルシアは反射的にそれを受け取ってしまい、眉を顰めた。



「……? な、なに……」


「薬屋さんのところで、お薬煎じて貰ったのよ〜。グリちゃんとウルティナさんが風邪で寝込んでるって聞いたから、心配でねえ。タオルちゃん、今から行くんでしょ? それ渡しておいてくれる?」


「は!? い、いや、だから俺──」


「それじゃあ、よろしくお願いね〜。うふふふ」


「おい話聞けよババア!!」



 叫ぶルシアだったが、こんな時ばかり耳が遠いリザはニコニコと手を振って去って行く。残された彼は紙袋を持ったまま暫し硬直し、ややあって嘆息しつつ踵を返した。



(……くそ、あのババア……全然話聞かねえ……! あと俺、タオルちゃんじゃねえし……)



 チッ、と不服げに舌を打ち、今しがた歩いて来た道を戻る。するとすぐに、先程出たばかりの家が見えて来た。明かりが灯っているのを見る限り、まだ彼らは起きているらしい。


 さっさと届けて、早く出て行こう。


 そう思いながら扉に手を掛け、玄関の戸を開ければ──突如、その場で待ち構えていたロザリーが飛び付いて来てルシアは目を見張った。



「にゃんにゃん、おかーりー!」


「ごっふ!?」



 ドッ、と小さな体が、勢い余って腹部に強烈な頭突きを放つ。その一撃に思わず膝をついて震えるルシアだったが、すぐさま抱き着いて擦り寄って来たロザリーに、喉元から迫り上がった文句すらも発せずに飲み込んでしまった。


 そんな彼の元へ、玄関から顔を出したグリアムも不思議そうに目を丸めてやって来る。



「あれ? タオル。どうした? 忘れ物か?」


「……、い、いや……」


「……? まあ、とりあえずおかえり。寒いし、家の中入ろう。ロザリーもおいで」


「あーい! にゃんにゃんも!」



 ぎゅう、とロザリーがルシアの冷え切った手を握る。おかえり、と彼を出迎えた二人に、ルシアは何の言葉も発せなかった。

 しかし、「にゃんにゃん、おてて、ちめたいねー」と笑ったロザリーの姿を見ていると──やはり、胸の奥の凍り付いていた何かがじわりと溶けて行く気がして。つい目頭が熱くなり、それを誤魔化すように、リザから受け取った紙袋を強く握り締める。


 彼は、家族も、愛情も知らない。

 けれど、本当は……きっと、誰かに。



「……ああ……、ただいま」



 ──誰かに求められたいと、そう思っていたのかもしれない。


 ルシアは小さなロザリーの手をやんわりと握り返し、暖かい家の中へと、その足を踏み入れた。




〈幕間 3 …… 完〉

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