第39話 お前ら早く結婚しろ

 ざあざあと降り続いていた雨も次第に弱まり、あれほどうるさく鳴り響いていた雷鳴も耳に届く事はなくなった頃。


 かつん、かつん、とヒールの踵を鳴らす、黒い髪の美女が一人、マーテル山道へと続く舗装も行き届かない小道を歩いていた。品のいいドレスのスカートを揺らした彼女の背後で、くすくすと楽しげな笑い声がこぼされたのは丁度そんな頃合である。



「お疲れ様~。しっかりお仕事頑張ってくれたみたいだね、助かったよ」


「……」



 不意に掛けられた男の声に、黒髪の美女──アイシャは無表情に振り返る。雨粒と共に木の上から飛び降りたのは、黒い外套がいとうを身にまとった男──アンデルムだった。



「……ご覧になっておいででしたか、アンデルム様」


「うん、もうバッチリ見てたよ。思わず笑っちゃった。君って演技うまいんだね~、普段と全然違うじゃん。女優になれるよ」


「ありがとうございます」



 表情一つ変えず、アイシャは答える。外套の男はフードの下の琥珀色の双眸を細め、楽しげに笑った。



「で、例のは打ったの? グリアムに」


「ええ、勿論でございます。隙を見てグリアム様の首の後ろから投与いたしました。時間が経てば効果が現れるかと」



 アイシャの手の中に収められていたに、アンデルムは「へえ~、楽しみ」と目を細める。彼は更にフードを深く被り、降り頻る雨から身を守った。



「効果って、どのくらいで出るの?」


「早ければ、七日後には変化があるはずです」


「なるほどね。まあ、じっくり観察しますか」



 不敵に笑み、彼はアイシャの横を通り抜ける。「それにしてもさあ~」と再び口火を切ったアンデルムの後に続き、彼女もまた歩き始めた。



「いつまでそのカッコしてんの~? 黒髪も可愛いけど、いつもの髪の方がいいなー、僕」


「ああ、それは申し訳ございません。すぐに戻します」



 唇を尖らせる彼に無表情のまま謝罪し、アイシャはちりん、と鈴をひとつ鳴らす。すると彼女の周囲を淡い光が取り囲み、たちまち黒かったその髪の色が変貌していく。


 やがて、彼女の髪は白銀に染まった。


 その色を見つめ、アンデルムは「あー、やっぱりそっちの方がいいよ!」と満足げに微笑む。銀の髪を耳に掛け、やはりアイシャはにこりともせずに頭を下げた。



「ありがとうございます、アンデルム様。……では、早く城に戻りましょう。色々と準備がございます」


「え~、もう帰るの~?」


「この雨の中、まだお遊びになるおつもりですか?」


「あは、冗談だよ。言ってみただけ。……じゃ、帰ろっか」



 ──


 そうアンデルムが呼びかければ、アイシャ──否、レイラは眉一つ動かさぬまま「承知いたしました」と頷く。その瞳はまるで硝子玉のようで、何の感情も含まれていない。アンデルムは彼女の前を歩きながら、「……そう言えばさあ、」と再び口を開いた。



「さっきまでの、『ですの~!』って喋り方、何なの? レイラって実はああいう性格だったりする?」


「いえ。『可愛らしい女性の話し方』を研究した結果、ああなりました」


「え~、その研究合ってる? ちょっとズレてない?」


「そうなのですか……? 『童貞を釣るにはちょっとあざといぐらいが丁度いい』と、資料で読んだのですが……」


「どんな資料読んでんの」



 まあ、多分間違ってないけど……、と呆れたように笑うアンデルムは、琥珀色の瞳を細めて雨の中を歩いて行く。


 未だに降り続く雨に打たれ、やがて二人の背中は、白む景色の中に溶けて見えなくなった。




 ***




「……ウル、大丈夫か?」



 雨がやみ、雷も止まった頃。路地裏を出たグリアムはウルと共に帰路を歩み始めた。

 冷え切った彼女の体に自身のローブを掛け、二人並んで歩いて行く。ウルは頬を赤く染め、目を逸らしながら頷いた。



「……う、うん……大丈夫……」


「……本当か? お前、意外と体弱いだろ。熱とかないか? 顔赤いぞ」


「……や、やめて、こっち見ないで……」



 ウルは恥ずかしそうに目を逸らし、彼から少し距離を取る。グリアムは暫し黙り込んだが、やがて「ふーん……」と僅かに口角を上げると、彼女の顔をわざと覗き込んだ。


 すると彼女は更に頬を紅潮させる。



「……ち、近……、ちょっと! わざとでしょ!」


「ん~? いや~?」


「……何ニヤニヤしてるんですか、気持ち悪いですね殺しますよ」


「とか言って、本当は照れてるだけだろお前。さっき俺がキ──」


「ばか!!」


いっだァ!?」



 ボゴォッ!! と鈍い音を立て、ウルの拳は顔面にめり込んだ。「グーで殴んなよ!」と即座にグリアムが抗議の声を上げれば、「うるさい! ばか! 調子に乗らないで!」とウルも負けじと反論する。しかし、その顔はやはり真っ赤に染まったままで。



(……ウルって、キス、初めてだったのかな)



 グリアムはそう考え──思わず、頬が緩みそうになった。もしそうなのだとしたら、嬉しい。彼女の頭の中が、自分との口付けの記憶でいっぱいになってしまえばいいと、柄にもなくそんな事を思った。


 恥ずかしそうに顔を背ける彼女が、あまりにもいじらしくて。つい揶揄からかいたくなる欲望を抑え、彼は不意にウルの手を取る。



「……、え!?」


「帰ろう、ウル。ロザリーとセルバが待ってる。あとタオル」


「えっ、ちょ、ちょっと、手……!」



 焦るウルの手を握り、グリアムは再び歩き始めた。


 これまで、乳を見せ付けたり、背後から抱き着いたりと、積極的な女を演じていたウルだったが──やはり、こうして手を握る事すらも実は慣れていないらしい。「い、今、手に汗かいてるから……!」と苦しい理由をこじつけて離れようとする彼女の手を捕まえたまま、グリアムは更に指を絡めた。



「……っ」


「……俺から、逃げられると思ってるのか? 世界最強の魔導師なんだぞ、こう見えても」


「……」


「お前だって、俺が何度『離れろ』って言っても逃がしてくれなかっただろ。ざまーみろ、仕返しだバーカ」


「……そ、そう言いつつ、ちょっと照れてるくせに」



 耳赤いですよ、と背後から指摘され、グリアムは熱を帯びる顔を背けながら「ててて照れてねーわ!」と早口で反論した。ウルが純情である事が分かったからと言って、彼のヘタレが治るわけではないのだ。


 早鐘を打つ鼓動に気付かない振りをしたまま、グリアムはふと、繋がれているウルの左手を指でなぞる。


 彼の指先は、やがて彼女の薬指へと到達した。



「……なあ、ウル……」


「……?」



 振り向く事なく呼び掛けられ、ウルは顔を上げてグリアムの後頭部を見つめる。手を引いたまま少し前を歩く彼は、「あのさ……」と声を続けた。



「……指輪、買わない?」


「……、え……?」



 すり、とグリアムの指がウルの薬指の付け根を撫でる。彼の表情は見えないが、恐らくその顔は真っ赤に染まっているのだろうとウルはすぐに理解した。


 しかし、それでも彼はハッキリと告げる。



「指輪、買いたい」


「……」


「指輪買おう、ウル」


「な、何言ってるの……? 私達は──」


「──本当の夫婦じゃないって言うんだろ」



 グリアムは食い気味に声を発した。ようやく自宅が見えて来たという所で彼は足を止め、振り返る。ウルは息を呑み、グリアムの顔を見つめた。



「俺とお前は、ただの上司と部下。この家出が終わったら、元の関係に戻る。家族ごっこも、夫婦ごっこも終わる」


「……」


「……でも、俺……それじゃ嫌なんだよ」



 繋がった手に力が篭もり、ウルの心臓がどきりと跳ね上がる。真っ直ぐと向けられた真剣な眼差しに、つい視線が奪われてしまった。



(……え? え? な、何……?)



 どっくん、どっくん。頬に熱が集まり、己の鼓動がやけに大きく耳に届く。手を握られ、向かい合い、頬を赤く染めた想い人に見つめられて──そんなの、期待するなという方が無理だ。



「……ウル」


「は、はい!」



 呼び掛けられ、思わず声が上擦った。


 呼ばれ慣れたこの愛称。『ウル』という名は、彼だけが呼ぶ名前だ。他の団員や司令官は、彼女の事を“ウルティナ”や“蠍の女王クイン・スコルピオ”と呼ぶ。幼い頃から、『ウル』と呼ぶのはグリアムただ一人。──それが、まるで彼の特別になれたみたいで、嬉しかった。


 けれど、今。

 ひょっとして、ひょっとすると。



(……私……、もしかして、これ……)



 本当に、彼の、特別になれるんじゃ……?


 そんな淡い期待を胸に抱いてしまう。

 だって、薬指に指輪って、それ以外に無いでしょ?



(……で、でも、グリアムくんって本物のバカだし……普通に、またよく分からない勘違いしてそう……)



 だって、本物のバカだもん……、と脳内でもう一度言い聞かせた頃、グリアムは再び「あのさ、ウル……」と呼び掛けた。恐る恐ると彼に目を向ければ、やはり真剣な琥珀の瞳と視線が交わる。



「……な、何……?」


「……俺、」


「う、うん……」


「……」


「……?」



 何かを言いたげなグリアムだったが、突如黙り込んで目を逸らす。やがて、「……やっぱ、まだ言わない」と彼は手を離してしまった。


 身構えていたウルは拍子抜けし、思わず素っ頓狂な声を漏らす。



「……へ? い、言わないの? グリアムくん……」


「うん……やっぱり、こういうのって少し準備がいるよな。ちゃんと指輪とか、用意してから言わないと」


「……え、あの……」


「もう少し待って、ウル」



 グリアムは俯き気味だった顔を上げ、再び彼女に視線を戻した。



「俺、すぐ指輪買ってくるから。それで、お前に渡すから。……俺、どうしてもウルに伝えたい事があるんだ」


「え、え、」


「その時になったら、ちゃんと──『俺と結婚して下さい』って、改めて言うから。だから、もう少し待ってて」


「…………、……」



 ──ん? ……えっ? ……今、言っ……?



 かちん。ウルは言葉をなくし、その場に硬直する。


 しかし、誤ってプロポーズ紛いの言葉を先に告げてしまった事にすら、当の本人はおそらく気が付いていない。グリアムは頬を赤らめ、「結構重大な事伝えるから、覚悟して待ってろよ」とそっぽを向いてしまった。


 ウルは硬直したまま、胸の内で絶叫する。



 ……え?

 いやいや……、いやいやいや!!


 覚悟も何も、あなた今、普通に言っちゃったんですけどー!?



 ウルは脳内で叫び、とうとう耐え切れずに、ふらふらと腰を抜かしてその場に座り込んだ。真っ赤な顔を手で覆い隠しながら縮こまった彼女に、「え!?」とグリアムも慌てて座り込む。



「お、お前どうした!? やっぱり体調悪い!? 顔真っ赤だぞ!」


「……グリアムくんの、そういうとこ、ほんと嫌い……」


「え!? 嫌いっ!?」



 ガーン! とあからさまなショックを受けて固まってしまった彼を、ウルは顔を覆った指の隙間から覗き見て、「……嘘。好き」と消え去りそうな声で呟く。グリアムは瞳を瞬き、彼女の顔を覗き込んだ。



「……? 今、何か言った?」


「……何も言ってないです。教えない」


「え、絶対何か言っただろ。あ、まさか悪口……」


「違います。アホの芋野郎こっち見んなバーカって言っただけです」


「普通に暴言だろうが!!」



 グリアムは声を張り上げた。それをきっかけに、「どこまで可愛げないんだよお前!」「あなたが馬鹿なのが悪いんでしょ!」などと、いつもと同じような口論が始まってしまう。


 庭先でぎゃあぎゃあと揉める仮夫婦の姿を──家の中の三人は、こっそりと玄関で覗き見ていた。



「……何やってんだ? アイツら……」


「ねー、タオル。お芋師匠達、何で喧嘩してんの?」


「知るか、貴様の師匠が馬鹿なんだよ」


「ママとうーたん、かえってきたー! わーい!」



 きゃっきゃとはしゃぐロザリーを抱き上げ、ルシアは呆れたように嘆息する。「……ったく、庭でイチャつきやがって。アイツら、さっさと結婚しろよ……」と小さく呟いた彼に、セルバは顔を上げて首を傾げた。



「? もう結婚してるよ?」


「……、そういや結婚してるんだった」



 はあ、とルシアは再び溜息を吐く。ホントにややこしい夫婦だな、と更に呆れつつ、やがて彼らは、揉めたまま帰って来たズブ濡れの二人を家に迎え入れるのであった。



「おかえりー!」


「おかーりー!」


「……おかえり」



「……うん。ただいま」



 彼らの『家族ごっこ』が、『本当の家族』になる日も、意外と近い──の、かもしれない。




〈第5章 …… 完〉

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