第38話 まちがえました

「……俺の嫁に何してんだよ」



 放たれた低音。とぐろを巻くように浮遊し、牙を剥く水龍。鋭く睨む琥珀の瞳と目が合い、男達は「ひっ」と声を発する。


 その場に現れた白銀の髪の男──グリアムの殺気立った視線と水龍の眼光に気圧けおされた彼らは、即座に掴んでいたウルの髪から手を離した。震え上がる男の一人が「に、逃げろ!!」と叫んだ瞬間、三人は脱兎のごとく逃げ去って行く。


 程なくして、訪れたのは沈黙。ウルが目を合わせずに俯く中、グリアムは暫く黙り込んだ後、己が形成した水龍の魔法を解いた。

 途端に龍の体を形成していた水が分散し、足元の水嵩みずかさが増す。「きゃ!?」とウルの体は傾いたが──彼女が転倒する直前、ふわりとその足は宙に浮いた。


 恐る恐ると目を開ければ、グリアムはウルの体を横抱きに抱え上げ、トタン屋根の下の木箱に腰を下ろしていて。


 切なげに眉根を寄せ、見つめる彼の視線に、ウルは息を呑んで狼狽うろたえる。



「……っ」


「……」


「……ぐ、グリアムく……」



 しかし、彼女がその名を呼びかけようと自身の口を開いた、その時。またも空が強い閃光を放ち、ウルは「いやっ……!」と肩を震わせて耳を塞いだ。


 刹那、大きな掌が手の上に重なり、そのまま強く抱き寄せられる。密着したした状態で耳を塞がれ、ウルの心臓は忙しなく早鐘を打ち鳴らし始めた。



「……っ……!」


「……ウル、ごめん」


「……っえ……」


「ごめんな、ウル……俺、お前の事、何も分かってやれてなかったよな……。お前が、今まで俺のためにたくさん無理してた事も、頑張って来た事も……何も、分かってなかった……」



 塞がれた耳の奥、雷鳴の音に紛れた声が微かに届く。その声に、心音に──ウルは、つい安心してしまって。思わず目頭が熱くなり、彼女は慌てて彼から目を逸らした。


 そんなウルの様子を察したのか、グリアムは更に強く彼女を抱き寄せて続ける。



「……なあ。さっき、泣いてたんだろ?」


「……っ、な、泣いて、ない……」


「嘘つくなよ、泣いてたんだろ……。ごめん、泣かせて……」


「──やめて……!」



 ウルは語気を強め、彼の声を遮る。表情を歪めた彼女は顔を上げ、声を震わせた。



「……やめてください、師団長……謝らないで……」


「……は?」


「私、ただの部下ですよ……? 別に、本当の妻じゃないんですから……こんな風に、優しくしなくたって、いいんです……」


「……」


「私が……勝手に始めたに、無理矢理、師団長を巻き込んだだけだもの……。だから、謝らなくていいんです……。師団長はきっと、師団長を本当に愛してくれる人と……幸せに、なるべきなの……」



 消え去りそうな声で続くウルの言葉に、グリアムの眉がぴくりと反応した。彼女は俯き、心にもない言葉を更に紡ぐ。



「……良かったですね、師団長。あなたみたいなヘタレ童貞でも、愛してくれる人がいて。私、安心しちゃいました。……今日、私、ただの邪魔者でしたね」


「……」


「……この家出が終わったら、私達の“夫婦ごっこ”も……終わります……。そしたらまた、前みたいに……ただの補佐に戻って、師団長を守るから……ちゃんと、約束するから……」


「……」


「……っ、だから……!」



 もう少しだけ、この“夫婦ごっこ”に、付き合って欲しい。


 そう言葉を続けかけた刹那──ぐっ、と唐突に上体が引き寄せられ、ウルは言いかけていた言葉を飲み込んだ。


 直後、開きかけていた唇が、によって強引に塞がれる。



「──……、……」



 彼女は涙の浮かぶ目を見開き、が接触している唇の感覚に暫し硬直した。


 目の前には、幼い頃からよく知る彼の顔。

 鼻先が触れ合うほどの至近距離にある、その顔。


 その顔が──



 ──なんか、近くない???



 思考回路が凍結してしまったウルの頭には、漠然とそんな考えが浮かぶ。やがて触れていた柔い感触が唇から離れ、琥珀の瞳と視線が交わっても尚、彼女の硬直状態は続いていた。



「……」


「……」



 続く沈黙。降り止まない雨。──今、何が起きたのか、まだよく分からない。


 しかし程なくして、先にグリアムの頬が沸々と赤みを帯び始めた。彼はぎこちなく視線を逸らし、頬を紅潮させて、「ま……」と小さな声を発する。



「……ま、……ま、」


「……」


「……、まちがえました……」



 ぼそり。か細い声で告げられた言葉によって、ウルの思考回路がようやく正常な動きを取り戻し始める。



 ……間違えたって、何を?



 そう考え、彼女は先程の感触を思い出した。

 至近距離にある顔。唇に押し当てられた柔らかい何か。少し暖かくて、でも雨に濡れたせいか、少し湿っていて……、って、あれ? ……ちょっと待って?


 さっきのって、もしかして……、



(……キッ──)



 ──ぼっふん!!


 とうとうその答えに辿り着いた瞬間、ウルの頬はたちまち火照って紅潮した。掌に汗を滲ませ、視線を泳がせた彼女は声を上げる。



「っい、今、あなた、何っ……き、きき、き……!?」



 動揺してどもりまくるウルに対し、勿論グリアムの動揺具合も負けてはいない。彼もまたぶんぶんと首を横に振り、だらだらと汗を流しながら弁解した。



「ち、ちちちっ、違っ、ごめっ、ほ、ほんとに間違えてっ……!」


「な、な、何をどう間違えたらそうなるんですかっ!?」


「つ、つ、つい、カッとなって、その……っ、む、ムラムラしたというか!」


「最低じゃないですか!」



 動揺のせいかド直球な返答をするグリアムに声を張り上げれば、彼は更に慌てる。「ち、違う、変な意味じゃない……!」と焦る彼は、片手で口元を押さえると気まずそうに視線を逸らした。


 ウルはグリアムの膝の上に座り込んだまま、頬を赤らめて彼を見上げる。暫くして、彼は意を決したようにボソボソと口を開いた。



「……だって、ちょっと、ムカついたんだよ……」


「……え?」


「ムカついたから、その、口を塞ごうと思って……。それで、気が付いたら、あの……」


「……」


「……間違えてました」


「全然言い訳になってませんけど」



 ウルは頬を赤らめ、呆れ顔で彼を見据える。居心地悪そうに目を逸らすグリアムに、続けて「……何がムカついたんです?」と問えば、彼は更に視線を泳がせた。



「……それは、その……」


「……」


「……お、お前が、『幸せになれ』みたいな事言うから……」


「……!」


「……お前はそうじゃないのかよ、って……思って……」



 つい、カッとなりました……、とグリアムは言いにくそうにこぼす。


 ぱらぱらと、少し勢いを落とした雨粒がトタン屋根を打ち付ける中、ウルは何も答えない。続く沈黙がグリアムの緊張感を徐々に膨らませ──ついに、彼は居た堪れなくなって彼女へと視線を向けた。



「……っお、おいウル! 黙るなよ! せめて何か少しぐらい、反応し、ろ……」



 しかし、勢いよく発した言葉はやがて尻すぼみになって消える。グリアムは言葉を飲み、ウルの頬に手を添えた。


 彼の視線の先にいる彼女は、今にも泣き出しそうに表情を歪め、グリアムを見つめている。



「……ウル?」


「……、わたし……」


「……?」


「……わたし、そんな事言われたら……」



 ──期待、しちゃいますよ……?


 震える声でそう言って、ウルはグリアムの胸に顔を埋めた。ぎゅう、と濡れたローブを握り締める彼女の姿に、グリアムの胸の奥がきゅっと狭まる。


 彼は生唾を飲み、濡れたウルの頬に指を滑らせて、静かに口を開いた。



「……なあ、ウル……」


「……?」


「……もう一回、って言ったら、……怒る?」



 こつ、と互いの額を合わせ、彼女の目を見つめながら尋ねる。ウルは些か間を置いてその言葉の意味を理解し、暫く迷ったように視線を泳がせた後、「……お、怒る……」と声を震わせて答えた。


 グリアムは「えっ……」と一瞬ショックを受けたようにたじろいだが、間髪入れずにウルは続ける。



「……“間違い”って、言うんだったら……怒ります……」


「……!」


「……するなら、ちゃんと……」



 ──ちゃんと、キスしてよ……。


 か細い声でそう告げれば、やはり沈黙が二人を包む。しかしやがて、グリアムは愛おしむように目を細めた。赤く染まる彼女の濡れた頬に張り付く髪を掻き分け、「……うん」と短く答えた彼は、ゆっくりとその顔を近付ける。


 耳に届くのは、ぱらぱらと屋根を打つ雨の音。大きくて怖い音は、もう、聞こえない。


 濡れた二人の唇は、やがて控えめに一度重なって、少し離れて、また重なる。


 不慣れな動きで互いの唇をついばみながら、不意にウルは薄くその目を開いて──また、泣き出しそうになった。


 彼女の脳裏に過ぎったのは、あの日、彼が伸ばしてくれた小さな手。


 怖い音から、耳を塞いで守ってくれた、あの時の。



(……ねえ、グリアムくん。あなた、きっと知らないでしょ?)



 知らなくていい。伝わらなくていい。

 あなたの隣に立って戦えるのなら、それでよかった。それで、十分だったの。


 でもね、私……いつの間にか、欲張りになっちゃってたみたい。


 ……ごめんね。



(ねえ、グリアムくん。私ね、)



 あの日から、本当は。


 本当は、ずっと、ずっと──



(ずっと、あなたに、)



 ──恋を、していたのよ。


 本音を素直に嚥下えんげして、再びウルは目を閉じる。


 見つめているのは暗い瞼の裏なのに、眩しい何かがチカチカと、瞳の奥に染み込んで──腫れぼったいその目尻からひとつ、雫が落ちて消えて行った。




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