第37話 vs ナンパ

「……最悪」



 人気ひとけのない路地裏で、ウルはボソリと呟いた。寂れたトタン屋根の下に積まれた木箱の上に座り込み、濡れた煉瓦れんが造りの壁に背を預けたまま膝を抱える。


 雨粒がバラバラと容赦なくトタン屋根を打ち付ける中、ウルは腫れぼったい目尻を膝に埋めた。──寒い。冬も近くなって来た気候の中、大雨に打たれた体は芯まで冷え切ってしまっている。自身の体を抱き、ウルは奥歯を噛み締めた。


 馬鹿な事をしていると、自分でも分かっている。



(何で逃げちゃうのよ、私……)



 自分の意思に反し、勝手に動く体が恨めしい。追い掛けてきたグリアムの話をあの場で聞いてあげればよかったのに。



(私のばか……)



 落胆し、強く膝を抱く。

 彼は浮気などしていないと、反応を見てすぐに分かった。きっと謝罪の言葉を告げるであろう優しい彼を、笑って許してあげればそれで良かったのだ。


 けれど。



 ──わたくしは、彼を愛していますの。



 先程の彼女の言葉が、どうしても脳裏にちらついて。



「……むかつく……」



 ぎゅう、と拳を握り込み、ウルは弱々しく悪態をつく。雨脚は強まるばかりで、凍えるような寒さに彼女は縮こまったまま身を震わせた。


 ──その瞬間。

 薄暗い路地に、ピカッと一瞬、白い光がひらめいた。



(……え)



 ひゅ、と息を呑む。しかしウルが状況を理解する前に、耳をつんざくかのような凄まじい轟音がその場に鳴り響いた。不意打ちの落雷に「きゃあっ!!」と思わず悲鳴を上げ、ウルは耳を塞いで体を震わせる。



(……嫌っ……! か、雷……!)



 途端に彼女の顔は蒼白に染まった。ガタガタと体が震え出し、嫌な記憶が脳裏に雪崩なだれ込む。


 怒鳴り合う両親。破壊され、砕け散る食器やグラス。

 家の外では王都ブランジオからやって来た怖い軍人が銃を撃ち鳴らし、幾重もの悲鳴が耳に届く。



 ──大きな音は、嫌い。嫌な事ばかり思い出すから。



 ウルは涙を浮かべ、瞳を閉じて耳を塞いだ。

 脳裏によぎるのは、幼い頃に聞いた怖い音の記憶ばかり。


 当時、西のレイノワール帝国と東のブランジオ王国の抗争は、今と比べるとかなり激化していた。原因はレイノワール帝国領内にあった“”が、ブランジオ軍によって盗み出されたせいだと言われている。


 幼いウルが過ごした集落はブランジオ王国のすぐそばにあった。村を軍に占拠され、徴兵や労働を強制される日々。貧困と不安に苛まれた両親の仲は悪く、ウルは毎日クローゼットの中に閉じこもって、怒声や破壊音が鎮まるのを一人で待っていた。


 家族は怖い。いつも怒るし、私を叩くの。

 大きな音は嫌い。私の事を一人にするでしょ?

 銃だって、本当は嫌いよ。音が大きくて怖いもの。


 耳を塞ぎ、声を押し殺す。ただそれだけを繰り返す日々が突如終わりを告げたのも、雷のうるさい夜の事だった。



『──ウルティナ、お前を売る事になった』



 まだ六歳だったウルは、両親からそう告げられて雨の中に放り出された。迎えに来た男達に捕まり、抗う事も出来ずに粗末な馬車の中に放り込まれる。当時は理解していなかったが、おそらくあれは、娼館へとおもむくはずの馬車だった。


 落雷の音が響く中、狭くて暗い空間で泣きじゃくりながら耳を塞ぐ。


 本来ならば、あのまま娼館に売られていただろう。しかしその道中、彼女は白薔薇の教団ロサ・ブランカの関係者に目を付けられたのだ。



『この子は強い魔力を持っている。鍛えれば戦力になるかもしれない。我々が買い取ろう』



 ほんの数回、そんな会話をやり取りした後。たった数枚の金貨で、あっさりとウルの身は引き渡された。そしてその日から、彼女は白薔薇の教団ロサ・ブランカ団員ファミリーとして教団内に迎え入れられたのだ。


 だが、小さな集落のクローゼットの中で怯えて過ごしていたウルが、突然始まった過酷な訓練について行けるはずもなく。

 来る日も来る日も打ちのめされ、傷だらけになって──いつしか誰も寄り付かない教団の裏庭で、一人、膝を抱えて泣くようになった。


 そんな暗い日々の中で出会ったのが──彼だ。

 白銀の髪と琥珀の瞳が綺麗な、ウルと同じ年頃の男の子。


 彼と初めて出会ったあの日も、天気は今日のような大雨だったと思う。裏庭で泣いていたら雨が降り始め、遠くで雷が落ちた。


 濡れた地面に座り込み、動くことも出来ず、雷に怯えていた、あの日。


 耳を塞いで震える彼女の手の甲に、不意に冷たいてのひらが重なって。ウルは驚き、涙の溜まる瞳を持ち上げた。



『──怖いの?』



 塞がれた耳の奥、僅かに届いたそんな声。銀の髪を雨に濡らす見知らぬ男の子は、ウルの手に自身の手を重ね、涙を落とす彼女の耳を塞いでいる。



『……ほら、これで大丈夫。もう聞こえない』



 無表情のまま告げる声。けれど優しい、小さな手。するとあれほど不安でいっぱいだった胸が、何故だかふっと軽くなったような気がした。宝石のように綺麗な琥珀色の瞳と視線が交わり、胸が高鳴る。


 ──ああ、今思えば、きっと。



(……私、あの日から、ずっと……彼の事──)



 そう思い至った時、再び空には閃光が走る。肩を震わせ、「やっ……」とウルが耳を強く塞いだ頃、轟音と共に雷が落ちた。雷鳴はとめどなくとどろき、ウルは表情を歪めて縮こまる。


 直後、その場には複数の足音が響いた。



「──おーい。お姉さん、大丈夫? 随分ずぶ濡れで震えてっけど」


「……っ!」



 聞き覚えのない声が掛けられ、ハッと弾かれたように顔を上げる。すると見知らぬ若者が三人、じろじろと好奇の目でウルを見下ろしながら近付いて来ていた。彼女と目が合った男達は、その可憐な容姿に下卑た笑みを浮かべる。



「お、可愛いじゃん!」


「ねえねえ、お姉さんどうしたの? そんな所で座り込んでちゃ風邪ひくって。俺らの家で雨宿りしなよ」



 先頭の男に腕を掴まれ、ウルは眉を顰める。ナンパ目的の馬鹿な男か、とすぐに理解し、彼女は手を振り払おうとしたが──その瞬間、またもや雷鳴が響いた事で「きゃあ!」とウルは蹲った。


 そんな彼女の姿を、男達は笑う。



「あー、雷怖いの? ははっ、かーわいー」


「……っ!」



 する、と男の手が冷え切ったウルの太ももに触れる。彼女が着ているオフショルダーのニットは濡れて張り付き、浮き彫りになったその身体のラインを彼らは舐めるような目付きで見下ろした。ウルは嫌悪感に表情を歪め、男の手を引き剥がそうとしたが──響く雷鳴に怯む彼女の体は震えるばかりで、思うように力が入らない。


 その間も空は唸り、男達は依然としてウルの腕を掴んだまま。

 彼女は忌々しげに彼らを睨むものの、その視線を無視して、彼らはウルの手を強引に引き寄せる。



「……っ、ちょっと……っ、離して……!」


「いいからおいでよ、怖いんでしょ?」


「慰めてあげるって。大丈夫、優しくするからさ」



 下卑た視線を胸や脚に向けられ、ぞわりと不快感が蔓延はびこって吐き気がした。ウルは眉根を寄せて男を睨み、ばしんっ! と彼の手を払い除けて声を低める。



「……あなた達みたいな、発情した欲求不満のアホ猿共になんかついて行くわけないでしょ。壁でも口説いてろ、このクソ野郎」


「……あ?」



 悪態をつくウルに、男のうちの一人がぴくりと反応した。額に青筋を浮き立たせ、彼はウルの胸ぐらを掴み上げる。



「……っ」


「おいおい……ちょっと可愛いからって舐めた口きくなよ、お姉ちゃん。ここで脱がして今すぐヤッちまってもいいんだぜ? 大人しくしてろよ」


「……死ね」



 凄む男の恐喝に臆する様子もなく、ウルは冷たい瞳で睨み付けたまま淡々と暴言を吐きこぼした。途端に男は目を吊り上げ、強い力でウルの髪を鷲掴むと片手を大きく振り被る。



「調子乗ってんじゃねえぞ、クソアマ!!」



 怒声と共に、男は拳を振り下ろした。ウルは次に感じるであろう痛みを覚悟してぎゅっと目を閉じるが──不意に聞き慣れた声がその場に響いた事で、彼女の瞼は再び持ち上がる。



「── “水よ我が声に応えよVíz-voz-àna”」



 よく知る詠唱。怒気を含む低い声。

 迫っていたはずの拳は、ぴたりと途中で動きを止めていた。


 ハッとウルが顔を上げると、足元に溜まっていた雨水がズズ、と地を這うように動き始める。



「“水玉よ龍となり敵を飲み込めReunir-rosée-draco”」



 直後、足元に溜まっていた水は寄せ固まり、やがて大きな水龍へと変貌する。大量の雨水を吸収した水龍はその身に波紋を浮かべ、牙を剥いて男達を威嚇した。


 ウルの髪を掴んでいた男は愕然と目を見開き、その場に立ち尽くす。飲み込まれればひとたまりもないであろう巨大な水の塊に、彼らは戦慄した。



「……俺の嫁に何してんだよ」



 静かな怒りを孕ませた低い声。

 横殴りに降り注ぐ豪雨の中、鋭い眼光で睨み付ける死神が、そこに立っていた。




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