第34話 いまのかぞく
外はやはり曇り空。冷たい風が強く吹き、今にもまた雨が降り出しそうだとグリアムは眉を顰める。すれ違う人もほとんど居ない。いずれ降る雨を懸念して、皆家の中に籠っているのかもしれない。
(結構冷えるな……あの女の子、さすがにもう帰ってるかも……)
そう思いつつ、グリアムは足を急がせた。待ち合わせ場所に居ないのであれば、それはそれで問題ない。あの子には少し悪いが、結局デートに行くつもりなど毛頭ないのだから。
(……俺には、ちゃんと嫁がいるしな)
自らそんな風に考えておきながら、急に羞恥心が押し寄せて頬が熱を持つ。微笑むウルの顔がふと脳裏を過ぎり、グリアムの胸はきゅうと狭まった。
(ヴぁあ……ッ! な、何なんだよこれ……何かよく分からんけど、めちゃくちゃウルの事ばっか頭に浮かぶ……!)
気付けばウルの事ばかり考えてしまい、心拍数もばくばくと上がる。これやっぱり病気なんじゃ……、と危ぶんでいると──不意に、背後からすらりと白い腕が伸ばされた。
え、とグリアムが瞳を瞬いた頃。
彼の背中に、むぎゅっと柔らかい感触が密着する。
「お芋の王子様ぁ~っ! 会いたかったですの~!」
「うぉっわあああ!!?」
不意打ちのバックハグにグリアムは飛び上がり、奇声を上げて振り向くと彼女から即座に後退した。近くの木に縋るようにしがみつけば、背後から抱き着いた彼女──アイシャは、「まあ、照れてますの。可愛らしいですの」と頬を染める。
グリアムは急速に早鐘を刻み始めた胸を落ち着かせ、「い、いつの間に背後に……!」と息を呑んだ。ウルの事ばかり考えていたせいだろうか、全く彼女の気配を察知出来なかったのである。
(……な、何やってんだ俺……? しばらく任務から離れてるせいでカンが鈍ったのか……? 真後ろに立たれても気配に気が付かないなんて……)
いやいや、いくらなんでも気を抜きすぎだろ、とグリアムは自戒する。
今なら容易くウルに寝首を掻かれるかもな……、と戦慄しつつ、彼はしがみ着いていた木からおずおずと離れた。そのまま目の前の淑女に目を向ければ、先日も見た通り、育ちの良さそうな清楚で愛らしい容姿が視界に飛び込む。
思わず緊張してしまい、グリアムはさっと目を逸らして深呼吸を繰り返した。
(……い、いや、普通に可愛いな……! 本当にこんな可愛い子が俺に告白して来たの? マジで? え、これよく考えたら千載一遇の大チャンスなんじゃ……告白なんて、もう一生されないかもしれないぞ、俺……!)
そわそわと落ち着かない様子の彼は「ちょ、ちょっとぐらい、デートしてもバチは当たらないんじゃ……」と一瞬心が揺らいだが──ふと、その脳裏にウルの悲しげな表情が過ぎった事で彼は息を呑む。
可愛い女の子と、デートしに行っちゃうんでしょ……? と弱々しく呟いた彼女の声を思い出し、グリアムの胸がちくりと痛みを放った。彼は顔を上げ、即座にかぶりを振る。
(……い、いやいや! しっかりしろ、俺! 何揺らいでんだ、今日はデートの誘いを断りに来たんだろ!)
そう己に強く言い聞かせ、チラついた煩悩をぶんぶんと散らす。確かに目の前の彼女は可愛いが、仮とは言え自分には嫁が居るのだ。浮気、ダメ、絶対。
グリアムは気を取り直し、こほんと一つ咳払いをこぼした。そして、アイシャに向かって口を開く。
「あ、あの……、き、君の気持ちは、嬉しいし、その、すごくありがたいんだけど! 実は、俺には妻がいて──」
「──あっ!! 大変、もうこんな時間ですの! お芋王子! 早くデートに行きましょうの!」
「えっ?」
──ぎゅっ。
唐突に腕を取られ、上等な衣服に身を包んだアイシャが密着する。グリアムはギョッと目を見開いた。
「……えっ!? ちょ!?」
「さあ、こっちですの!」
「い、いやっ、俺、今日は断りに……!」
「デートにレッツゴーですのー!」
「ちょっと!? 話聞いて!?」
アイシャは強引にグリアムの腕を引き、そのまま走り出す。グリアムは「だから俺、断りに来たんだってー!!」と絶叫したが、その声は強風に遮られ、“恋は盲目”に一直線の彼女の耳に届くことは無かった。
* * *
「……遅い」
強風で窓が揺れ、再び降り始めた雨が次第に強まり出した頃──ウルは嘆息し、ぽつりと呟く。
グリアムが「デートを断りに行く」と言って家を出てから、既に二時間は経過していた。ウルは窓の向こうを見つめ、不安げに瞳を揺らがせる。
やがて小さく首を振った彼女は、窓から離れてソファに腰掛けた。大して柔らかくもないクッションを抱き締め、ごろんとその場に横になる。
「……」
「……うーたん」
暫し黙り込んでいると、不意にロザリーの白い耳が視界に入る。彼女はよじよじとソファを上り、ウルの傍に寄り添った。
「だーじょーぶ? げんきないの?」
「……ん~? ふふ、大丈夫よ。ちょっと、疲れちゃったのかも……」
「……ママがかえってこないから?」
しょぼ、とロザリーの耳が垂れる。指をくわえて肩を落とす彼女は、「ママ、まだかなあ……」とか細く呟いた。ウルは彼女の髪を撫ぜ、「……きっともうすぐ帰ってくるよ」と微笑む。
ロザリーはウルの腹部に寄りかかり、薄紅色の大きな瞳を持ち上げる。
「……ママいないと、うーたんさみしい?」
「……んー? ふふ、どうだろうね。……私、一人でいるのは慣れっこだから」
「でも、いまは、いつもみんないるよ?」
「……」
ロザリーの問いに、ウルはクッションを離して上体を起こす。「……そうね」と微笑んでロザリーを抱き上げると、膝の上に彼女を座らせた。
──いまは、いつもみんないるよ。
そんなロザリーの一言が脳内で再度繰り返され、ウルは瞳を細める。
「……私、小さい頃ね……家族って嫌いだったの。一人でいる方が好きだった」
ぽつりと紡がれた言葉に、ロザリーは顔を上げた。穏やかに微笑むウルを見つめ、「どーして?」と彼女は小首を傾げる。
「……んー……、私の周りでは、いつも誰かが大きな声で怒ってて、何かを壊してて、うるさくって……。私ね、そうやっていつも“大きな音”がする家に生まれたのよ。誰かといると“大きな音”がして怖いから、ずっと一人でいたの」
「さみしくないの?」
「……どうかな。本当は、寂しかったのかもね」
もうあんまり覚えてないから、とどこか遠くを見つめ、ウルは切なげに目尻を緩めた。
「……でも、それから暫くして、教団の偉い人達に引き取られて……。そこで、グリアムくんに出会ったのよ」
「ママ?」
「うん。グリアムくんはね、出会った時からちょっと無口で、静かな人だったから……多分、一緒にいて心地よかったのかも。私、大きい音は少し苦手だから……」
静かに告げる彼女に、ロザリーは小首を傾げたまま丸い大きな瞳を瞬かせる。程なくして、彼女は口を開いた。
「じゃあ、うーたん、ママのこと、ずっとまえからしゅきなの?」
「……えっ……!?」
ロザリーの純粋な問いかけにウルは言葉を詰まらせる。かっと熱を帯びる頬を隠すように手で押さえ、「い、いえ、そんな、違っ……! 別に好きとかじゃ……!」としどろもどろに彼女は声を紡いだ。
ロザリーは暫しきょとんとしていたが、やがて「ろざりーは、みんなしゅきだよー」と微笑む。
「ママもしゅき、うーたんもしゅき! にゃんにゃんも、にーにも、ばーばもしゅきなの!」
「……っ、ロザリー……」
「ママね、ろざりーに“ほんとの
「……」
「だって、ろざりー、“ほんとのママ”って、よくわかんないの……。でもね、“いまのママ”はわかるの!」
ロザリーは薄紅色の双眸を細めながらそう告げた。彼女は幸せそうに破顔し、更に続ける。
「ろざりーね、みんなのいる、このおうちがしゅき! いまのママと、うーたんのいる、“いまのかぞく”がいいの!」
ぎゅう、とウルに抱きつき、ロザリーは頬をすりすりと擦り寄せる。ややあって何も言わないウルを見上げた彼女は、「……でも、うーたんは、かぞく、きらい?」と不安げに問いかける。
ウルは暫く黙り込んでいたが、その後小さく首を横に振った。
「……ううん。好きよ、今の家族」
「ほんとー!?」
ぱあっとロザリーは表情を綻ばせ、更に強くウルに抱きつく。ウルもまた彼女を抱き締め、ふふ、と微笑んだ。
「じゃあ、ろざりー、うーたんと、ママと、ずっといっしょにいれる!?」
「……うん。いれるよ。一緒にいようね」
「やったー!」
ぴょんぴょんと、ロザリーは嬉しそうにその場で飛び跳ねる。「ソファの上で飛び跳ねないの」と彼女に言い聞かせるウルだったが、その頬は幸せそうに緩んでいた。
そんな中、不意に彼女の耳が「ぐずっ……」と鼻を啜り上げるような奇妙な音を拾い上げる。ふと視線を移せば、壁際で──自主的に──正座し、目頭を押さえたまま震えている
途端にウルの表情からは笑顔が消え、じとりと彼を見据える。
「……何してるんですか、クソ猫さん。ていうかまだ居たの? あなた」
「……気にじないでぐれ……ぐずっ……」
「……てか、何で泣いてるんです?」
「……あまりにも尊がっだ……」
はあ……? とウルは眉を顰め、彼に向けて更に冷たい眼差しを送った。
意外にも涙腺が弱いらしいルシアは、健気なロザリーの言葉に胸を打たれたようで。何故かぽろぽろと涙を落として号泣している。
ウルが「気色悪……」と辛辣な言葉を投げかける一方、ロザリーは「にゃんにゃん、なかないでー。いいこいいこー」と駆け寄って彼を慰めた。ルシアはこくこくと何度も頷き、両手を広げて彼女を抱きしめる。
「……うっ、うっ……ロザリー……っ! 立派に大人になれよ……ぐすっ」
「?」
「はあ……」
未だに声を震わせている彼に、ウルはほとほと呆れるばかり。いつの間にこんなに丸くなったのやら、と彼女が嘆息した頃──突如、窓を打つ雨の音が激しさを増してウルは顔を上げた。
窓の向こうでは横殴りの雨がざあざあと降り注ぎ、彼女は眉を顰める。そして不意に、ウルは立ち上がった。
「……私、ちょっと夫を迎えに行ってきます」
「……は?」
「少しの間、ロザリーの事よろしくお願いしますね。すぐ帰ってくるので」
「い、いや、貴様何言ってる!? 外大雨だぞ!?」
おい待てよ! と喚くルシアの制止も無視して、ウルは傘を掴むと大雨の中へと一目散に飛び出して行く。結局彼女は家を出て行ってしまい、残されたルシアは行き場のない手を伸ばしたまま、「あいつ、大丈夫か……?」と眉根を寄せた。
しかし数分後、ウルと入れ違う形で誰かが家の中に飛び込んでくる。
「ウルティナさんッ!!」
「!」
ドンッ! とけたたましく扉を開けて室内へと入り込んだのは、雨に濡れたセルバだった。ロザリーは嬉しそうに「にーにー!」と出迎えたが、当のセルバは何やら焦っているようで。「あれ!? ウルティナさんは!?」と周囲を見渡すセルバに、ルシアは目尻に浮かぶ涙を拭いながら答える。
「……アイツなら、たった今グリアムを迎えに出て行ったぞ。おそらく村に向かったと思うが──」
「ええ!? そ、それはマズいよ!」
「は?」
「い、今は村に行ったらマズい! だって僕、見ちゃったんだ! 今、村でお芋師匠が──」
セルバは顔面蒼白で息を呑んだ。そして、その先の言葉を叫ぶ。
「お芋師匠が──黒髪の美女と、めっちゃくちゃデッレデレしながらイチャイチャしてるの、見ちゃったんだぁぁ!!!」
キーン、と部屋に響いたセルバの一言に、ルシアの目の奥からは光が消えた。死んだ魚のような目をした彼は頭を抱え、「何やってんだアイツは……」と深い溜息を吐き出す。
──先程出て行ったウルが、その現場を目撃したらどうなるか。そんなもの、想像するまでもない。
「……セルバ。残念だが……」
「……」
「──今日がおそらく、死神の命日だ」
「うわああんお芋師匠ーー!!」
どうか安らかにお眠り下さいぃーー!! というセルバの絶叫が
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