第33話 嵐の前のもいもいスープ
翌日の朝、降り続いていた雨は上がっていた。
ロバートによれば夜から雷雨になるという話だったが、結局昨晩は雷が鳴る事もなかったため、グリアムは起き抜けに窓の外を見ながらホッと胸を撫で下ろす。
(良かった……雷が鳴ると、少し心配だからな)
グリアムは嘆息し、暗い曇り空を見上げた。その時、不意にパタパタと駆け寄る足音が耳に届いて彼は振り返る。
「まーま! あそぼ!」
「……ん」
嬉しそうに呼びに来たロザリーに手を引かれ、グリアムは微笑んで立ち上がった。彼女の小さな手を握り、彼はリビングへと歩き出す。
元々笑うのが下手なグリアムだが、ロザリーを養女として引き取ってからは彼女の相手をする際に出来る限り笑顔を作ろうと意識するようになったため、最近では少しずつ自然な微笑みを浮かべられるようになった。「はやく、はやく」と急かすロザリーについて行けば、すでにソファの前ではウルが野花の入った小皿を持たされたまま座っていて。どうやら彼女も、ロザリーのおままごとに付き合わされているらしい。
「……!」
ウルは暫し小皿を見下ろしてぼんやりしていたが、不意にグリアムの気配に気が付くとハッと目を見開いた。程なくして彼女の頬はみるみると赤くなり、顔を逸らされてしまう。
そこでようやく、グリアムは昨晩の出来事を思い出した。
(……あ。そういえば、俺……昨日、ウルのおっぱい揉ん……)
恥じらいの表情を浮かべ、半裸のまま瞳を潤ませていた昨晩の彼女の姿が浮かぶ。同時に
げほげほと咳込み始めたグリアムをロザリーが「ままー?」と心配そうに覗き込む。「大丈夫、大丈夫……」と彼は彼女の髪を撫ぜ、だらだらと汗を流しながらウルの横に腰を下ろした。
「……」
「……」
「……オ、オハヨウ……」
「……オ、オハヨウゴサイマス……」
カチコチと身を強張らせ、互いに目を逸らしたまま辿々しい挨拶を交わす。気まずそうな二人の様子に首を傾げるロザリーだったが、大して気に留める事無く彼女は小さな板の上で「とんとんとーん、とんとんとーん」と歌いながら野草の一部をスプーンで刻み始めた。どうやらスプーンを包丁に見立てて料理の真似事をしているらしい。
程なくして、彼女は刻まれた野草を小皿に放り込むと満面の笑みでグリアムに手渡す。
「あいっ、できまちた! もいもいスープ!」
「……わ、わあ〜、美味しそうだなあ。ありがとう、ロザリー」
「うーたんも! もいもいスープ!」
「あ、ありがとう、ロザリー。お、美味しく出来たね」
それぞれに野草の小皿──
(……や、やばい。う、ウルとどんな顔して話したらいいのか、マジで分からん……)
そう考え、グリアムは頭を抱えた。
昨晩は彼女の胸を揉んで強引に脱がせた挙句、キッス未遂までやらかしてしまったのだ。その後は特に何も無かったとは言え、居心地はかなり悪い。
二人は黙りこくり、静寂がその場に満ちる。どうにかこの重い空気を打開したいと考える彼らだったが、結局そのまま動く事が出来なかった。
しかし数分後、不意にバンッ! と窓が勢い良く開いて別の声が割り込んだ事で、ようやく気まずかった沈黙が終わりを告げる。
「はーっはっは! グリアム=ディースバッハ! 今日こそ貴様の命、俺が貰い受け──」
「あっ、タオル!!」
「違う!! タオルって言うな!!」
ナイフ片手にその場に現れたのは、もはや馴染みの顔触れとなってしまっている暗殺者、ルシアだった。
普段ならば、猫嫌いのウルによって即発砲・即氷漬け・即正座、のトリプルコンボの刑に処されて牽制されるのが恒例の彼だが──しかし。今日は違った。
ウルはたちまち笑顔を浮かべ、窓から侵入して来たルシアを
「あ、あら〜、おはようございますクソ猫野郎。我が家へようこそ〜♡ さあ、どうぞ上がって上がって、ほらほら」
「……は? ど、どうした貴様?」
「よ、よく来たなタオル! ほら、座って……あ、コーヒー飲むか!? お菓子食べる!?」
「え、何!? 貴様ら怖いんだけど!? なんで大歓迎!?」
両腕をグリアムとウルにがしりと掴まれ、ルシアは困惑した。しかしあれよあれよという間に彼は椅子に座らされ、更にはロザリーまでもルシアの膝の上によじ登って来る。
ロザリーは満面の笑みで、ルシアに“もいもいスープ”を手渡した。
「にゃんにゃんも、もいもいスープ! どぞ!」
「……はあ? 何だこの雑草──」
──カチッ。
そう口にしたルシアだったが、こめかみに冷たい銃口を押し付けられた事でその先の言葉を飲み込む。途端に冷たい汗が噴き出し、彼は恐る恐ると視線をウルへ移した。
「あら〜……ウチの
「え、いっ、いえ! 決してそんな事ありません!! ……う、ウワァ、とってもオイシソウなスープだな〜。ありがたくイタダキマス……」
ルシアはぎこちなく微笑み、銃口を突き付けられたまま手を震わせて、もいもいスープを食べる真似をする。「もいもい、おいちい?」と問い掛けるロザリーに、彼は「と、トッテモ、オイシイ……」と棒読みで答えた。
その答えにロザリーは満足したようで、むふー、と満面の笑みを浮かべると「にゃんにゃん、しゅきー」と彼に抱き着く。子供の相手など一切した事のないルシアは戸惑いの表情を浮かべ、おろおろと行き場のない手を宙に漂わせていた。
グリアムとウルはそんなルシアを挟んだまま、彼らの微笑ましいやり取りを黙って眺めていたが──不意に互いの視線が交わると、やはり頬を赤らめて視線を逸らしてしまう。
そんな二人の様子に、ルシアは何かを察したようだった。
「……? 貴様ら、何かあったのか? ……あ、もしかして、昨日ついにヤッ──」
「子供の前で何言おうとしてるんですか!!」
「いいってぇぇ!!?」
ルシアの発言を
ルシアは忌々しげに舌を打ち、彼女の背中を睨む。
「チッ……あの女……! カマトトぶりやがって……!」
「だ、大丈夫か? タオル……」
「タオルじゃないって言ってんだろ!! 貴様もいい加減にしろよ死神!!」
殴られてタンコブになっている頭部を押さえながら怒鳴れば、グリアムは「……ご、ごめんな、タオル……」と申し訳なさそうに口にする。
だからタオルじゃねえ!! とルシアは更に
「……くっそ、ナメやがって……! 今日は子供が膝に乗ってるから大目に見てやるが、次会った時は必ず屈辱的に殺してやるからな、覚悟しろよ! ……あ、こらロザリー、野草を口に入れるんじゃない! お腹壊すぞ!?」
「むむー?」
(……、でも案外面倒見は良いんだよな、こいつ……)
野草を口に含んでいたロザリーを叱り、「腹が減ったんならこっちを食え!」と自身の懐の中から取り出したチュリボムの実を与えているルシアの様子に、グリアムは些か感心する。ロザリーも嬉しそうにチュリボムを受け取り、ぱくりと口に含んで「うまー」と満足気だ。
そんな彼女を膝の上に抱いたまま、ルシアはふとグリアムに尋ねた。
「……そういえば貴様、結局デートには行かなかったんだな。今日だっただろ、たしか」
「……、……」
──あ。
ぴたり。グリアムは硬直し、目を見開いた。
バッ、と時計に目を向ければ、指定された待ち合わせの時刻などとうに過ぎ去ってしまっている。ウルの事で頭が一杯だった彼は、多少強引に取り付けられたデートの約束などすっかり失念してしまっていたのであった。
「……や、やばい、忘れてた! 時間めっちゃ過ぎてるけど、まだ居るかな……!」
「は? 忘れてた? ……ていうか、行くのか? デート」
「いや、デートは行かないけど……もし待ってたら悪いし、断りにだけ行こうかと……」
そんな軽率な発言を放った彼にルシアは呆れたような眼差しを向ける。やめておけ、と言わんばかりのその視線を感じていると、キッチンから戻ってきたウルが先に口を開いた。
「……そんなの、相手を変に期待させるだけじゃないですか。デートするつもりが無いなら、行かない方がいいです」
「……でも、もし待ってたら不憫だろ……?」
「……」
「告白するのって、きっと勇気いるし……。せっかく告白したのに何も答えが返って来ないままだと、俺ならきっとショックだろうから……せめて断りにだけ、行きたいんだけど……」
そう続けた彼に、ウルは暫し黙り込んだ。ややあって顔を上げ、「本当に、ちゃんと断れるんですか……?」と彼を見つめる。
「こ、断れる! ちゃんと断る!」
「……」
じとりとグリアムを見据えるウルの表情は明らかに不服そうだったが──やがて、「……しっかり断って来て下さいね」と告げて彼女は目を逸らした。心做しか不安げにも見えるウルの表情にグリアムは声を詰まらせ、そっと彼女に近付いてその顔を覗き込む。
「……ウル、そんな顔するなよ。心配しなくても、すぐ帰ってくるって」
「……別に心配なんかしてません。さっさと可愛い女の子のところに行って来たらいいでしょ、このクソ野郎。ばーか……」
(いや、言い方がだいぶトゲあるけど……)
明らかに拗ねているウルに苦笑しつつ、グリアムは彼女の背をとんと叩いた。「うん、ちょっと行ってくる」と優しく告げ、彼は家を出て行く。
残されたウルはむすっと唇を尖らせたまま、閉まった玄関の扉を見つめていた。程なくして、呆れたような溜息と共にルシアが口を開く。
「……おい。止めなくていいのか? アイツ、女に迫られたら絶対断りきれないぞ」
「……その時は、もう、その時です」
私に止める権利なんてありません、と弱々しく続いた声に、ルシアは更に嘆息した。
「……なあ。貴様ら、本当に夫婦なのか? 何か訳有りだろ、少なくとも恋愛結婚じゃなさそうだし」
「……」
「……ま、どうでもいいけど」
ルシアは目を逸らし、膝の上のロザリーが口の中で転がしているチュリボムの種を取り出す。「これは種だ、食うなよ」と彼女に言い聞かせていると、不意にウルがぼそりと声を発した。
「……私も、もっと……」
「……あ?」
「……素直で可愛い女の子だったら、良かったのかな……」
「……」
彼女の発言に、ルシアは眉を顰める。
落胆するウルの背中を見つめ、彼はぼそりと小さな声を紡いだ。
「……黙ってりゃ、それなりに可愛いだろ……」
ルシアは呟き、きょとんとして見上げる膝の上のロザリーの髪を撫でる。「今の、アイツに言うなよ」と小声で耳打ちした彼に、ロザリーは首を傾げつつ、こくりと頷いたのであった。
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