第32話 vs マシュマロ
「……いってえ……」
鼻に詰め物をしたグリアムは、未だに鈍く痛む顔を押さえながらボソリと呟く。「マーマ、はなぢブー?」と首を傾げるロザリーのお腹を軽く叩いて寝かし付けつつ、彼は苦笑いをこぼした。
「……あー、うん……鼻血ブーしちゃったね……」
「うーたん、ぷんぷんしてるの?」
「う、うーん……多分……ぷんぷんしてるね……」
明らかに不機嫌なウルの背中をちらりと一瞥するが、彼女は風呂上がりの濡れた髪を
──程なくして、ロザリーがようやく寝静まった頃。ウルの機嫌は、やはり良いとは言えなかった。
彼女はグリアムと一切目を合わせる事無く、そっぽを向いたまま毛布に潜り込む。いつもなら「おやすみなさい」と告げるその一言すらも掛けてはくれず、グリアムは怖々とウルの背中に手を伸ばした。
「……う、ウル……」
震える声で呼びかければ、「何ですか、師団長」と素っ気ない声が返される。最近は“師団長”と呼ばれる事もほとんど無かったため、その呼び方がぐさりと胸に突き刺さった。
グリアムは
「……ウル、こっち見ろよ」
「……」
ウルは暫く黙り込んだが、やがて静かに寝返りを打つと不安そうにしているグリアムと向かい合った。暗い中でも彼女の冷たい視線を察してしまい、彼はたじろぐ。
「……お、怒ってる……よな?」
「……あら〜。夫が不倫したら、普通怒るものじゃないですか〜?」
「ふ、不倫って……! ただ告白されただけだぞ、不倫になるわけないだろ!?」
「……でも、デート、行っちゃうんでしょ? ……可愛い女の子と……」
ぼそ、と弱々しく放たれる声。
そのまま再び顔を逸らされてしまい、グリアムは瞳を瞬いた。
「……ウル」
「……」
「……お前、俺がデート行くと……嫌なのか?」
「……、そんなわけないでしょ。調子に乗らないでくださいよクソ師団長……」
いや、めっちゃ声落ち込んでるんだけど……、とグリアムは内心突っ込みつつ、上体を起こして彼女の顔を覗き込む。「もう少しこっちに寄れよ、落ちるぞ……」と言い聞かせるが、ウルは「うるさい、ばか……」と小さく告げて更に顔を逸らした。
その態度にグリアムはムッと眉根を寄せ、やがて深く溜息を吐き出すと、彼女に向かって手を伸ばす。
「……お前な! こっちは心配してるんだから、少しは素直に本音言えよ! いつも俺に隠し事ばっかりして一人で全部抱え込みやがって! もっと俺の事を頼っ──」
──むにっ。
「……ってくれても、いいの、に……?」
勢いだけで彼女の体に伸ばした手は、やたらと柔らかい何かを強引に鷲掴んだ。グリアムは声を詰まらせ、恐る恐ると伸ばした手の先を確認する。
すると自身の
「うォおおおっぱああああ!!?」
一瞬で顔面が発火せんばかりの熱を帯び、グリアムは奇声を発しながら即座に手を離して後退した。勢い良く離れ過ぎてガンッ! と背中を壁に強打するが、それすらも気に留める事が出来ずに先程の感触を思い出して胸がどくどくと早鐘を打ち鳴らす。
や、や、やばい、触ってしまった。
どうしよ、めっっちゃ柔らかかった。
危うく理性が吹っ飛んで揉みしだくとこだったぞ、あっぶねえええ!
顔を出しかけた本能を寸前で制し、グリアムは深呼吸を繰り返して今の感触を忘れようと自身に暗示をかける。──そう、今のは違う、あの柔らかいのはただのマシュマロだ。でかいマシュマロを掴んだだけであって、断じておっぱいではない。そうだ絶対に違う。
グリアムは何度も脳内で言い聞かせ、動揺する自身を落ち着かせる。しかしふと、ぎしりとベッドを軋ませてウルが起き上がった事で彼はハッと我に返った。途端にグリアムはたじろぎ、慌てて片手を前に突き出して弁明を始める。
「ち、ち、違うんだウル! 今のは事故だ……! お前がベッドから落ちそうだったから、こっちに引き寄せようとしただけで……! と、とにかくわざとじゃない! すみません!」
「……」
「ほ、本当です……! 誓います! 俺はわざと触ったわけではありませ……!」
「……いいよ、触っても」
「……、……へ?」
彼女の口から放たれた言葉に、グリアムは間の抜けた声を上げた。すると不意にウルの手が伸び、「だって、触りたいって、言ってたんでしょ……?」という囁きと共に彼の手を掴むと自身の元へそれを引き寄せる。
そして、掌には再びあの感触。
──むに。
「うぉふっ……!?」
どっ、と汗が吹き出し、グリアムは目を見開いて口元を押さえる。やっべえ変な声出た、と後悔する間もなく、ウルは彼の手を更に強く胸に押し当てる。「……ほら、」とか細く続くその声に生唾を飲むが、柔らかな誘惑に屈してたまるかとグリアムは奥歯を噛み締めた。
これは!! 断じて!! おっぱいではない!!
ただの!! 柔らかい!! マシュマロだ!!
彼は脳内で必死に絶叫し、その感触に目を血走らせる。揉むなよ、絶対揉むなよ! と内なる自分が囁くが──童貞歴の長い彼には、この甘美な誘惑の威力は強過ぎたようで。
程なくしてグリアムは、「いや、でもこれはマシュマロだろ……? マシュマロなんだから、揉んでも問題ないんじゃ……?」という都合のいい考えに至り始めた。手の中のたわわなマシュマロは、『わたしはただのマシュマロよ! 揉んでもなーんにも問題ないゾ♡』と彼の耳に幻聴を吹き込み始める。
ぷるぷると手を震わせ、グリアムはとうとう、その手に僅かな力を込めた。ふに、と掌に包まれる柔らかな膨らみ。程よい弾力が手の中にダイレクトに伝わり──ついに、彼は最終的な結論へと辿り着く。
(ウン。これはマシュマロだ。揉もう)
バッサリ。即答。
自身で作り上げた「マシュマロ」という設定を棚に上げ、同時にその理性もガラガラと音を立てて崩れ出した。ふに、ふに、と無心で彼女の胸を揉み始めたグリアムの様子に、ウルは戸惑ったように声を震わす。
「……? ぐ、グリアムくん……?」
「……マシュマロなんだから、」
「え?」
「──食ってもいいんだよな?」
不可解な言葉に「マシュマロ……?」とウルが眉を顰めた直後、彼女の体は強くグリアムに引き寄せられた。短く悲鳴を上げたウルはベッドに投げ落とされ、おずおずと閉じていた目を開ける。
すると飢えた獣のような眼をしたグリアムと至近距離で視線が交わり、彼女は思わず息を呑んだ。ウルの体を組み敷いた彼は、彼女の着ていたベージュ色のニットを徐々にたくし上げて行く。
「……え!?」
白い肌が露わになるに連れてウルの身体は強張り、目を見開いて焦り始めた。自分で誘っておきながら些か怖くなったのか、彼女は声を震わせてグリアムの手を掴む。
「……あ、あの、グリアムく……っ、や、やっぱり待って……! あの、私っ……!」
「マシュマロだから待たない」
「ちょっと、待ってってば!」
「マシュマロだから何も聞こえない」
「さっきからマシュマロって何!?」
都合よく「マシュマロ」を多用しつつ、グリアムはついにウルの服を最後まで捲りあげて胸元を晒した。「あ、だめっ……」と声を漏らして顔を逸らし、彼女は恥ずかしそうに手で顔を隠す。淡い薄桃色の清楚な下着とたわわな膨らみが目の前に現れ、グリアムはごくりと生唾を
──ヤバい。なんか勢いで脱がせちゃったけど、ここからどうするんだ?
グリアムは額に汗を浮かべ、ぴたりと動きを止めた。戸惑いながらも視線はきちんとウルの身体の曲線美を追い掛けているわけだが、彼の女性経験値はゼロ。この先どうすればいいのか、全く分からない。
(……と、とりあえず、下着も脱がせて、全裸にすればいいのか? いやでもこの部屋寒いし、それは可哀想だよな……。じゃあ、もう一回おっぱい揉む? いやさっき揉んだばっかだぞ? 普通そんなに揉むものなのか? 『こいつおっぱい好きすぎじゃん、必死すぎ気持ち悪〜』とか思われない? 大丈夫?)
ぐるぐると考え込んでしまい、グリアムは硬直する。そんな彼を不安げに見上げるウルの視線を感じて焦燥しながら、彼は「落ち着け、落ち着け……!」と自身に言い聞かせた。
……よく考えろ。こういうのは初っ端から飛ばし過ぎると絶対に良くない。絶対に空回っておかしな事になる。いいか、とりあえずおっぱいの事は忘れるんだ。おっぱいは後回しだ。おっぱいを揉む前に、世間の恋人同士が何をするのか考えればいい。そう、例えばキスとか──。
と、そこまで考え至って彼は再び硬直する。
(……は? いや、待て。俺と、ウルが……、)
……キッス……!?
ぼふんっ、と途端に頬が熱を帯び、グリアムは視線を泳がせた。『いやいや、俺達は仮の夫婦なんだぞ! キスはダメだろ!』と叫ぶ自分がいる一方、『はいキッス! キッス! キッス!』と騒いで
グリアムは暫し迷ったが、『キッスしようぜ!』『このまま童貞捨てようぜ!』と騒ぐ心の中の自分を強引に制し、何とか冷静さを取り戻した。
(お、落ち着け……ウルは本当の嫁じゃないんだ。このまま流れに身を任せたらヤバい。冷静になれ俺、よく見ろ。こいつはウルだぞ、どう見ても全然可愛くな──)
と、そう考えて彼女に視線を移す。
視線の先のウルは──不安げに瞳を潤ませてグリアムを見上げ、頬も真っ赤に染め上げて、さらけ出された胸元を恥ずかしそうに手で隠していて。
小さく震える彼女の表情に、グリアムの理性はパァン! と派手な音を立てて容易く吹き飛ぶ。
(あ、むり、俺の嫁可愛い。キッスしよ)
完全にそれまでの意見を
「……ウル……」
「……え、あの、ぐ、グリアムくん……待っ……」
「嫌だ、待たない」
迫る唇。真剣な眼差し。
ウルは息を呑み、迷ったように視線を泳がせたが──とうとう覚悟を決め、彼女は両目を固く瞑った。
互いの鼻先が触れ合う距離にまで顔が近付き、ウルの唇まで残り数センチ。そしていよいよ唇が重なる──という、寸前で。
彼らの耳に眠たげな幼女の声が届いた。
「ママぁ〜、おちっこ〜……」
──ドッタン! ガタガタン! ドンッ!
大きな物音を立て、動揺したグリアムは即座にウルの服を正すと顔を真っ赤に染めてベッドから転がり落ちる。ロザリーはぱちくりと瞳を見開き、寝床替わりのカゴから顔を出して首を傾げた。
「……まーま? ころころ〜って、なにしてるの?」
「……、う、ウン……。ちょっと……遊んでたの……」
グリアムは顔を赤く染め、床に転がったまま辿々しく答える。ロザリーは不思議そうにしながらも、もじもじと脚を擦り合わせて「おちっこ~……」と繰り返した。
グリアムは慌てて立ち上がると彼女を抱え上げ、「ご、ごめんごめん。トイレ行こうか」と苦く微笑む。その際にちらりと背後を振り向けば、頬を赤らめているウルと視線が交わった。
「……」
「……」
「……オ、オヤスミ……」
「……オ、オヤスミ、ナサイ……」
二人は顔を真っ赤にしたまま不自然なほどに棒読みの挨拶を交わし、互いに顔を逸らした。ばくばくと心臓が鼓動を速める中、グリアムはロザリーを連れてトイレへと向かって行く。
彼の脳内はウルの姿で溢れかえり、翌日他の女性とデートの約束をしている事など、頭の中からすっぽりと抜け落ちてしまっていたのであった。
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