第31話 不倫は許しまへんで
とっぷりと日が沈み、窓を打つ雨が激しさを増す。
グリアムが『小芋を買いに行く』と家を飛び出し、ロザリーと遊んでいたセルバが自身の家へと帰宅してから、既に数時間は経過していた。
トントントン、とまな板の上でキャロラッツを刻んでいたウルは小さく息を吐き出し、暗い窓の向こうを見つめる。随分と雨脚が強まって来たというのに、グリアムが帰って来る気配はまだない。
「……あの人、どこまで買い物に行ったのかしら。随分と帰りが遅いけど……」
「うーたん」
くい、と服の裾を引かれ、ウルは視線を下げる。すると足元に引っ付いたロザリーが「うーたん、ママはー?」と不思議そうに問い掛けた。
グリアムの事は「ママ」と呼ぶ彼女だが、ウルに対しては「うーたん」と呼ぶ。引き取った当初はグリアムをママだと言い張るこの状況がややこしく、「この人はママじゃなくてパパよ〜。私がママ」と何度も言い聞かせたのだが、結局呼び方は直らなかった。
ウルは包丁を一旦置くと、ロザリーの目線に合わせてそっとその場にしゃがみ込む。
「んー……もうすぐ帰ってくると思うから……。もう少し待ってみようね。先にお手手洗っておいで、ロザリー」
「あーい!」
ロザリーはぴっと手を挙げ、少し離れた場所で正座しているルシアを軽々と飛び越えて走り去って行った。
そんなロザリーの背中を見送っていると、不意に「……おい」と忌々しげな低い声が放たれた。涼しい表情でその発生源に視線を向ければ、ぎろりとこちらを睨むルシアと目が合う。
「あら、どうしました? 非常食さん」
「非常食じゃねえええ!! くそ、貴様いつか絶対殺す!! つーかさっさとこの氷を溶かせ!! いつまで正座させるつもりだこのクソ
「やだ〜、人にお願いする時は地面に額擦り付けて懇願するものでしょ〜? ほらやってみて下さいよ、ほらほら」
「誰がするか!!」
ぎゃいぎゃいと口喧しく吠えるルシアに「まったく、うるさい猫ですね〜」と嘆息し、ウルは再び包丁を手に取ると野菜を刻み始めた。ルシアは不服げに眉根を寄せて彼女を睨む。
「ほんっっとに可愛くない女だな貴様! 死神もよく貴様みたいなクソブスヘドロ女を嫁にしようと思っ──
「あっ、ごめんなさ〜い。手が滑っちゃった〜♡」
グツグツと煮込んでいたスープの汁を数滴飛ばし、何の悪びれも無くウルは微笑んだ。「わざとだろ貴様ァ!!」と激昂するルシアを無視し、ウルは刻んだキャロラッツを鍋に入れて蓋をする。
「……さーて、あとは火が通れば完成ね」
「おい! シカトするなクソ女!」
「はあ〜、本当にうるさい。このクソ猫も一緒に鍋に入れて煮込もうかしら?」
「ンだとコラ、ナメやがって……! 本当に可愛げのない女だな!! あの死神、一体この女のどこを見て『可愛い』とか抜かしてるんだか……!」
「えっ?」
──するっ。
ルシアが何気なくこぼした一言に、ウルは目を見開いて反応した。その瞬間、握っていた包丁が彼女の手元を離れて正座しているルシアの脚へ降下する。
彼は「ぎゃああっ!?」と悲鳴を上げたが、包丁は彼の脚の真横に落ちたため、間一髪で接触は
「……っき、貴様ァ! 危ないだろッ!! 危うく太ももにぶっ刺さるとこ──」
「あなた、今何て言いました?」
「あ!?」
「……その、グリアムくんが……『可愛い』って……言ってた、とか……」
落とした包丁を拾い上げ、ぼそぼそとウルは問い掛ける。ルシアは瞳を
「……? あ、ああ……言ってたぞ? 何か普通に、貴様の
「の、惚気話!? 惚気話ってどんな!?」
「うわ!? 近っ……いや包丁! 包丁が近い!!」
包丁を持ったままずずいと距離を詰められ、ルシアは頬を引き攣らせる。しかしウルは更に詰め寄り、「どんな惚気言ってたの!」と彼に凄んだ。
ルシアは
「い、いや、だから……『俺の嫁が可愛い』とか……『いい匂いする』とか……」
「……えっ……!」
「あと、『触りたい』とか……」
「触っ!?」
ウルは途端に頬を紅潮させ、動揺したのか再び包丁を取り落とした。「ぎょわァ!?」と声を上げたルシアはまたもや顔を青ざめ、「だから危ないだろうが貴様ァ!!」と怒号を上げる。
しかしウルは彼の叱責には答えず、火照った頬を両手で押さえると戸惑ったように視線を泳がせた。
「……そ、そんな……本当に……? 本当にあの人、そんな事言ってました……?」
「あァ!? 言ってたぞハッキリと! 正座したまま聞かされたんだからな俺は!」
「……そ、そう……。そうなんですか……」
ウルは呟き、落とした包丁を拾い上げると無言でそれをまな板の上に戻した。
やけに大人しくなった彼女をルシアが訝しげに眺めていると、不意に彼の腰から下を覆っていた氷がどろりと溶け始める。突如体に自由が戻り、ルシアは困惑した様子で「うお!?」と声を上げた。
「……な、なんだ!? 何でいきなり溶けた!?」
「……」
「……? お、おい、女……貴様、顔真っ赤だぞ……? どうした?」
痺れる脚を押さえながらルシアが問い掛ける。するとウルは真っ赤な頬を手で覆い、困ったようにルシアを見下ろした。
戸惑いの表情を浮かべて恥じらう彼女の様子に、ルシアの頬もつられて赤くなってしまう。
「……っな……! な、何だよ、その顔……! やめろ貴様! 急にメスの顔しやがって! 調子狂うだろうが!」
「……う、うるさい、馬鹿猫……。転んだ拍子に強烈に舌噛んでそのまま死んで下さい……」
「顔は恥じらってても口は悪いな相変わらず!!」
頬を赤らめたまま毒づくウルにルシアはまたもや苛立ったが、一拍間を置いた彼女が「あの……」と言いにくそうに口を開いた事で、彼は再び眉を顰めた。
「あ?」
「……やっぱり、男性の方から見ると、面倒ですか……?」
「……は? 何が?」
「……そ、その……、恋人とか、妻が……あの……、一度も、そういう経験がないっていうのは……」
──やっぱり、面倒くさいですよね……?
ウルは頬を赤らめたまま、小さな声で問い掛ける。ルシアは一瞬声を詰まらせ、やがて目を見開くと真っ赤に染まる彼女の顔を凝視した。
……そういう経験がない、というのは……まさか……。
「……え? 貴様……」
「……」
「……も、もしかして……、処──」
「うーたんー! おてて洗えたー!」
刹那、けたたましく洗面所の扉を開け、先程手を洗いに行ったロザリーが戻って来た事でウルはびくっ! と肩を震わせる。すぐさま彼女は微笑み、飛び付いてきたロザリーを受け止めた。
「あ、あら〜、ロザリーえらいわね。一人でちゃんと出来たの?」
「あい!」
「すごいね、いい子いい子〜」
うふふ、と優しい笑顔を浮かべたウルがロザリーの頭を撫でる。ロザリーもまた満足げに微笑み、「ねー、ママはー?」とウルに引っ付いたまま問いかけた。
「……あ……ママは……そうね、まだ帰って来ないけど……」
「え〜……」
「でも大丈夫よ、きっともう少しで──」
と、そこまで続けた時。
突如、ガチャン!! と激しく玄関の扉が開き、ずぶ濡れのグリアムが勢い良く室内へと飛び込んで来る。そのまま彼は床に転がり、ぜえぜえと肩で息をするその姿にウルは目を見開いた。
彼女は即座にロザリーをその場に降ろし、ずぶ濡れで倒れ込むグリアムの元へと駆け寄る。
「え!? ちょ、ちょっと、あなた!? 全身びしょ濡れじゃないですか……! 一体どうし……」
「ウル!! 聞いてくれ!!」
「きゃあ!?」
濡れた彼の手が細いウルの肩を勢い良く掴み、彼女は思わず悲鳴のような声を上げた。しかし至近距離にあるグリアムの顔は更に近付き、ウルの頬が途端に熱を帯びる。
先程ルシアから聞かされた『俺の嫁が可愛い』『触りたい』というグリアムの発言を思い出してしまい、「大事な話があるんだ……!」と真剣な表情で迫る彼の瞳から、彼女はつい目を逸らした。
「……っ、だ、大事な話って……、ま、待って……! 私、あの、まだ、こ、心の準備が……!」
「ウル、頼む、聞いてくれ! 俺、生まれて初めての愛の告白を……!」
「……え、え!?」
「──愛の告白を、されたんだけど!!」
「…………、……」
──は?
それまで高ぶっていたウルの熱は、その一言によって急速に温度を失って凍り付く。スッ、と彼女の顔から笑顔が消えた瞬間、背後で見ていたルシアは「うわ、これはまずい……」と頬を引き攣らせた。
しかしそんな冷え切った空気感も、一人でテンパっているグリアムには察する事が出来ない。
「う、ウル! 俺、どうしたら……! は、初めて女の子に告白されて、デートして下さいって言われて……あわよくば、け、結婚して欲しいって……!」
「……」
「し、しかも、育ちの良さそうな、おしとやかで清純っぽい女の子で……か、可愛かったんだよ……! 思わずびっくりして、逃げて来たんだけど……その、明日、村の広場で待ってるって言われて……!」
「……」
(やめろ死神、貴様死ぬ気か)
ウルの機嫌が無言で急降下して行く様がありありと分かり、夫婦のやり取りを見つめるルシアは肝を冷やす。彼は不意にロザリーを抱えると、「おい、逃げるぞ……ここは今から戦場になる」と耳打ちして隣の部屋へと彼女を連れ去った。
残された夫婦は、その場で向かい合ったまま。グリアムの話は更に続く。
嫁が拳を握り締めている事になど、全く彼は気が付かない。
「……ど、どうしよう……俺、デートとか、告白の返事とか、した事なくて……!」
「……」
「ウル、どうしたらいい!? 俺、明日……デート行くべき!?」
「……うふふっ、そうですねえ。とりあえず──」
にこっ、とウルは愛らしく微笑み、小首を傾げた。そして遂に、握り込んでいた拳を静かに持ち上げる。
「──顔面、一発殴らせて頂きますね♡」
直後。
ドッゴォ!! と鈍い音を立てて打ち込まれた強烈な怒りの鉄拳は、グリアムの顔面に重くめり込み、彼は鼻血を噴出させながらその場に倒れたのであった。
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