第30話 曲がり角は恋の予感
ぽつぽつと、暗い空から降る雨は幸いにも小降りだった。グリアムは白いローブのフードを深く被り、重く垂れ篭める雲を見上げる。今はまだ小雨だが、帰りは土砂降りかもしれない。
それは嫌だなあ、などと考えていると、不意に気さくな男の声が彼の耳に届いた。
「よーし、グリアム! こんなもんで良いか? 小粒のポテ芋、たっぷり二十個入り!」
「……あ……はい。ありがとうございます」
人の良い笑顔を振りまいたロバートは、袋の中に小芋をたっぷりと詰めてグリアムに手渡す。採れたてで新鮮な小粒のそれを受け取り、料金を支払った彼は満足げに袋を抱えた。
「それにしても、いきなり『小芋くれ』って飛び込んで来やがるから何事かと思ったぜ。ほんのついさっき、嫁さんに野菜売ったとこだったしな。買い忘れか?」
「……え、あ、……そ、そんな感じです」
「はっはっは! それで旦那が買い直しに来たってわけかい、尻に敷かれて大変だなあ!」
「はは……」
ぎこちない笑みをこぼしつつ、グリアムはちらりと外を一瞥した。どうやら雨はまだやんでいないが、先程よりは心做しか雨脚が弱まった気がする。
これならあまり濡れずに帰れそうだな、と安堵していると、不意にロバートが言葉を続けた。
「ああ、そうだグリアム。今夜から明日にかけて大雨らしいぞ。雷雨になるって話だったから、山道やら川に近付くのはやめておけよ」
「……えっ……、雷雨……?」
グリアムはロバートへと視線を戻し、目を丸める。「ああ、結構激しく降るって話だぞ。占い屋のバァさんが言ってた」と頷いた彼に、「そうなんですか……困ったな……」とグリアムは嘆息した。
「ん? なんだグリアム、雷は苦手か?」
「……あ、いや……。俺は大丈夫なんですけど……」
ぽつりと呟き、彼はその先を言い淀む。すると何かを察したのか、ロバートは「ああ、なるほど!」と手を叩いた。
「そういやお前さん、最近養女を引き取ったんだったな! 確かにあの年齢の子供にゃあ、雷は少し怖いか」
「……え?」
「ん? 違うのか?」
「あ、い、いえ! そ、そうです! ロザリーが雷を怖がるかもなって、ちょっと心配で……はは……」
グリアムが早口で返事を返すと、ロバートは「いやー、若いのにパパになっちまって、大変だな!」と豪快に笑う。いや俺ママなんだけどね、と内心ツッコミを入れつつ、彼は暗く垂れ篭める空の下へと足を踏み出した。
「あの、それじゃ……そろそろ帰ります。小芋、ありがとうございました」
「おう! 気を付けて帰れよ! 最近この辺り、引ったくりが出るって噂だからな! 何も盗まれねーようにしろよ!」
「あ……そうなんですか……。気をつけます」
グリアムは頷き、こんな田舎にも悪いやつは居るんだなあ……と考えて嘆息する。……まあ、もし引ったくり犯に出会ったとしても、俺から引ったくる物なんて今は芋ぐらいしかないんだけど。
さすがに芋は盗まれないだろ、と考え、彼は手を振るロバートにぺこりと頭を下げると、小雨がパラつく路上を歩き始めた。
ようやく目的の物を買い終え、彼は満足気に頬を緩める。
(……よし、小芋も買えたし、あとは雨が本降りになる前に家に帰らないとな)
──雷も鳴るらしいから、アイツが少し心配だし。
そう考え、グリアムは無意識に歩く速度を速める。時刻は既に夕刻。黒い雲に陽の光が遮られている事も相まって、帰り道はいつもより薄暗く感じた。
早く帰ろう、とフードを深く被り直し、前方を歩いていた女性を追い越そうと
「──きゃあっ!?」
「……っ!?」
どん! と男に衝突された女性はよろめき、ちょうど真隣にいたグリアムに
(……あっ、芋──)
ころころと転がる小粒の芋を目で追いかけるグリアムは、女性から離れるとすぐさまそれに手を伸ばす。
しかし。
──ぐしゃっ。
「……」
突如、薄汚れた黒いブーツが拾い上げようとした小芋を踏み潰した。ぴしりと硬直するグリアムを差し置いて、小汚いブーツを履いた見知らぬ男は何事もなかったかのようにその場から走り去って行く。
程なくして、グリアムの背後で先程の女性が「ああー!!」と声を上げた。
「……か、カバンが! カバンがありませんの!!」
甲高い声が響き、女性は先程走り去った男へと視線を向ける。その手にはしっかりと彼女のカバンが握られており、それを見た女性は「あああっ! 盗られましたのーっ!!」と更に顔を青ざめて絶叫した。
どうしましょうの、どうしましょうの! と焦る彼女の前方で、芋を潰されたグリアムは放心状態のままゆらりと立ち上がる。小雨がパラパラと頬を打つ中、目の奥の光を失った彼は「俺の……芋……」と力無く呟いた。
刹那、彼は目にも留まらぬ速さで地を蹴り、疾風のごとき俊足で走り出す。
「……ふえ!?」
背後で慌てていた女性が驚愕に目を見開いた頃には、グリアムは既に先程の男の元へと追い付いてしまっていた。
一瞬で追いつかれた男はギョッと振り返り、焦ったように声を上げる。
「なっ──!?」
「……俺の芋が……」
グッ、と握り込まれた拳。黄緑色の光を帯びるその手からは、彼の怒りを表したかのような電流が火花を散らしていた。
カバンを引ったくった男は
「俺の芋が──潰れちゃっただろうがァ!!」
「ぎゃあああっ!!」
──バリバリバリィ!!
電流を纏った拳は男に直撃し、凄まじい電撃が彼を襲う。激しい電流に包まれた男は白目を剥き、その場に倒れて失神した。
グリアムは彼の手からカバンを奪い取り、ふんっ! と不服げに鼻を鳴らして気絶している男を見下ろす。不機嫌全開で彼を足蹴にするが、男は完全に意識を飛ばしてしまっていた。
「……この野郎……せっかくロバートさんが多めに入れてくれた芋だったんだぞ……。こいつが
忌々しげに呟き、グリアムは舌を打つ。
するとややあって、彼を追って来たカバンの持ち主である女性がはあはあと息を荒らげながらグリアムの元へと追い付いた。グリアムは彼女に気が付くと「あ……」と顔を上げ、今しがた男から取り返したカバンを差し出す。
「……これ……どうぞ。あなたのですよね」
「……」
「……、?」
女性にカバンを返そうとしたグリアムだったが、なぜだか彼女は彼を凝視したままその場を動かない。
じっ、とこちらを見つめる硝子玉のような丸い瞳。肌は透き通るように白く、丁寧に編み込まれた髪は
「……? あ、あの……」
「……王子様……」
「は?」
「貴方、きっとアイシャの王子様ですの……!」
ポポポ、と女の頬は更に赤く染まっていく。大きな瞳を輝かせ、恍惚とした眼差しを惜しみなく向ける彼女にグリアムは困惑しつつ「おうじさま……?」と間の抜けた声を返した。
すると彼女は突然グリアムの手を取り、ずいっと顔を近付ける。
「うわ……っ! え!? え!?」
「わたくし、アイシャと申しますの! さっきの貴方、とっても素敵でしたの! お芋の王子!」
「“お芋の王子”!?」
「きっと貴方こそが、アイシャの真の王子様に違いありませんの!」
グリアムに詰め寄り、彼女──アイシャはうっとりと彼の目を見つめた。至近距離で美女に見つめられ、グリアムの頬も真っ赤に紅潮してしまう。
どうにか離れてもらおうと一歩ずつ
「どうしましょう、わたくし──貴方に、恋をしてしまいましたの!」
「…………、え?」
「お芋の王子様! どうか、アイシャとデートして下さいませの! あわよくば結婚して下さいませのー!!」
「…………、え、え、え」
……ええええええーー!!?
次第に雨脚が強まり始めた空の下。
急すぎる展開に付いていけないグリアムの大絶叫が、村の中に響き渡った。
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