第5章 恋は突然に
第29話 俺の嫁がこんなに可愛いはずがない
窓の向こうは曇り空。少し薄暗くはあるが、比較的に穏やかな昼下がり。グリアムはソファに深く腰を沈め、はあ、と大きな溜息を吐き出していた。
そんな浮かない表情の彼は差し置いて、部屋の中では
「よし! ロザリー! もう一度言ってみろ!」
「あいっ!」
「お芋師匠は!?」
「ママ!」
「僕は!?」
「にーに!」
「タオルケットは!?」
「にゃんにゃん!」
「お芋は!?」
「もいもい!」
「よし、完璧だ!」
「あいー!」
ぴょんぴょんと飛び跳ね、無邪気な白兎の幼女は嬉しそうに微笑んだ。もう一人の少年──セルバも、うんうんと満足げに頷いている。
先日、
グリアムは「本当の母親が見つかるまでママになる」という自身の宣言通り、幼女に“ロザリー”という名前を与えて家の中でしばらく面倒を見る事になった。
警戒心の強いウルは最初こそ不服げにしていたが、数日共に過ごすうちにロザリーが凶暴化する可能性は薄いと判断したのか、今では一緒に入浴したり文字の読み書きを教えたりしている。
ウル曰く「私、子供って苦手なんですよね」との事らしいが、その割に面倒見は良さそうだった。
一方で、歳が近いセルバにはロザリーもよく懐いている。
セルバは早速先輩風を吹かし、「僕はお芋師匠の一番弟子なんだぞ! 新入りに色々とこの家のルールを教えてやる、感謝しろよ! 特別だからな!」と得意げに胸を張っているわけで。
ロザリー相手に、こうして“この家のルール”とやらを叩き込んでいるのが現在の状況である。
そんな二人の微笑ましいやり取りをぼんやりと眺め、グリアムは再び深い溜息を吐き出した。
「……はあー……」
「……おい、溜息やめろ死神。さっきからウジウジと
「……タオル」
ちらりと、床に正座した状態で文句をこぼしたタオル──もとい、ルシアの姿を見下ろす。
今日も懲りずに襲撃しに来た彼だったが、やはりいつものように失敗し、ウルによって逆に銃撃されてしまったのが数十分前。その後はいつものように下半身を氷に埋められ、動けない状態のまま『パスタの分量を百グラムずつ測って小分けに纏める』という地味な作業を手伝わされているのだった。
乾燥パスタの束を握り締め、ルシアは舌打ちする。
「……チッ。この
そう文句を垂れつつ、ルシアは忌々しげに歯噛みした。しかし、おそらく散々我が家の家事を手伝わされているであろう彼の手付きが随分と
なぜなら彼が目分量だけで掴み取った乾燥パスタの束は、測りに乗せると必ずきっちりと針が百グラムを指し示すのだ。コイツの熟練度は着実に上がって来ている。
(……こいつ、着々と“我が家の家政夫”になるように調教され始めてるよな……)
文句を垂れながらもテキパキと仕事をこなすルシアにグリアムは若干哀れみすら抱いたが──ややあって、またもや深い溜息を吐き出した。
ルシアは眉を顰め、彼に視線を向ける。
「……おい、だから溜息やめろ貴様。殺されたいのか」
「……タオル、ちょっと、俺の悩みを聞いてくれ」
「は? 悩み?」
「この前から、俺……ちょっとおかしくて……。もう、どうしたらいいのか分からないんだ……」
はあぁ、と更に漏れる溜息。ルシアは片眉を上げ、訝しげにグリアムを見る。
やがて、彼は嘲笑混じりに口を開いた。
「ハッ、世界最強の魔導師様が何を悩むって言うんだか。さぞ重たい悩みなんだろうな」
「そう……もうなんか、自分じゃどうにもならない……」
「……ふん、まあいい。どうせ俺は暫く動けん。暇潰しに聞いてやる、何だ悩みって」
「……あのさ……」
グリアムは顔を上げ、どこか遠くに目を向ける。憂いを帯びたその表情に、ルシアは目を細めた。──世界最強の男を悩ませる程の事だ。おそらく余程重大な悩みに違いない。
そう覚悟し、ルシアは身構える。
グリアムは口を開き、続きを語った。
「……あの……」
「……」
「──俺の嫁が、最近めっちゃ可愛く見えるんだけど……どうしたらいいと思う?」
「……、…………」
……は?
途端にルシアは目の奥の光を無くし、真顔でグリアムの顔を凝視する。その一方、グリアムは頭を抱えながら“この世の終わり”さながらの表情で頭を抱えた。
「ほんとに最近……っ、アイツがとんでもなく可愛く見える時があって……! 朝起こしに来る時もなんか可愛く見えるし、夜寝る時もなんか分からんけど可愛い……!」
「……」
「タオル……! 俺、おかしいのか!? なんか可愛いんだよアイツが! いい匂いするし、なんか可愛いし、どこもかしこも柔らかいし、なんか可愛いんだよ!! 俺、おかしくなったのか!?」
「ああ、
馬鹿の一つ覚えのように“なんか可愛い”を繰り返すグリアムに冷めた表情を向けながらルシアが答えれば、グリアムは「やっぱり!?」と顔を青ざめる。彼は更に嘆息し、その場に項垂れた。
「……いやマジで……もう、なんか、ヤバいんだよ……。急にウルに触りたくなったり、でも本当に触ったら嫌われそうで怖くなったり、目が合うと動悸がしたり……」
(……俺は今、一体何を聞かされているんだ?)
「う、ウルの顔を見ると、なんかこう……胸がキュンってこう……痛くなるというか……」
(胸が痛いのは俺だわ。男の
うんざりと顔を顰めるルシアだが、グリアムは至って真剣に悩んでいるのだからタチが悪い。「なあ、どう思う!? 俺の嫁、なんか可愛くないか!?」と詰め寄る彼をうざったそうに睨み、ルシアは「知らん」と一蹴した。嫁がこの場に居ない──先程買い物に出掛けた──のを良い事に、色々ぶっちゃけ過ぎじゃないかこいつ……、とルシアは呆れる。
そんなに彼らの会話に、「ごっほん!」と咳払いする声が割り込んだのは、丁度その頃合だった。
「……お芋師匠、その感情は間違っていませんよ。ウルティナさんは可愛い! そして美しい!!」
そう豪語して堂々と会話に横入りしたのは、元々グリアムに対し『恋のライバル』だと宣言した事もあるセルバである。ルシアは相変わらず冷めた目で「そうか……?」と表情を引き攣らせたが、グリアムは「そうだよな!?」と食い気味に身を乗り出した。
「流石だセルバ……! お前なら分かると思ってた……!」
「当たり前でしょう、師匠。僕はお二人の事なら何でも分かりますよ。誰よりもこの家庭の円満を願っていますから」
「ちょっと前まで俺の家庭を崩壊させようとしてたヤツの台詞とは思えないな」
その言葉に、セルバはフッと笑って「それは過去の話です。あの頃の僕は未熟でした。若気の至りだと思って忘れて下さい」とあっさり手のひらを返す。お前まだ十二歳だよな……? と内心だけでグリアムは突っ込んだが、彼の言葉は更に続いた。
「とにかく、お芋師匠のその感情は悪い事ではありません。一度結婚してしまった以上、たとえ愛が冷めようが共にいるのが夫婦です。だったら、とことん燃え上がった方がいいでしょう?」
「……セルバ、お前ほんとに十二歳?」
「毒も食らわば皿まで。つまり──“恋も食らわば皿まで”です!!」
びしぃっ! とグリアムを指差し、セルバは胸を張る。そんな彼の動きを真似たロザリーがキャッキャと楽しそうに笑う中、グリアムは目を見開いて唇を
「……“
(……あ。何か今、壮大な勘違いが生まれたような気配がした)
セルバの言葉を違う意味に捉えてしまったグリアムの考えをルシアは逸早く察したが、既に脳内を“小芋”に占拠されたグリアムはすぐさまソファから立ち上がる。
「つ、つまり、“
「はい! そうです! “恋も”食べ尽くしましょう!」
「そっか、分かった! ちょっと買ってくる!!」
「はい! ……、ん……? 買っ……?」
当然のように宣言し、グリアムは背を向けた。セルバは怪訝な表情を浮かべたが、グリアムはそのまま玄関のドアノブに手を掛けて扉を開く。
すると、丁度買い物から帰って来たらしいウルと玄関先で鉢合わせた。彼女は瞳を瞬き、「あら」と飛び出して来たグリアムを見上げる。
「あなた、今からお出掛けですか? 雨ですよ?」
「……っ、う、ウル……!」
グリアムは一瞬息を呑み、目が合ったウルにドキリと胸を高鳴らせた。しかし彼はすぐに我に返って表情を引き締め、きょとんとする彼女に向かって口を開く。
「……ウル! 安心しろ!」
「え?」
「俺は小芋を皿まで食う!! 心配するな!!」
「は?」
「ちょっと行ってくる!」
不可解な言葉を残し、グリアムは外へと飛び出して行く。小雨の降る中を駆け抜けて行った彼の背中をぽかんと見送り──程なくして、ウルは振り返った。
「……何なんです? アレ」
「少し頭がおかしいだけだ、気にするな」
呆れたような表情で、ルシアは淡々と告げる。「ウルティナさんおかえりー!」「おかーりー」と出迎えたセルバとロザリーに微笑みつつ、先程グリアムが飛び出して行った方角をちらりと一瞥し、ウルは首を傾げたのであった。
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