第4章 子作りは突然に

第18話 赤薔薇の夢

 ──オルバエスト大陸西部、レイノワール帝国城内。


 たん、たん、とリズミカルにスキップをしながら歩く男は、黒い外套がいとう目深まぶかに被り、楽しげにステップを刻んでいる。無邪気に廊下を歩くその姿は、さながら子供のようなあどけなさだ。



「アンデルム様」



 ふと、そんな彼を抑揚のない女の声が呼び止める。アンデルムと呼ばれた彼は振り向き、ぱあっと表情をほころばせた。



「レイラ、久しぶり~! 元気にしてた?」


「ええ、体調は問題ございません」


「いやー、体調とかじゃなくてさ、気分的な問題っていうか~」


「さあ。それは分かりかねます。私には感情などありませんので」



 アンデルムと同じく外套を目深に被り、淡々と答える彼女──レイラに、「つれないなあ~」と彼は笑う。ふと、アンデルムは彼女の足元でうずくまる小さな“獣”の存在に気が付いた。



「……あれ! それってもしかして、例の新しい魔獣ヴォルケラ? この前実験に成功したっていう、試作品の」


「ええ、そうです」



 抑揚のない声で告げるレイラの足元で蹲るそれは、うー、ううー、とうなり声を発している。首輪は鎖で繋がれ、牙を剥き出した口元はかせで塞がれていた。


 アンデルムは野生の獣さながらのその様子を鼻で笑い、楽しげに頬を緩める。



「あーあ、これじゃまるで動物だ。自我も無くなっちゃったんだね」


「いえ、まだ自我は残っていますよ。本来の人格に戻す事も出来ます。一時的にですが」


「ふーん? なるほど~……」



 アンデルムは相槌を打ち、唸る獣を見下ろした。やがてその口元が不敵な笑みを描き、「あ、いい事思いついた」と彼は顔を上げる。



「ねえねえレイラ。この子さー、少し僕に貸してくれない?」


「ええ、もちろん構いませんよ。私はアンデルム様の命令には逆らえませんので」


「あはは、そうだよねー。知ってた」



 アンデルムはへらりと破顔し、レイラの手から獣を繋ぐ鎖を受け取った。うー、うー、と低く唸って威嚇するそれを見下ろし、彼の口角が吊り上がる。



「さあ、初仕事だよ、小さな魔獣ヴォルケラちゃん」



 ──死神を、殺しておいで。


 そう耳元に囁けば、自我を無くした獣のあかい瞳が、ぎらりと輝いた。




 * * *




 ──夢を見た。とても懐かしい夢だ。


 白薔薇の教団ロサ・ブランカの裏庭で、聴き慣れた小さな歌声が聴こえる。


 ボロボロのバケツの中に植えられた真っ赤な薔薇の前にしゃがみ込み、ジョウロで水をやりながら歌う、亜麻色の髪の少女。口ずさまれた歌の微かな旋律を耳で拾い上げ、幼いグリアムは口を開いた。



「……また、水をやってるのか」


「!」



 声を掛ければ、それまで奏でられていた歌声がぴたりと止まる。振り返った彼女──ウルは、グリアムと目が合うと恥ずかしそうに頬を染めて小さく頷いた。


 グリアムはゆっくりと彼女に近付き、その隣にしゃがみ込む。ジョウロを握る細い手や赤く染まる頬には、擦り傷や痛々しいあざがいくつも浮かんでいた。おそらく鍛錬の際に傷付いてしまったのだろう。彼女は同世代の中でも落ちこぼれなのだと、どこかで小耳に挟んだ事があった。


 そんな彼女の目の前には、ボロボロのバケツに植えられた、真っ赤な薔薇の閉じ切ったつぼみ。赤い顔で俯くそれが、今の彼女とよく似ている。



「……お前、最近いつもここでその薔薇に水をやってるよな。どうして薔薇なんか育ててる? そんなの、庭師がいくらでも表に植えて育ててるだろ」


「……」



 ウルは顔を逸らし、口を閉じたまま赤い薔薇の蕾を見つめる。やがて、その声はおずおずと発せられた。



「……捨てる、って……庭師さんが言ったの」


「……?」


「この薔薇……間違えて紛れ込んだだったから、捨てるって……。“白薔薇の教団ロサ・ブランカ”の庭に赤い薔薇は要らないから、って……言ってたの」



 ウルは悲しげに目を伏せ、小さな薔薇の蕾を指先で撫でる。閉じ切った花弁に付着していた水滴が、涙のように滑り落ちて行った。



「みんなと色が違うってだけで捨てられちゃうなんて、可哀想でしょ……? だから、私が貰ったの」


「……」


「誰かと少し違うからって、仲間はずれにするのはダメだと思うもの……。この子は私が守ってあげなきゃって……そう思って……」



 ウルは薔薇を撫でながら、小さな声で言葉を続ける。グリアムはそんな彼女を暫し見つめ、やがて再び問いかけた。



「……それ、咲いたらどうする?」


「……え? どうするって……」


「誰かに贈るのか?」


「ええ……? そ、それは何も考えてないけど……でも……」



 ウルは一瞬顔を上げたが、目が合うとやはり頬を染めて俯く。ややあって、「……グリアムくんになら……」と消え去りそうな声で呟いた。


 恥ずかしそうに目を逸らしている彼女に、グリアムはきょとんと瞳を瞬く。



「……俺に?」


「……い、嫌なら、別に……」


「ううん、嫌じゃない。ありがとう、ウル。それ、貰ったら大事にする」



 そう伝えれば、彼女の顔がぱっと持ち上がった。少しの間を置いて、その表情が嬉しそうに破顔する。へにゃりと満面の笑みを浮かべた彼女は、細めた碧眼にグリアムを映しながら口を開いた。



「……うん。私、この子を頑張って咲かせるから……貰ってあげてね、グリアムくん」


「分かった」



 ──約束する。



 そう告げて、彼女の嬉しそうな微笑みを見たのは、一体いつの事だっただろう。もう随分と昔の事だ。きっとウルは、もう覚えていない。


 あの日、「咲いたら貰う」と約束した、仲間はずれの赤い薔薇。


 あの花が、その後どうなったのか──その結末を、彼はずっと知らないまま。




 * * *




 ──トントントン。



「……ん……」



 暖かい毛布の中、不意にグリアムはくぐもった声を漏らしてゆっくりと瞳を開眼した。耳に届くのは、テンポよく刻まれる軽快な音。それから、口ずさまれる鼻歌。


 暫し夢現ゆめうつつをふわふわと彷徨さまよっていた彼だったが、空気中に漂う美味しそうな香りに導かれてふと、その意識が覚醒する。まな板の上で何かを切る音が、トントントン、と心地よく耳に届いていた。


 この音を聞きながら目覚める事にも、近頃はようやく慣れてきたような気がする。グリアムは重たい上体を持ち上げ、寝ぼけ眼をしばたたきながら立ち上がった。


 すると、キッチンに立っていた彼女がその気配を察して振り返る。



「おはようございます、師団長」



 にこ、と細められる瞳。ぐつぐつと鍋の中で煮込まれる美味しそうな香り。グリアムは未だに寝惚けている頭で彼女の言葉をぼんやりと理解し、「おはよう……」と眠たげに答えた。



「……ウル、もう帰ってたんだな……」


「あら、帰ってちゃダメでした?」


「いや……昨日の夜に一度本部に戻るって話だったから、てっきり一泊してくるのかと思って……」


「ああ、それなら面倒だったのでさっさと済ませて帰って来ました。皆さんお元気そうでしたよ、オズモンド司令官も相変わらず頭壊れてましたし」


「……そ、そうか」



 コイツ、俺が居ないからって好き勝手に暴言とか吐いてないだろうな……、とグリアムは焦ったが、もはや言い聞かせたところで彼女に聞く耳がないのは分かりきっている。はあ、と彼は嘆息し、後頭部を掻いた。



「……俺の事は何も言われなかったか?」


「ええ、もちろん。貴方の居場所はバレていませんよ、誰にも」



 ウルは鍋に視線を向けたまま答える。グリアムはホッと胸を撫で下ろした。


 普段はのほほんとしているオズモンドだが、ああ見えて勘は鋭い。ひとまず彼にバレていないのであれば問題ないか、と安堵したところで、スープとサンドイッチが並べられたトレイを持ってウルが駆け寄って来た。



「はい、あなた♡ 朝ご飯ですよ~」


「……ん」



 コトン、と卓上にトレイが置かれる。この新婚さながらの朝のやり取りにも、随分慣れて来た。


 何週間かウルと共に過ごしてみて分かったが、相変わらず彼女の料理は美味しいし、掃除や洗濯も楽しそうにこなす。この奔放な性格さえどうにかすれば、彼女は将来良い母親になるんじゃないだろうか。



(……母、か)



 グリアムはふと視線を落とし、虚空を見つめた。


 彼は、母親の顔を知らない。

 自分がどこで生まれ、幼少期をどう過ごしたのかすらも分からない。


 物心ついた頃には既に白薔薇の教団ロサ・ブランカの中にいて、将来は偉大な魔導師となるべく、日替わりでやって来る教団の教育係によって育てられた。


 恋も、友情も、家族の顔すらも──知らぬまま。



(……家族って、どんな感じなんだろうな)



 そうぼんやりと考え、キッチンに立つウルを一瞥する。


 彼女は一体、何を考えて自分と一緒にいるのだろうか。ただ単純に自分も家出がしたいだけならば、わざわざ“夫婦”などという面倒な設定は要らなかったはずなのに。



(……あいつ、何考えてるか分からないんだよな、最近)



 ……昔は可愛げがあったのに。


 そう思い至った頃、不意にグリアムは今朝見た夢を思い出した。幼い頃のウルが、赤い薔薇を育てていた夢。結局どうなったのか分からない、あの薔薇の夢。



「……なあ、ウル」


「はい?」



 呼びかければ、自らの分の朝食をトレイに並べたウルが振り返る。やがて開口しかけたグリアムだったが──言いかけた言葉は、彼が声にする前に喉の奥へと飲み込んでしまった。



「……、やっぱなんでもない」


「……はあ? 何ですかそれ。変な人ですねえ」


「……」



 グリアムは口を閉ざし、目を逸らす。


 ──あの時、お前が育ててた薔薇、どうなった?


 ……なんて、そんな事を聞いたところで、どうせ彼女はもう覚えていないんだろう。


 わざわざ説明したとしても、『えっ……、そんな昔の約束なんか真に受けて、未だに覚えてるんですか? きっもち悪~』とか言われるのは目に見えている。


 グリアムが黙って考え込んでいると、ウルは朝食のトレイをテーブルに置いて椅子に腰掛けた。



「師団長、そんな事より朝ご飯ですよ。難しい顔でエロい事考える前に、さっさと顔でも洗って来て下さい」


「あ、ああ……、ってかエロい事なんか考えてねーよ!」


「あら、すみません。童貞の考える事なんて四六時中エロい事かと思ってました」


「この……!」



 相変わらずの可愛げのなさに苛立ちつつ、グリアムはふん! と彼女から顔を逸らす。


 そのまま洗面所へと向かいながら、「やっぱダメだダメだ! あんな奴、良い母親になんかなるもんか!」と彼は脳内だけで文句を垂れ流し、やがて洗面所の扉の奥へと消えて行った。




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