第9話 vs 朝ご飯

 ウルと共にベッドに横になったグリアムは、背中に密着したまま眠っている彼女のせいで未知の緊張感にさいなまれ、延々と眠れぬ夜を過ごしていた──のだが。


 結局、悶々としているうちにいつの間にか、とっぷりと深い眠りの中に落ちてしまっていたのであった。


 次に彼の意識が覚醒したのは、窓の向こうから明るい陽射しが入り込んだ頃。チチチ、とさえずる小鳥の歌声が耳に届き、彼は重たい瞼を持ち上げる。



「……、?」



 ふわり。どこからともなく漂う美味しそうな香り。未だにぼやけている目をしばたたき、グリアムは起き上がった。


 とん、とん、とん。


 まな板の上で、包丁が一定のリズムを刻んでいる。その音に導かれるように立ち上がってキッチンへと足を運べば、私服姿のウルが鼻歌を口ずさみながら手際よく野菜を切っていた。



「ふーん、ふん、ふん……」



 昨日さくじつロバートから貰ったまま放置していたキャロラッツが、まな板の上で次々と細切りにされて行く。ぐつぐつと煮込まれた鍋の中では細切れのオニオムとポテ芋が踊り、その隣のフライパンの上では卵が二つ焼かれていた。

 ウルはちぎったフリル菜の入ったボウルの中に刻み終えたキャロラッツを散らし、軽く混ぜて皿に盛り付ける。やがて卵も焼きあがったのかコンロの火を止め──そこで、ようやく彼女は振り返った。



「あら、おはようございます、師団長。よく眠れましたか?」


「……」



 やんわりと目尻を細め、ウルが問い掛ける。グリアムは一瞬言葉を無くしていたが、ややあって我に返った。



「……ウル……お前、料理出来たのか……?」


「えー? やだぁ、それぐらい出来ますよ〜」


「……お、お前……芋、洗えるのか……!?」


「は? 喧嘩売ってます?」



 にこ、と微笑んで包丁を掲げたウルにグリアムはたじろぎ、「い、いや! 違う、バカにしてるわけじゃない!」と慌ただしく弁明する。彼女はやはり笑顔で「やだ〜、冗談ですう」と続けたが、グリアムの頬は引き攣るばかりだった。



「朝ご飯、もう少しでできますからね〜。師団長は先にその寝惚けたアホ面を洗って来ちゃって下さい」


「……え……? あ、ああ……」


「このお家、結構調味料が潤沢してて助かりました〜。あ、そういえば棚の中からコーヒーミルも見つけたんですよ〜。豆は無いみたいなんですけど……師団長、確かコーヒーお好きでしたよね? ハーブや調味料ももう少し充実させたい事ですし、お昼になったら一緒にお買い物に行きましょうか」


「……」



 てきぱきと料理にいそしみつつ語る彼女の後ろ姿を眺めながら、グリアムは胸の奥に得体の知れないむず痒さを覚えた。

 いささかこそばゆいというか、照れ臭いというか。「もう少しで朝ご飯できる」とか、「お昼に一緒にお買い物行こう」とか。


 いや、だって。

 なんか、これって、まるで──



「──新婚さんみたーい! ……とか、思ってます?」


「……、は……」


「ふふ、図星でしょ。やっぱり恋愛経験ないとイタい妄想し始めるんですね〜、気持ち悪〜」


「ば、馬鹿言うな……! 誰がお前みたいな可愛げのない女と……結婚する、妄想、なんか……」



 語気を強めて反論するグリアムだったが、その声は徐々に尻すぼみになって行く。最後には頬を赤く染めて言葉を詰まらせてしまい、やがて彼は「と、とにかく!! 俺はお前みたいな奴と結婚なんか絶対しないからな!!」と吐き捨て、早足で洗面所へと歩き去って行ってしまった。


 そんな彼を見送りながら、ウルはくすくすと楽しげに笑う。



「……ほんと、いつまで経っても素直な人」



 少し羨ましいですね、と小さく呟きつつ、ウルは再び、まな板の上のキャロラッツに包丁の刃を通した。




 * * *




(……どうしたんだ俺、正気か……!?)



 ばしゃあ! と顔面に冷たい水を被り、グリアムは嘆息する。顎を伝って首筋へと滴り落ちる水滴を拭い、彼は鏡に映る己の姿を睨んだ。



(いやいやいや、冷静になれ! あいつを誰だと思ってるんだ? ウルだぞ! 腹の中は真っ黒で口は悪いし態度も悪い毒サソリだぞ!? 何であんな女に『あ、なんか新妻っぽい……』ってちょっと揺らいでるんだ俺は!! アイツのいい所なんて顔が割と整ってんのと、昨日背中に当たってた胸が思ったよりデカ……、いやいやいやいや違う違う違う!!)



 脳内だけでやかましく騒ぎ立て、再びグリアムは顔面に水を被る。勢い余って鼻から水を吸い込み、「ゴホォッ!!」と派手にせ返ったのち、ようやく彼は蛇口を捻って水を止めた。


 顔を上げれば酷く疲弊した鏡の中の自分と目が合い、グリアムは苦い表情を浮かべて視線を逸らす。こんな情けないツラなど見ていられない。



(……とにかく、アイツと仮夫婦なんて無理だ。色んな意味で俺の身が持たない……! どうにかして、あのヘドロ女をこの家から追い出さないと……!)



 グリアムはそう自身に言い聞かせ、濡れた顔を拭くと重い足取りで洗面所を出た。すると彼の足音に気が付いたウルがにこやかに駆け寄ってくる。



「師団長〜、朝ご飯ですよ〜」


「……!」



 朝食の仕度を済ませたらしい彼女は、突如グリアムの腕にするりと絡み付いた。豊満な胸が腕に押し当てられ、途端に彼の思考の動きが鈍る。



「……ばっ、お前……!!」


「ほらほら、早くこっちに来てください。冷めちゃうでしょ〜」


「う、ウル、やめろ! 引っ付くなって……!」


「えー? いいじゃないですかぁ、なんだし~」



 ねえ? と不敵に口角を上げるウルに、グリアムは眉を顰めた。──こいつ、完全にこちらの反応を楽しんでいる。そう考え至った彼は拳を握り込み、動揺などするものかと己に言い聞かせながら彼女の腕を振り払った。



「な、何が夫婦だ……! 例え“仮”だとしても、俺はお前みたいなヤツとは結婚なんて死んでもごめ──」


「もう、いちいちうるさいですねえ。さっさと座って下さい」


「いって!!」



 グリアムの声を遮り、呆れ顔のウルが彼の膝裏をゴスッ! と蹴り飛ばす。体勢を崩したグリアムはそのまま彼女に捕まえられ、強引に椅子の上へと座らされてしまった。



「……っ、おい、ウル……!」


「いいからいいから。先にご飯にしましょ〜。はい、頂きまーす」


「お前、話を逸らすなよ! 俺はとにかく、お前と結婚なんて絶対認めな──」



 と、そこまで口にしたその時。

 彼の視界に飛び込んだのは、卓上に並べられた彼女の手料理の品々だった。


 オニオムとポテ芋のポタージュスープに、コケイちょうの卵で作られた目玉焼き。フリル菜と千切りにされたキャロラッツが混ざったサラダには、ルーベリーの実で作ったと思わしきドレッシングが掛けられている。


 昨日も結局のところリザのマフィンしか口に出来ていないグリアムはつい言葉を詰まらせ、溢れ出した唾液をごくんと嚥下えんげした。やがて腹の虫まで情けなく鳴き始め、黙りこくってしまった彼の向かい側に腰掛けたウルが穏やかに微笑む。



「さ、どうぞ、師団長。おかわり、たくさんありますからね? 遠慮なさらず召し上がってください」


「……」


「心配しなくても、毒なんて入っていませんよ〜。ほら、美味しい〜」



 フォークでフリル菜を突き刺し、ウルはこれ見よがしにルーベリーのドレッシングを絡めたそれを口に運ぶ。ぐう、と腹が鳴り、グリアムは生唾を飲んだ。



「私、お料理好きなんですよ〜。お掃除とかお洗濯も好きですし〜。私をお嫁さんにしてくれた旦那様には、一日三食、ずーっと美味しい物を食べさせてあげるのにな〜」


「……」


「少なくとも、芋を真っ黒に焦がしてすみに変えたり? 粉々に粉砕して跡形もなく無駄にしたり? そーんな勿体ないことはしないんですけどね〜」



 うふふふ、とウルは微笑み、ポテ芋のポタージュを掻き混ぜる。グリアムはひくりと頬を引き攣らせ、彼女を見つめた。


 ──こいつ、分かっている。俺が芋を焦がした事を。


 グリアムは視線を泳がせつつ、いやいや! 待て! 惑わされるな! と目の前のウルの誘惑を払い除けようと奮闘するが──眼下に並ぶ美味しそうな食事の香りが、グリアムの心をぐらぐらと揺さぶる。


 ウルは楽しげに目を細め、グリアムのスプーンで彼の分のポタージュを掬うと、その口元へとそれを近付けた。



「はい、あなた。召し上がれ♡」


「…………っ」


「ほら、あーん」



 迫るポタージュ。空腹を訴える腹の虫。


 ──いや! 俺は! 絶対にこんな朝ご飯の誘惑になんか負けない!!


 そう心の中で絶叫するが──彼の意思に反して、ポタージュに迫られた口は呆気なく開いてしまった。木のスプーンが優しく口内に入り込み、舌の上にポタージュの甘みがじわりと広がって。


 刹那、グリアムの脳に衝撃が走る。



(……うっま……!?)



 体に雷が落ちたかのような衝撃的な旨さに、グリアムは目を見開いた。

 ここ数日間、ろくに食事を摂っていなかったせいだろうか。やたら旨い。体が歓喜しているのが嫌でも分かってしまう。


 驚愕に目を見張ったまま硬直していると、不意に、先程ウルが発した言葉が脳裏に蘇った。



 ──私をお嫁さんにしてくれた旦那様には、一日三食、ずーっと美味しい物を食べさせてあげるのにな〜。



「……」


「……ところで、師団長」



 コトン、とグリアムのスプーンを置き、ウルは微笑む。つい顔を上げてしまった彼に向かい、彼女は頬杖をついて首を傾げた。



「私と結婚が……、何でしたっけ?」



 不敵な笑みと共に問われ、グリアムは唇を戦慄わななかせる。震える拳を握り込み、悔しげに奥歯をきしませ、食事の誘惑から目を逸らした。


 ──だ、騙されるな! 料理が上手いからって何だ! 俺は絶対、こんな女と結婚なんか……、結婚なんか……!!


 そう必死に言い聞かせ、彼は口を開く。

 しかし、その唇の上に乗せられたのは全く別の言葉だった。



「……俺と、結婚してくれ、ウル……」


「はーい、喜んで〜♡」



 ──いや何でだあああ!!!



 こうして、朝ご飯の誘惑に敗北した世界最強の魔導師は、ウルと正式に仮初かりそめの夫婦となり、気苦労の多い彼の新たな家出生活スローライフが幕を開けてしまったのである。




〈第2章……完〉

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