チューベローズに捧ぐ

詩舞澤 沙衣

チューベローズに捧ぐ


 名前も知らないその人に、ひと目で惹かれてしまった。それは、塾帰りの公園。人気が多くないそこで、あたしより一回りは年上の女の人がそこにいた。何故、そこにいるのか、なんて分からないのだけれど、ここで話しかけなければ、もう二度と会えない気がしてならなかった。

「あの」

 リュックを背負う私は、なんとその人に比べて幼いだろう。 それでも、お姉さんは、私の小さな声を聴きとってくれたらしく。

「どうしたんだい」

 と訊き返してくれた。

「なんとなく、お姉さんのことが気になって」

 それだけ勢いで言ってしまうと、だんだん恥ずかしくなってきて、もじもじしてしまうあたし。

「こんな夜に未成年が出歩いている場合じゃないぞ、君」

 なんだか茶化して言うその男性的な物言いが、かえってお姉さんの魅力をグッと引き出していると思う。つまり、あたしの好みのひとってことだ。

あたしが生まれてこの方好きになってきたものなどなくって、女性アイドルのことを「好きです」と言ってみても、それは「そうなりたい」という憧れだと認識されるのが関の山で、それが「結婚したい」みたいな関係だとはきっと思われないだろう、という哀しさを背負って生きてきた。

「あたしには名前があるんです。●●●って言うんです。かわいいでしょう?」

「そうだねえ。かわいいかもしれないな」

「お姉さんの名前は?」

「さあね、分からないくらいがいいんじゃない?」

 幼さと大人らしいところを併せ持つ悪戯っぽい眼に、あたしはすっかり魅せられていた。そのクセ、プロポーションもばっちりで、最高に私が好きなひと像そのままだった。

「もう少し、隣にいさせてください」

「君は、やっぱり悪い子なんだね。こんな私の傍にいたい、なんてさ」

 どうしてそんなひどいことを言われるのか、あたしにはまるで分らなかった。見上げて会話しなければいけない大人といるほうが、安全だって先生たちは言うんだから、このことがおかしいことだとは、少しも思わなかったんだ。

「お姉さんの話、聞かせてください」

 これでも勇気を振り絞ったつもりだけれど、お姉さんに一蹴されてしまった。それでもそんなお姉さんを見て、はたと気づいた。

彼女は、濡れた睫毛がゆっくりと下を向いていた。

「君はきっと知らないだろうね」

 お姉さんは、あたしに話しかける気になったのか、ため息交じりのひとりごとなのかの判断がうまくつかなかった。

「君みたいなかわいい子供、いつだって狙われてしまうということだよ」

「例えば、それはお姉さんみたいな存在だとしたら、嬉しいなあ」

 あたしは率直に意見を述べたけれど、お姉さんは眉をひそめていた。

「私みたいなのに従っていたって、なにもいいことなんてないよ」

「何言っているんですか、あたしはなにもしなくても、なにもいいことなどないことくらいは知っています」

「ほう。厭世趣味なんてその年で獲得するものじゃあないだろう?」

「でも、お姉さんとキスをしたら、少し変わるかも。なんて」

するとお姉さんは気の抜けたような顔をした。そして、腹を抱えて盛大に笑いだしたのだ。

「な、なんで笑うんですか!」

 その様子にあたしは呆れてしまって、ふらふらとしていた足を引きづって、どうにかベンチに座り込む。

「笑っちゃうよ、でもさ、ありがとう」

「そうですか?」

「まだ強姦行為に及ぶ方が、自殺に向かうよりは生に向いている生き方だもの」

「痴漢とか性的暴行者は軒並み社会的尊厳を失っているように思うけど」

「それでも、自殺の方が重いときもあるさ」

「わかりません」

「死んでしまったら、償いができるわけじゃない。私は君みたいな落ちこぼれを見ると、なんだか助けたくなっちゃうんだよ」

 ひしゃくかなにかで、ものを掬い上げるジェスチャーをされた瞬間、プチっとあたしがキレた。

「あたし落ちこぼれじゃないです。学校の成績はいつも優秀だから、バカじゃありません」

 すると、お姉さんはとっても大きなため息をついた。

「あああ」

「なんですか、こっちがため息つきたいくらいですよ」

「君みたいな魂の積み残しは、良くないんだよ」

 あたしにはまるでわからない話を始めるお姉さんのことが、今更になって怖くなった。だって、あたしは学校でも塾でもエリートで、何も欠けているものなんてない。それなのに、落ちこぼれだなんてことを言うこの人が、不透明でわからないのだ。

「君、最後に忠告しておこう。私に会いたくなければ、この公園に近づかないほうがいい」

 あたしには、また会えますようにと願うほかないのだ。


「こんなところで、どうしたの」

 あたしは今日も塾帰りの途中、公園のベンチでぼんやりしているのが、例のお姉さんなのだ。

「まるで初めて会ったみたいなそぶりをしないでください。お説教みたいなちんぷんかんぷんなことを言っていたのは、お姉さんの方でしょう」

 そういえば、自殺するより暴力事件を起こす方がマシ、という話をしたのは、あたしがもう十分に死にたがっていただけのことだったのだ。

「なんで、死神なのに素直に死なせてくれないの」

「あ、バレちゃったのなら仕方ないな」

 あたしに死神のお姉さんの気持ちは分からない。でも、分かっているのは、あたしのことをお姉さんは助けようとしているのだ、ということばかりだ。きっと、死神と接吻してしまえば、その者は絶命する。そうだとしたら、無邪気を装ったキスへの誘いも拒絶するだろう。

「早く、あたしとキスをして」

ああ、あたしは、やっと言えた。


「もう会えない」

お姉さんは開口一番にそう言った。

「君は落ちこぼれだ。これから、中途半端に知識を持っては完全な悪人に成り下がってしまうし、そうでなければ、生きる意志に欠けているから、私を道具にして自死をまず考えるだろう。どちらにしてもよくはない人生であることだけ、間違いないんだ。

「いやだ」

「私の見目は何故かそういう少女を惹きつけるきらいがある。それを私はただ受け入れることしかできないんだ。ただ一人も、私の傍に居続けられる少女はいなかった。

「それならば、あたしがなってしまえばいい」

 お姉さんに孤独をどこかで感じたからこそ、あたしはお姉さんに惹かれたのだ。見目麗しいのは、勿論そうなのだけれど、それだけじゃないはずだ。そう思って私は言葉を紡ぐことを努力する。

「君はすべてを棄てて、亡霊となる覚悟がある?」

「ある」

「君は他人の死に恐怖しない?」

「はい」

「最後に、私のことを好きでい続けてくれるか?」

「もちろん」

 あたしの台詞を聴いて、お姉さんは黙って頷いた。その瞳があんまり優しくて泣いてしまった。

 冷たい風が頬を刺す。

 あたしとお姉さんが出会ってから、もう半年の時が過ぎていたらしい。あたしもお姉さんの身体と変わらなくなってしまって、もう知り合いの誰にも声を掛けられなくなった。この選択は、本当に正しかったのか、と言われると、違っていたのかもしれない。それでも、この公園の片隅で、自殺を見守るような作業のくり返しには、すこし飽きてきた。

「お姉さんの名前は、なんなの」

「月下香(“げっかかおり”)。あまり好いていないんだけどね」

「チュベローズって花の別名も、そんな名前だったきがします。」

「そうなんだ、花言葉は訊いたことあるかな?」

「危険な快楽、という意味だそうです」

 ふっと溜息をつく月下さんは、話をつづけた。

「自殺って危険な快楽ってことなのかもしれないなあ」

「そうですよ、あたしみたいな落ちこぼれにこそぴったりで、月下さんらしくはない気がしますけど」

 するとケラケラと笑いだすのは月下さんだ。

「私も十分落ちこぼれだよ。君にキスをされてしまうと、それだけでくらっときちゃうし。ちょっと脱がせてみれば、まだ未発達のつぼみの様な器官を見ているだけで昂奮してしまう」「それくらいしか、月下さんには楽しむものがなかったんだから、仕方ないんじゃないですか?」

 あたしもとりなしたつもりだけれど、いや、でも月下さんの下ネタはちょっと斜め上な気がして仕方がないんですけれど!

「君のも見せてくれよ。死体と違って、死神の君ならば触れても朽ちることがない。その永遠性が美しい」

「やっぱりヤバい人じゃないですか」

 チューベローズの匂いにおかしくなっている死神ふたりは、昼も夜も問わずいかがわしい行為に手を出すことになりはじめた。

「そうやって淫乱なことをするのはどうかと思います!」

「でも君の下半身は間違いなく濡れているだろう」

「そりゃあ月下さんは豊満でケチのつけようのない身体ですけど、あたしはどうしようもなく貧相ですし!」

「いつでも隣にいてくれるんだろう?」

「くっ、否定はしません」


 あたしは、本当に渋々、身体を月下さんに見せるようになった。

「生足、生身として一番美しい状態で保たれていることを喜ぶべきだね」

「さ。触り方が気持ち悪いです」

 上半身をはぎ取って、胸元を品定めしているときもあった。

「やーめーて!」

「なんで、相棒の管理は大事だろ」

 そう言いながら、ちろりと乳首を口に含ませる月下さん。

「ひゃ、へっ、あっやめて」

「つつましいねえ」

 そう言いながら、べたべたと触ってくると、あたしは生きているような死んでいるような感覚に陥る。

 あたしはたくさんの死を見てきた。お姉さんは、もっと見てきたはずだ。繁殖することもない、死神の番(”つがい”)のあたしたちは、そうやって乳繰り合ってばかりだ。死神としての責務、みたいなものもないでもなかったけれど、あたしと月下さんにはほとんど仕事が回ってこない。神様もあきれ果てているのだろう。

「あたしは、もう少し待てばよかったのかなって思うときがあります」

「なんだい、急に」

「名前も知らない相手といきずりの関係を結んでしまったのを後悔しているような気がします」

「誓いを立てたのは君じゃないか」

「……まあ、そうですけど」

「死神も本を読むことができるのは幸いなことでした。過度な性的行為も、自傷行為にあたるんですね」

「人によるんじゃない?」

 人でなしの月下さんはケラケラと笑った。

「月下さんだって好きな人を追いかけて死神になったクチでしょう」

「聡いなあ、君は」

 ふむふむ感心、だなんて言ってしまう月下さん。

「月下さんは、死神になれば死んだその少女と出会えると思っていた」

「ちょっと待って、なんで私の性癖を知っているんだい」

 今更じゃないですか、とあたしは前置きして。

「でも無理だったんですよね、死者を送りだすことしかできない死神には、もうとうの昔に死んだ人間に会うことはできない」

「そんな仕組み知らなかったからね」

「でしょうね。でも、良かったですね。あたしがいるから、貴方は一人じゃない」

「ふふ、自己肯定感が上がったのはいいことだよ」

 世界を達観するには、少女というのはあまりに早いのかもしれないのだ。こんな人間と永遠を過ごしていくとは思わなかったけれど。

「君は、どうして死神の私に懸想だなんて」

「貴方と似たような理由です。世界に失望しないために、世界を見たくなったのかも」

「全然違うじゃないか」

「同じですよ」

「わからないなあ」

「互いに分かり合っていたら、ナルキッソスみたいじゃないですか。自己愛的」

 顔も見ずにそんな話をしているのも、と思ったので月下さんの顔を見てみたら、ちょっと泣いていた。それだけでなんだかおかしくなっちゃった気分だった。

「片思いは、もうこりごりなんだよね」

「人間なんて、みんな片思いで出来ているんですよ。死神が片思いじゃないわけないです」

我ながら、かわいくないな、と思う。月下さんも私も互いの見目に惹かれたはずなのに。

「辛気臭い話して楽しい?」

「楽しいです、あたしは一緒にいてくれる人がいて幸せだから」

「そうかねえ」

「月下さんは違うんですか?」

「どうだろう、ずっと一人でやってきたから、いまだにびっくりしているよ」

 あたしは月下さんの頬にキスをする。月下さんも、同じように返してくれる。死神でなかったら、似合いの姉妹のように見えるかもしれない。

 あたしたちは、死にゆく人の寿命を吸って生きている死神だ。神様から命がくだらなければ、命を吸い取ることもできない。だから、あたしたちの存在はもうすぐ終わるのだろう。


 けれども、そうして何事も無かったかのように振舞った。


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