紫の煙
先輩はよくわからない人だ。
今も、隔壁を眺めながら紫煙を薫らせている。その向こうがまるで見えているかのように、灰色の積層合金板の方を向いたままに。立ち上がれば高い背筋を丸め、尻餅をついたかのような姿勢で壁際に座り込んでいる。
貴重な時間と空気というリソースを、無為に消費している。
先輩は、よくわからない人だ。
「よっ」
こちらに気付いた彼は片手を挙げ、煙草をくわえたまま声を上げる。
「先輩」
「お小言は無しで頼むよ」
そしてまた隔壁に向かって、視線を放り投げる。どこを見ているのだろうか。釣られて、同じものを見ようと試みる。
「清浄な空気は人類共通の貴重なリソースですよ」
「知ってる」
煙。薫り。不思議な、この人の匂い。ふわり、と閉じた世界の中に霧散する。
二人は同じ空間にいる筈で、同じ匂いを嗅いでいる。その筈なのだけれど。
「けどさ、世界再生機構だっけ? あれがなんとかしてくれるんじゃないの」
「よく知ってますね」
「そりゃまぁ。結局、花が生えてくるあの病気だって同じ原理だったって証明されたんだし」
「だからって、今ある資源を浪費していい理由にはならないでしょう」
「無為じゃない人生ってなんだろうねぇ」
いきなりこれだ。
「そりゃ、次の世代、次の次の世代、これからも連綿と続く人類のために……」
「ために?」
言葉を繋ごうとしても、喉に引っかかる。
「その、」
「言いたいことはさ、大体解るよ。けどさぁ。今はもう、資源分配も社会統治も全部【理解】がやってるじゃない」
隔壁を見つめる。
先輩は、何を見ているのだろう。
煙がゆるりと、二人を遮る。
「もう人間、要らないでしょ」
「……クルオリン化による【理解】との接続があるじゃないですか」
あぁ、と声。呻き声。嘆き声。手に持った有毒物質の塊から灰がふわりと落ちる。熱を失って、風に乗って、雪のように。
「前の患者さんに言われちゃったんだよね。クルオリン化したらもうそれは僕じゃなくて、クルオリン化した僕だって」
「……死ぬ直前の思考も記憶も技術も、全部を受け継ぐわけですから、連続性はあるんじゃないでしょうか。被験者の話聞いても、特にそのあたり問題は無さそうでしたよ」
「それさ、もうホモサピエンスじゃ無くて、【エリスロクルオリン】だよね」
あぁ、それはきっと。
「定義の違い、ですよ」
その通りで。
「だからこの話はこれでおしまい。俺は煙草をやめない。だから精神疾患認定を受けてこのまま死ぬ。君はそのうちクルオリン化して生き延びる。それだけ」
もうまっとうな人間が生き延びられる環境ではない、外の世界を見詰めることはできなくて。
だから、壁の前に座っているのかもしれない。
「そろそろ行きます」
「行ってらっしゃい」
「……また、来ます」
「やる事ないもんね」
「……はい」
【理解】の統治は完璧で、近いうちに世界再生機構の試運転が始まる。だから、人間できることはもう何もない。ただ生きていく、それだけが許されている。だから、先輩のようなリソースの過剰浪費者は爪弾きにされる。そうでない『まともな』精神の持ち主はクルオリン化によって次の世界を生きる。それは、【理解】が、完璧な機械がそう決めたからだ。
「ねぇ」
部屋を出ていこうとした背中に、先輩の声が届く。
「吸ってく?」
真新しい、しかしくたびれた煙草が一本。先輩の節くれだった長い指に挟まれていた。
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