第3話 生暖かな肉塊を
「おーい、そこのオニーサン。誰の許可を得て、一人で監獄の外を歩いているんだ?」
何者かの声が、聞こえた。若々しくて、少し高めの声だった。その声はゆっくりと、近づいてくる…。
「お前、ここのセンパイたちから習わなかったの?この監獄で、脱獄なんて馬鹿げたことは考えるなと。」
「き、貴様…何者だ?」
全く気配がしなかった。この距離になるまで、近づかれたことすら分からなかった。まるで恐れを知らない子どものように、真っ直ぐに見つめる夕焼け色の目は、決して俺から目を逸らさない。鼓動は早くなり、嫌な冷や汗が頬を伝う。こいつは、ただの看守じゃない。そう感じざるを得なかった。
ユハナは威圧するように、見下げ睨み返す。自分よりも遥かに小さく、華奢な身体。白と橙色の髪は左側だけ編み込まれており、左肩で風を受けて揺らぐ。制服は着崩されており、異様に下半身を露出させている。…何故だか男物のようには思えないが、深く考えないことにした。
「オレは囚人が逃げないように見張ってる番兵だよ。さ、怪我したくなかったら自分でまた檻に戻るんだナ。大人しく従ってくれたら、門をくぐったことは見逃すぜ」
「…はっ。悪いが、俺は戻らんぞ」
チッだろうな、とその番兵は舌打ちした。全く、舌打ちしたいのはこちらだ。いいところで来やがって。おかげで、また…
―罪を増やしてしまうではないか。
ユハナは重心を低くし、ヴェルミオンの懐に入り込む。そのまま鳩尾めがけて重い拳を撃ち込んだ。大きな拳は、小さな腹に深くめり込んでいく。咄嗟の出来事に、受け身を取れなかった番兵はその場で倒れてしまった。余程痛いのか、呻き声をあげながら腹を抱え込んでいる。呼吸は荒くなり、唾は飲み込む余裕さえないらしく、だらしなく地面に糸を垂たしていた。
逃げるなら今のうちだ。ユハナは振り返ることなく、遥か向こうの街の方へ走り出した。
――――――
「ぁが…!! ぅ、ぐ…っ…は、はぁ、くそ…いきなり殴るかよ…っ」
必死に痛みを堪え、なんとか立ち上がる。あれから何分経っただろうか、無線機は切っておいて正解だったななどと、薄く考えながら唾を拭う。腹をさすりながら前方を見やると、遠くの方で脱獄者が走っているのが小さく見えた。
まぁ、別段追いつけない距離ではない。所詮は狼。必死に走ってまだあそこにいるというのなら、まだまだというもの。ヴェルミオンは腹をさすった後軽く深呼吸し、走り出した。
最早それはただの疾走ではなく、神速に近かった。目で追うにはあまりにも速く、近くの草花は風を受けて大きく揺れて花弁を散らす。それでいて足音は小さく、脱獄者に気付かれずに急激に近づいた。彼は今や、30メートルと離れていない。
ヴェルミオンは大きく踏み込み、彼へめがけて跳躍した。
――――――
「はぁっ…はっ……こ、ここまでくれば…もう、追ってこれぬだろう…っ……はははっ…俺は、やってやった…!あの名高い、大監獄タルタロスから、逃げ切ってやったのだっ…!」
「誰が、逃げ切ったって?」
驚いて、心臓が飛び出るかと思った。あの時聞いたものと同じ、若くて少し高い声に恐怖を覚える。もしかして、あいつがもうここまで? 馬鹿な、有り得ない!
真実を確かめるべく、後ろを振り向こうとした時。背中に重い何かが突進してきた。いや、正確には物凄い速さで背中に飛んできたというのだろうか。素早く足が前に回ってきて、俺の腹のあたりに固定される。
同時に、左肩に激痛が走った。呻き声をあげてなんとか顔を向けると、先程の番兵の手が肩に伸び、指は肩の肉塊を抉り掴んでいた。まるで、獲物を決して離さんとする鷹の鉤爪のように。
「お゙、お゙ぉあ゙ぁ゙……!!!」
痛い。痛い。痛い!パニックになった頭は、必死に背中のものを振り落とそうとする。しかし当然ながら、そうすればするほどに肩の痛みは強くなっていく。
「おっと、そんなに動くなよ。これ以上中をぐちゃぐちゃにされたらたまんないだろ?」
耳元に口が寄せられて、甘ったるい声で囁かれる。狼のケモノビトである俺は、この番兵の身長を悠々と越えている。同じ目線になる為に、俺の上半身に掴まり固定したのだろうか。しかし、やりすぎだ!
「お、前…なんで…!振り切ったはずじゃ…!」
「ふふん。お前が思ってる以上に、俺は速いの!それはもう、この監獄イチなんだから」
俺は、走ることを諦めていた。ゆっくりと立ち止まり呼吸を整える。反対に、肩に捕まって意気揚々と話す番兵は息一つ切らしていなかった。確かに俺は腹を強く殴ったはずだが、致命傷になったわけではないようだ。その顔はもうすっかり調子が戻っている。しかし、あの様からここまで追いついてくるなんて。まるで、
カチャ、と音がする。考え事をやめ、目線だけを首の下へ向けた。鋭利な刃物が首を伝い、ゆっくりと赤い線を引く。やがてそれは、俺の目元まで上がってきた。綺麗に磨かれた刃に、自分の目が映る。その横には夕焼け色の目が。どうやら刃物越しではなく、俺自身を見ているようで目線は合わない。
「アンタ、見栄はってるみたいだけど、肩痛いでしょ?余計酷くなる前に戻りな。これ以上逃げたって意味は無いし、あんたの為にもならない。それでも行くというのなら…今度はこの目を抉っちゃうからネ?」
「お前…、いったいなんなんだ。」
よく見ると番兵には、尻尾がなかった。狼のケモノビトでは無いことは明らかだが、消去法で猫のケモノビトだとしても、そいつらはしっぽがないと歩くことは愚か、立つことさえ出来ないと聞く。それに、耳の位置もおかしい。普通ならば猫の耳は、狼と同じく頭上にあるはずだ。なのにこいつは、横についている。ただのケモノビトじゃない。あの異常な速さも、それが関係しているのだろうか。
猜疑心にまみれた俺の表情を見て、番兵は目を細めてにやりと笑った。なんともいけ好かない笑顔だ。
「さァ?それはオレにもわかんないんだ。ただ一つ言えるとしたら、お前が思っているように、猫のケモノビトではないってことだけ。さ、タルタロスへ戻ろうか。」
ぐちゃり、と肩から指が抜かれる。激痛に耐えながら、俺はこの小さい
――――――――――第2章へ続く
冥土の監獄 縁 @Yori-820
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