第6話 「お兄ちゃん……なんで逃げるの?」――逃げているのではない犯罪者にならないための、戦略的撤退だ。
勿論のこと、よっしーは引きこもりだ。いや、引きこもりだった。
『だった』になった理由は単純だ。
ある日、まあ、どこぞの田中と同じく目の前に突然少女が現れたからだ。
基本、少女が配布されてから人以下レベルの生活を送っていた無敵の人が、割と短期間で並みの人間くらいの生活を送れるようになることは多い。
よっしーもそのたぐい。
しかし、初めての遭遇……その時、男はダッシュした。
世の中には運動神経がいいオタクと悪いオタクがいる、このオタクは相当運動神経の良いキモオタクだった。体育大会では走行中の凶悪フェイスとその速度で無敵の名を冠し、しかしスカウトされた陸上部や体育会系の部活には所属しない、孤高の運動神経無敵オタクだった。
けれども、少女もほぼ同じスピード、というかそれよりも早いくらいのスピードで男を追い立てた。
銀髪に赤い瞳、小さな口、効果音を付けるなら『ぽわわ~ん』なほんわか美少女がオリンピック選手も青ざめるレベルのスピード、そしてお手本のようなフォームで痩身の引きこもりオタク成人男性を追いかける。
そのギャップに一瞬だけ自分と似ているとか思ってしまった。
しかし、相手は少女。
何か間違えればお縄は確実。
そして自分はオタク。
オタクと幼女……、これはまずい。
常日頃からこの理不尽な世界に復讐してやろう。俺には何もない。やろうと思えばいつでもできる。そう思っていた男だが。
少女の指先が背中を掠める度に加速した。
結局、社会的地位の失墜への恐怖はあった。というかこんなところで終わりたくなかった。
ななななななな、なんで御座るぅかぁ!?
なんで小生がこんな目に合わねばいかぬので御座るか!? と、言ったつもりだった。しかし、夜の路地裏に響いたのはカフッという空気の抜ける音のみ。声は出ていない。引きこもりというのは基本親とも会話せず部屋にいる。事実男もそうだ。というかここ数年たまに行くコンビニで店員からの『温めますか?』へ『……いします』と答える事すらもおろそかになっていた。近所のコンビニ店員も基本深夜に来店し、同じ商品を買い、温めをたのむという明らかに引きこもりでコミュニケーションを避けているその生態を把握していたため会話をしなくてもそのやり取りは暗黙の了解として成立している。
――故に言葉を使った会話はここ最近ゼロに等しい。
――故に男は喋るという行為のプロセスを忘れていた。
「(いや、ちょ、なにこれ!?)…………!?」
声帯が震えない、口だけをパクパク動かす。
少女はまた加速した、追いつかれそうになる。男の目の前には曲がり角。
一か八か目を瞑る。
あってほしかった『道』はない、行き止まり。
ふーと、男はため息を吐いて息を殺した。
「お兄ちゃん……なんで逃げるの?」
少女は透き通るような白さの手で息切れする背を軽く撫でた。
「なっ!?」
身体がふわりと浮いた、ような気がした。
「「俺が二人ぃ?」」
言葉が被る、その通りそこには二人の男がいた。
言い換えるとキモオタクが増殖した。
「「きんもちわっる!?」」
「まって落ち着いておにいちゃん……」
「「えぇ!? この状況で落ち着くの至難の業であるがぁ!?」」
パンッという音がして、目の前にいた少女の肩が消えて、腕と胴体が分離した。
「お兄ちゃん、わたしは大丈夫だから」
少女は口から血を吐いた。
自分の身体がぐちゃぐちゃになるのを知覚した。
目の前の男は目を瞑るでもなく、ただ自分を直視していた。
少女、いいや、文香はとても嬉しかった。
いままで誰も自分を見てくれなかったから。
男、好夫もとても嬉しかった、初めて誰かに守ってもらったから。
◇
「守ったで御座るよ」
痛みに顔を伏せたよっしー×2。
「だめぇ……、お兄ちゃんじゃだめなの……わたし」
痛みに顔を歪めるように眉間に皺を寄せ、今にも泣きそうな文香は血まみれのよっしーを抱き寄せた。
「ああ、はずしてしまいましたか。もうしわけありません」
いやいや、申し訳ありませんじゃねえよ。
と、死んだような目でガラスをかき集める田中。
おそらくこの無数に散らばって鋭利な刃物のようになった全てを回収し部屋を元通りにするというのは業者でも頼まないと無理だろう。
無理だとわかっていてもやるのだ。それほどにショックが大きい。
「最近そうじしたばっかりなのにー」
「それに関しては申し訳ない」
うんうん、と笑いながら侵入者は頭を下げた。しかしその男の服を掴む少女は動かない、それどころか、表情筋を動かす素振りすらない。
ビー玉みたいに透き通った瞳にその様子をたんたんと投影している。
「いずれにしても死ぬのです。申し訳ないですが、もう何も案ずる必要はありません」
そう言うと男は一瞬だけ片目を細め、
――瞑る。
――瞬間、形のない弾丸が生成される。
無論、当たりは血の海だ。
血の海が広がっていることは予想できる。
恐る恐る、少女は目を開けた。
そこに広がっていたのは血の海ではない。ただそこに空気を切り裂く何かがあったという滞流だけだった。
少女は呆気に取られた、主人も同じ反応をしている。ぼさっとしていたらきらきら光る何かが舞い上がった。
ガラスだ、少女がそう気づいたときにはもう目の前に標的はいなかった。
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