第3話 無敵の人とその救い。

「なんだ、それ?」

 田中はまたしても首を傾げた。

「それじゃ俺がしようとしていたことと同じじゃないか?」

「無差別殺人と、あなたと同じような無敵のヨビグンを殺すことがおんなじことかな?」

 少女の黒髪が揺れた。

 その繊細な髪の反射に、あの子が現れる。……あの子、田中の、田中がこうなってしまった原因の喪失で失った大切なあの子。

『ああ、勿論違う』田中は答えた。

 ただそこにいる人間と、俺のような全部が終わった人間。残酷な話だが実際、命は前者のほうが重いだろう。

――今の俺には“あの事件”が起こる前の俺みたいな人間が憎い。

 あの事件が起こる前の俺、『ただそこにいる人間』が憎い。

 殺したいほど憎い、命の重さなんて関係ない。

 憎い、いいやそんなんじゃない。無差別殺人の方が俺の味あわせたい気分をたくさんの人に与えることが出来る。あのどうしようもない虚無をあのどうしようもない無力の日々を。田中は思った。けれどそれは悪いことだ、実行してはいけない、実行したい、実行してはいけない、実行したい……揺れ動いていた。その日々。

 思い出してカッと、頭に血が上る。

 家族がいて、毎日が綺麗に色づいていて、例えばそう。

 今は10月、涼しくなってきたねなんて話して。十五夜して。娘の手を握って、月を見上げて『うさぎさんがいるの?』といったその成長に驚いて、そして隣には一緒にそれを喜んで、自分の事を受け止めてくれる人がいて。

 数分、いいや数十分。田中はそんなことを思っていた瞳は何もない宙を見据えたまま動かない。しかし、田中の瞳には小さな女の子とその女の子によく似た女性が写っていた。

「田中?」

 放心状態の脱力した肩を少女が揺さぶる。

 しかし、田中はみっとうもなく呆けた顔をして追憶から復帰してこない。

「こういう時、ちんちん掴んだ方がいいのかな?」

 少女の白いみずみずしい指が田中の股間に伸びる。

 触れたその瞬間、田中は復帰した。

「か、勝手にちんこ触るなッよ!」

「ごめん。でも田中ずーっと黙っててどこ見てるか分からないし、ちょっと不安になって」

「不安になったからってちんこ触るなよ。お前は緊張するとちんちん触っちゃう幼稚園児か」

「だって田中、ちんちん掴むとリセットされるみたいだし……」

「ちんちんはリセットボタンじゃないんだぞ。わかってるのか、ちんちんいじめるなって言ったやつは誰だ?」

「わかってるし、それいったのわたしだけど……」

「あくまでも性器だからな、お前がどんな教育を受けたかはわからないけど、お前、女の子だろう?」

 少女はそれくらいわかっている、しかし、田中の股間の使い方を見ていればそう勘違いしてしまうのもいたしかたない。事実田中は股間を思い切り掴み意識を飛ばすことでストレスを解消したことが幾度かあった。

 少女の頬は少しだけ赤い。

「何、お前いまさら恥ずかしくなったの?」

 うんん、と肯定なのか否定なのか分からない声を上げると、気を紛らわすかのようにずり落ちたネグリジュの肩紐を元の位置に戻した、彼女の足元にあるスマホはいつの間にかブラックアウトしている。

「で、どう思うの?」

「同じことだろう、それに俺は、ただ……人を殺したかったんじゃ……」

 田中は『ただ人を殺したかったのではない』と言い切れない。自分の命を『まとも』な人生を歩んできた人間と同じであると思えなかったからだ。

 そして、これだけ酷い目にあってきたのだから『まとも』に生きてきた人間にも同じ思いをしてもらわないと割に合わないと思ってしまったから。田中の揺れ動いたままの道徳観は今もそのまま、グラグラと不安定だ。今もその先もずっと変わらないだろう。

「ないって言いきれないよね」

「でも……」

「でも? 田中はもうわかってるよね。自分の命が人と対等ではないって。命には重さがあるって……。だから他人を殺したくなっちゃったんだよね、周りの『ただそこにいる人』を自分と同じ絶望に突き落とすために」

 中途半端に伸びた髪がフケを散らしながら横に揺れた。もういい大人であるというのに子供のような動きだった。

 田中は『違う』とは明言しない。

「もしかして、小学校の道徳でおしえられたから大きな声でいえなかったりする?」

 少女はその汚い男を抱きしめた。幾日も風呂に入っていないであろう男の耳元で何事か囁いている。

 埃だらけ、皮膚カス、髪の毛、歩けば足の裏にそれが付く、ほんの数十分歩いただけで足の裏が真っ黒になるゴミ溜め。そこに座る汚らしいゴミみたいな男と、それを抱きしめる美しい少女。何かの宗教画のようだ。

 どんなことを囁いているかはわからない。けれど、大きな声で言えないことなのは確かだろう。

 このゴミ溜めの中でゴミみたいな男にどんな声を掛ければ助かるのだろうか。

 否定だからだ。

 いままでの否定、この男は正直で、優しい、だからこそこうなってしまった。

「まあ、だから。わたしと仲良くすることからはじめてよ、わたしの愛を受け止めていてくれたら、あなたの命は無事で済む」

「ほんと、無茶苦茶な話だよ、お前……」

 話を聞いてくれるんだね。と少女は笑う。そして自らの胸を人差し指で指した。

「わたしみたいな子は無敵の人に配布されていて、『ルール』は簡単で、その配布された子を虐待していたりするなら殺していい、殺すのは気が向いたらでいいから、まずはわたしと仲良くしようよ田中!」

 片頬を引きつらせた田中と満面の笑みの少女。

「わたしが作ったルールだよ、道徳なんて存在しない、わたしっていう世界が作ったルール」

 薄汚くて臭くて汚い部屋の中、カーテンの隙間から差し込む朝日が少女の背に光を当て後光のように輝いていた。

「ハイ、これでこの話おしまい! 田中はこれからわたしと仲良くして気が向いたら悪者を殺して!」

「急に話を畳むなよ……。てか気が向いたら人殺すってそっちの方がシリアルキラーみたいだろ」

「虐待嫌でしょ田中? 殺したいくらい嫌いでしょ? 殺していいの許可はでてるよ」

「まあ、そうだが……」

 少々の沈黙。

 二人は見つめ合う。

 少女は田中の胡坐に腰を下ろす。田中は少女のネグリジェの背中を捲る。名前もブランド名も何も書かれていない。

「なあ、お前名前は?」

「ないよ?」

「ないの?」

「うん、だってわたし田中のために作られたんだもん」

「名前はどうする、まさか俺がつけるのか?」

「うん。でも、一応わたしを連れてたら職質うけるかもだからちゃんとした名前にしてね?」

 田中はあからさまに考え込んだ。少女は怪訝な顔になる。

「朕子とか泡姫とかやめてよね……?」

「俺、自慢じゃないが名づけのセンスはあるんだぞ」

 何日も風呂に入っていなくてソシャゲ相手にキレてる大人は信用に値しない。少女はそう思ったのか肘で男を小突いた。

「じゃあ、適当に言ってみてよ」

「一夏」

「ハーレムものの主人公じゃん。わたし女の子だしあれを操作できても不思議じゃないよね」

「一子」

「いちこってお酒みたいな名前じゃん。田中ほんとは名づけセンスないでしょ。というか今ゴミ溜めの紙パックに目を向けたよね」

「秋」

「シワシワネーム」

「秋子」

「それもシワシワネーム」

「じゃあどうすりゃいいんだよ」

 と、田中は少女を小突いた。

「いちかっていう言葉の触りは好きだから漢字変えてよ田中」

「じゃあ、華で、中華の“カ”」

 ん、それ。と少女は頷く。

「ああ、そうだ。ちょっと写真とっていいか?」

 いきなりポーズを取り出した一華、まあそんなもんかと田中は写真を撮った。田中の瞳の奥にいる少女もそうやってよく写真をせがんだ。


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 一華がのぞき込むのは田中の操るスマホ。長い爪はカチカチと音を立て投稿ボタンを押した。

「何それ、スレタイセンスなくない田中?」

1:ゼロレス救済員会

『ゼロレス救済委員会』

 案の定ということだろう。ゼロレス救済委員会に救済されてしまった。スレが落ちるまであと十数分と表示される。

「そんな目で見るなよ」

「というかなんでスレ立てたの?」

「夢なんじゃないかってまだ思ってる……」

 田中の顎に向けて一華の頭が発射された。

 二人は暫く揉み合いになる、金的する一華と死守してその脇をくすぐる田中。キャーキャー嬌声を上げる美少女と汚いおっさん、犯罪みたいな光景だがどちらも笑っている。

 子供みたいに。

 生気のなかった田中の瞳に光が戻り始める。やがて、泣き始める。

「ああ、こんなんで俺はよかったのか」

 と、いい感じの雰囲気になっていた二人、

 スレッドが沈むその数分前。

2:脂身好夫

『通報しま☆すた』

 と書き込みがあったことを知らず二人は仲良く眠りについた。

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