File2 客観的な幸福
都会のビルの樹海に埋もれるようにしてひっそりと存在するスラム街。
異質な雰囲気の漂うその入口に、一人の青年が立っていた。
羽織っているコートから、彼が刑事群に所属している事が伺える。
刈り上げた上にくしゃくしゃっとして乗せたような髪型で、あちらこちらが逆立っている。一目で染めたとわかる銀髪である。
傍には警察犬が控えているが、それは機械仕掛けだ―本物に近づけようという努力はなされておらず、金属部分が剥き出しになっている。だがそれはあくまで外見の話であり、警察犬(ハウンド)としての能力は計り知れない。
イヤホンを通して一通りの事情を聞き終えた青年は、ふうっと息を吐き出すと呟いた。
「さてと、それじゃ不埒者を裁きに行くかねぇ」
もう日が殆ど沈んだ時間帯で、入り組んだ造りのこの一画は、いつにも増して陰気な雰囲気が充満している。
「よりにもよって、なんでオレが……」
周囲に目をやると、生気の抜けた人々が淀んだ雰囲気を醸し出している。
―そんな彼らが何故この大都市圏の真っ只中に存在していられるのか。
答えは単純明快だ。HDIが規定値以上であるからだ。
「そんな基準も分からないような指数で生活が左右されるなんてぞっとしないねぇ。そんな陳腐なもんに怯える人生なんてクソ以外のなんでもねぇな」
HDIが一定値以下の場合は、大都市圏から追放される。そういった仕事は行政院管轄の人事課で行われているのだが、それは勿論表向きの話であり、裏では司法院の刑事課が強制退去させている。
汚れ仕事だとは思わないが、自分は幸せな暮らしをしていたと思っている連中を絶望のどん底に突き落とす船頭を任されるというのは、あまり目覚めの良いものでないのは事実だ。
「ポッドく〜ん、周囲のスキャニングよろしく〜。怪しいヤツ居ないかチェックして〜」
一応警戒はするつもりなのか、青年はポッドに指示を出す。
すると、骨振動を活かしたイヤホンから声が聞こえてきた。
「起爆シグナルが発信されたのは、そこからもう少し奥の高層廃ビルの最上階よ。複雑な造りの建物が多いから、奇襲をかけるには好都合。だけど、それは逆もまた然りなのを忘れないようにね」
「心得てま〜す」
ニヤリと不敵に笑って、青年は上を仰いだ。
「廃ビル、ねぇ……」
彼の目線の先にあるのは、所々崩壊が進んで今にも崩れ落ちそうなビルだった。塗装も大部分が剥げて、コンクリートの味気ない色がさらけ出されている。都心の人々から見たら、これは間違いなく廃ビルだ。
しかし、ここはスラムだ。金持ちの富裕層の住む区画とは一線を画す。ということは、こんな今にも崩れ落ちそうな建物だからといって崩れていない以上は人が住んでいるものだ。
そんな状態にあるわけで、青年には皮肉以外の何ものにも聞こえなかったのだろう。
【[報告]武装人員は0。周囲の安全が確保されました】
「りょーかい。それじゃ、奴さんをしばきに行きますかぁ……と思ったんだけど、あれ正面突破は無理じゃね」
エドバーで少し先を視認した青年は、ため息混じりに呟いた。
彼のエドバーは特殊加工が施されているのか、目がエメラルドグリーンに輝いている。
「ポッド、あの建物の裏口は?」
【[報告]裏手に非常用階段が設置されている模様】
三権分立の一角、立法院はここ数十年の間に大幅な法改正を行った。来るべき新時代に向けての新秩序の構築が大々的なスローガンとして掲げられていたはずだ。
その煽りを受けて、建築物に関する法規も色々と変更が付け加えられたのだが―このスラムは新築工事が行われるはずもなく、旧時代の建物がそのままそっくり保存されているため、勝手が違うところは多々ある。
しかし青年は難なくその構造を細部まで見抜いていた。それは熟練の証なのか、それとも―。
裏口から侵入して、ハウンドに先行させる。青年はそのあとについて、物音ひとつ立てないよう息を殺して、最上階を目指す。
電気の供給も不安定なために灯りは乏しいが、僅かな光でも増幅可能なエドバーを装着している青年には、暗闇でも周囲の状況がきちんと見えている。
「ポッド、周囲を生体スキャン」
【[報告]生体反応なし。オールクリアです】
「あーらら……」
体を前傾姿勢にして極力隠密行動をとる。標的を確保するまでは何があっても下手な騒ぎは起こしてはならない。
生体反応が無いということは、この建物には誰も居ないということになる。それでは、本部からの情報に合致しない。
だとしたら、有り得る可能性はひとつしかない―もう既に逃亡された後で、ここはもぬけの殻、ということだ。
「ポッド、この建物の出口は正面と裏口以外にあるの?」
あらゆる建材を貫通可能なkain波と呼ばれる特殊な波動を用いて、ポッドはこのビルの構造を丸裸にする。
【[報告]ダストシュートによる外部へのアクセスが可能】
「オレとすれ違わなかったってこたぁ、奴さんはダストシュートかっ。ポッド、案内しろ」
思い通りに行かない現状に歯噛みしつつ、青年はポッドについていく。
「ハウンド、周囲に奴さんの手がかりがないか捜索。なにか発見したら報告しろ」
ハウンドが本領を発揮できるのは、大抵の場合ターゲットの容姿が割れているか、その人物に関連する物がある場合に限る。
今回に至っては両者とも欠けているために、ハウンドは今の所満足には機能出来ていない。
「スラムん中に逃げ込まれちまったら、探すのは不可能に近い……それに」
近くの割れた窓から空を仰ぐと、もう漆黒に染まっている。
ダストシュートの投入口に辿り着いたが、もうそこには誰がいるはずもなく、しんとしていた。
「生体反応も―相変わらずなしか……」
ポッドの表示を確認して、青年はふうっと息を吐き出した。
どうやら、先輩にも動いてもらわなくてはならない事態のようだ。
「苅谷のおっちゃん、聞こえる?」
―出来ればこの手を使いたくなかった彼だが。
「あぁ、聞こえてるぞ。なんだ、社崙(シャロン)―捕り逃したのか?」
重厚感のある声が聞こえてくる。
「すんません、この借りはいつかオレの奢りで返しますんで。マップ転送したんで、マーキングされてるポイントに向かってください」
「その様子だと、急いだ方がいいみたいだな。あいわかった。発砲許可は下りてるんだよな?」
「はい。ですが、できるだけ殺傷は控えろ、と」
これで、ダストシュートの出口の方は苅谷が押さえていてくれるだろう。
そうするとこちらのすべきことは、奴さんのいた現場の証拠を出来うる限り収集することになる。
来た道を戻りつつ、何か対象の落としたものはないか注意を向ける。
「ま、ないわな……てかあっても、このとっちらかりようじゃな」
足元に転がっている空き缶を蹴り飛ばして、文句をたれる。
「ハウンド、報告して」
【[報告]対象を特定するだけの物証に不足。追跡は不可能】
「だよねぇ……じゃ現場検証はこれくらいにして、奴さんをとっ捕まえに行きますかぁ。ポッド、SG-44の用意を」
ポッドの格納庫から銃を取り出すと、社崙と呼ばれた青年は苅谷に指定したポイントを目指した。
***
スラム街から少し離れた地点で社崙からの報告を受けた苅谷は、指定されたポイントに向けて歩いていた。距離はそれほど離れていないので、短時間で十分移動可能だ。
先程大爆発があったわけだが、技術力とは捨てたものではないらしい。
苅谷自身、今回でそのことを骨身に染みて感じた。
一度分子レベルにまで分解されれば、さすがに時代に逆らって生きてるだのとデカい口は叩けない。
そんな風に煮え切らない気持ちを心の隅にとどめつつ、愛用のマグナムを取り出して、苅谷は関が見せた先程の態度について考えていた。
「人殺しは見過ごせないってか―うぶなお嬢ちゃんだ。まぁ司法院の刑事課傘下にいなけりゃ人を殺めるなんて理解の範疇にはないか……」
皮肉な笑みを浮かべて、苅谷は煙草を取り出す。
「にしても、公務員でないと煙草が吸えないってのは世知辛い社会だよなぁ」
鼻と口から煙をもうもうと吐き出しながら目を横に移すと、ゴミの山を漁る少年少女の姿があった。
「あれが、HDIの規定値を超えてるとは到底思えないんだがなぁ……」
HDI―人間開発指数。
数十年前に大々的に国内で導入された架空概念だ。だから、なにか明確な指標みたいなものは存在しない。
そもそもこの概念が導入された大義名分は、日本国民のより質の高い幸福の実現。格差が広がり、持てる者と持たざる者の経済格差が広がる中で、如何にQOLを均等化するかという理想の水面下で支持されたのだが……
「ジェントリフィケーションで金持ちの巣窟になったこんな都市圏に住むってのは、一体どんな気分なんだろうな。俺なんかにとっちゃ拷問以外のなにものでもないぜ」
スラムの外に出れば超高層ビルの林立する都心部が目に入るのは必定で、自分たちの居住するスラムとの差は歴然としている。そんな環境に劣等感を抱かない方がおかしい。それこそ、アドラー心理学に反するというものだ。
「QOLを求めるのだって、立派な生産活動だ。なのに―あんなゴミに紛れたゴミ共が俺と同レベルのHDIだなんて、全くもってふざけた話だ」
吐き捨てる様に言う苅谷の口調には、明らかにスラムに住まう人々への侮蔑が含まれていた。或いは自己嫌悪かもしれなかった。
そうしてゴミの山から目をそらそうと思った時だった。何かが高速でゴミの山に突っ込むのが見えた。
ゴミを漁っていた少年少女たちも驚いたとみえて、落下点から少し距離を置いている。
おやっと思って見ていると、ゴミの山から這い出たその人物は周囲をキョロキョロと挙動不審に見渡して、一目散に駆け出した。
全く解せずにその背中を見送っていると、社崙の声が耳に入ってきた。
「苅谷さん、対象は恐らくダストシュートから落下してきます。それっぽいのがいたら、確保宜しくですっ」
その言葉を聞くやいなや、苅谷は弾かれたように走り出した。
「おいっ、そこのお前っ! 止まれっ!」
張りのある声量で対象に警告する。
「発砲許可はおりている。そのまま止まらないと撃つぞっ!」
警告なぞ耳に入らないのか、対象はひたすらに遠ざかっていく。
生きたまま捕縛するのが最優先と言われている以上、倉庫群でのように頭部を撃ち抜くのは厳禁だ―となると。
「致し方あるまい……」
マグナムを構えて、撃ち込む。多少距離はあるが、苅谷のスキルならば、狙った箇所に当てるのは造作もないことだ。
右足がちぎれ飛んで軽く宙を舞う。足が取れたことでバランスを崩した対象はその場で派手に転倒した。
「やっぱこいつの威力は半端じゃねぇな」
懐のホルスターに相棒をしまいながら、刈苅谷はゆっくりと獲物に近づいていく。
「それで、だが―お前さんが社崙の言ってた奴さんか?」
右足の切断面からは絶えず血が流れている。
苅谷はポッドに命令して、応急処置を施させる。
「苅谷さん、現状は?」
イヤホンから社崙の声がする。
「犯人は確保。今応急処置を行っているところだが、失血量が多い。今すぐにでも病院へ搬送したい」
「アレ、ぶっぱなしたんですか……?」
「仕方あるまい、警告はした」
「容赦無いっすね……」
呆れたような声に、はぁっと息を吐いて苅谷は言った。
「あのなぁ、これは俺の経験だ。一度逃した獲物を再び捕まえようってのは至難の業だ。犯人確保のコツは、一発目で何がなんでも対象を行動不能に陥らせることなんだよ」
「へぃへぃ。救急搬送の件はりょーかいです。オレはこのまま本部に戻りますね」
話り出すと長くなりそうだと踏んだのか、社崙は気のない返事をする。
「俺も乗せてってくれ。愛用のバイクはさっきの爆発でやられちまった」
「りょーかい。そっちに車回しますんで、待っててください」
通信が切れて改めて対象に目をやると、一見すると貧相な身なりに見えるが……
苅谷は対象の上着をむしり取る。
すると先程のみすぼらしい外見とは打って変わって、決して見苦しくはないパーカーを羽織った青年の姿がそこにはあった。
「それで、だが―お前は、何者だ?」
体勢の関係で見下ろす形で、苅谷は尋ねる。
「あっ……あぁっ……」
痛みに必死に耐えているのか、呻くことしか出来ないようだ。
「ポッド、鎮痛剤を投与してくれ」
救急車が到着するまでに、少しでも話を聞き出しておきたいところだった。
たかが倉庫群にガサ入れが入ったくらいで爆破するような輩だ。なにか裏に潜んでいると見てまず間違いはないだろう。
鎮痛剤が効くまでの数十秒の沈黙。
その間に苅谷は先程のマグナムを取り出して、そっと対象の額に押し付けた。
「質問を変えよう―誰の差し金だ?」
下手な返事をすれば殺してやる。
そう息巻いているように見える殺気立った目付きで、苅谷は尋ねる。
「……」
対象の方は相変わらず沈黙を貫いている。
カチャリと、リボルバーの弾倉が回転する音が響く。
「……っ」
さすがに肝を冷やしたのか、声にならない悲鳴をあげる。
「俺は本気(マジ)だ。ヤるときはヤる」
恐怖に大きく見開かれた目がこちらを向いた。と思いきやふっとそれて、あちこち泳いでいる。
「シラを切らない時点で、なにか疚しいことを抱え込んでるだろうことは察してる。さっきの倉庫の爆発、ありゃお前さんの仕業だろ」
チラチラと反応を伺いながら話を進める。
「たかがガサ入れだ。あんな大規模な破壊工作なぞせんでも、尻尾巻いてひっそり逃げれば良かったはずだ。その方が下手にマーキングされる危険性を回避出来たんだからな」
瞳の揺れ具合が大きくなっている―明らかに核心に迫りつつある。
「捜索されたらまずい何かがあそこにはあった。違うか?」
トリガーにかけた指に、ぐっと力を込める。
すると、怯えてわなないた口から、か細い声が漏れ出てきた。
「お、俺は……なんにも知らねぇ」
シラを切ったその男は、堰を切ったように弁明し始めた。
「ば、爆発には関与したけど……何処が爆発したかまでは知らねぇっ!」
その男の語った内容を要約すれば、彼は、一昨日の夜半に郊外の公園で、知らない人物に声をかけられたそうだ。
そこで、報酬は弾むからこの起爆装置を合図に合わせて作動させて欲しい、という旨の依頼を受けた。
ことの手筈は全て依頼主側で済ませており、自分はそのプロットに従って行動すれば良かった、と。
「なるほどな。お前さんは今回の一件の末端の末端だったというわけか」
対象の額に押し当てていたマグナムを懐にしまっていると、苅谷はふと違和感を覚えた。
「救急車がやけに遅いな。おい、社崙。聞こえるか」
救急車の申請をすると言ったのは社崙だ。彼なら、現状を把握していてもおかしくない。
だが、イヤホンから流れてくるのは社崙の声ではなく、ただのノイズ音だけだ。
「慣れないもんは使うもんじゃないな」
そう言いながらイヤホンをつけ直していると、何やらズボッという音が聞こえてきた。
「おっ、繋がったか」
そう思ったのはほんの一瞬だった。
チラッと対象の方に目を向けた苅谷は凍りついた。
対象が、頭部を撃ち抜かれて絶命していたからだ。
弾の飛んできた方角を見やるが、特にそれらしい人物は見当たらない。
直線状の道路が地平線まで続いているわけで、それで見当たらないということはもう既に犯人は逃走したわけだ。
「ぬかったな……」
気を落ち着けるためか、煙草を取り出して口に咥える。だが、それに火をつける前に手でむしり取って地面に投げつけた。
「くそっ」
今回の一件の裏に隠れた陰謀の端緒を開き得たかもしれない、重要参考人をみすみす死なせてしまったのは他でもない自分の責任だ。
関わった人物から話を聞き出すことは不可能になった今、残された手は爆破された倉庫街で手がかりを探し出すことだけだ。
直線道路の果てから、一台の車が走ってきた。
それは都原達が走らせてきたもので、社崙の姿はそこにはなかった。
輔弼の末に見果てた夢 千尋 @yomai_roto
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