輔弼の末に見果てた夢
千尋
File1 生の簒奪者
2000年代も後半へと突入し、日本は深刻な危機に直面していた。
三大都市圏への人口の極度集中並びに、少子高齢化による生産能力の低下。
日本のこれからは危うい、と―そう、巷で騒がれた。
性急に対策を講じる必要があるとして国は、都心から距離を置いて新興住宅街を建設していった。都心部の地価は高騰を続ける一方で、満足な富を持たない者達はこの副都心(サブユニット)へと流れ込んだ。目に見えることだが、そこに住まうのは、持たざる者達だ。当然、奪う事で生計を立てようと画策する者が現れてもおかしくない。そうして、持たざる者同士の醜い争いが乱発し、国は副都心を官営から自治区へと降格し、不干渉の体勢へとシフトチェンジした。警察の様な法の体現者を欠いた副都心が、スラム街へとその姿を変えるのにはそれほど時間がかかる事はなかった。
対照的に、東京、大阪、名古屋の三大都市圏は富裕層の巣窟として栄華を誇った。煌々とライトアップされた超高層ビル群が林立する大都市圏(プライマリーユニット)。持てる者達の集うこの場所には、副都心のような無秩序は存在しない。皆が自分の富を守るために水面下で激闘を繰り広げることはあっても、その闘争が表層化する事は極めて稀である。
ジェントリフィケーションのまさに体現だと言える日本の都市開発のずさんさを、だが、日本政府は甘んじて受け入れた。
何故なら、その体勢で不都合になる事は何ひとつとして有り得なかったから。大都市圏へのアクセスを制限する事で、治安は維持される。つまりは、政府の目に映っていたのはただただ金持ちの反応であり、彼らの生産性には足元にも及ばないスラムの住民達は国から見捨てられたということだった。
大都市圏に住む人々にとっては上記の問題は全てが切迫したものではなく、解決された過ぎ去った過去のものになってしまっていた。自分達の置かれた環境には何ら差し障りのない問題になってしまったからだ。
***
そんな大都市圏のひとつ、東京。
とある洒落た喫茶店に彼女はいた。
スーツ姿であり、身だしなみとしては都心部に住まうものとして違和感はなかった。
黒褐色の熱い液体を機械的な動作で流し込む彼女は、傍から見ていて心ここに在らずの放心状態であり、それは、ここ数日間で彼女が経験した事に起因するのだが―気持ちを整理するにしてはあまりにも心的損傷の大き過ぎたのだろう、今こうしていると、とてもではないが大都市圏に住まう者とは思えない生産性の無い態度だ。
テーブルの上には、小さなティーカップとひとまとまりの書類の束が置かれている。それには几帳面な文字でメモが各所に書き込まれている。
「はぁ……」
気だるげに半目開きで書類に目を落として、彼女はため息をついた。そしてそれから右手首に付けた腕時計へと目をやって更にもう一度ため息をついた。
「犯罪捜査かぁ……なんで……」
頭を抱えると、スーツの胸元でネームプレートが揺れた―『関 友利』と書かれている。恐らくは彼女の名前だろう。
彼女の座っている席は、喫茶店の中でも最奥に位置しており、入口からはかなり距離がある。彼女も座ってから気付いたのであろうが、彼女の席からでは待ち人が入ってきたのかどうかさえ見えない。
連絡手段としては、顎振動感知型内蔵式トランスミッター(JVST)、通称ジェブスタにより瞬時に通信が可能のはずなのだが
―これから会う相手はどうやらジェブスタを利用せずに今を生きる古典的な人物なようで、共通の連絡ツールを持ち合わせていないのだ。
それだけでさえこれほど不便な思いをしているのに、更には定時に現れないという図太い神経の持ち主らしく、繰り返すがとてもではないが今を生きる人とは思えない人物像だ。これから化石にでも会う気分―冗談にしたいが、満更でもない……。
カップの底に少し残っていた珈琲を飲み干して、メモが書き込まれた書類の束をショルダーに丁寧に入れ込んだ時だった。
背後に誰かが立つような気配がして、彼女は振り向くことなく不機嫌そうに尋ねた。
「あなたが、『苅谷 重正』捜査官ですか?」
「俺の名前を知ってるってこたぁ、お前さんが関 人事官で合ってるのか?」
重厚感のある声が返ってきた。
「人事官ではありません。現在は、司法院特種犯罪捜査課特別補佐官の任に就いております」
心外だとばかりに、関補佐官は口をとがらせた。
「ま、役職名なんてこの街じゃお飾りみたいなもんだ。そうこだわるな、お嬢ちゃん」
後ろからぽんと肩に手を置かれた。ゴツゴツしていてとても男っぽい手だな、と思った。
「時間に遅れちまったのは悪ぃな。一杯奢りで勘弁してくれ」
そう言うと、背後の人物は横を通って、目の前の空いている席に座った。
如何にもベテランといった風情の壮年の男だった。
身なりは案外ラフだ。真紅のネクタイは上までは締められておらず、紺のシャツは首元ではだけている。ベージュのスーツもかなり着古しているのか、クタクタになっている。
それでいて、彫りの深い顔や洞察力のありそうな鋭い目は不思議と緊張感を帯びていて、何だかアンバランスな印象を受ける。
その男はくたびれたスーツの内ポケットから一枚の紙片を取り出して、差し出してきた。
カードに一瞥をくれて関が口を開こうとすると、ウェイターがやって来て注文を聞いてきた。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
苅谷はメニューを手に取って、手馴れた手つきで目を通していく。
「じゃぁ、カップチーノシナモン付きで」
「かしこまりました。ご注文は以上で宜しいでしょうか?」
「あぁ、ちょっと待ってくれ―お嬢ちゃん、俺の奢りだ。好きなものを頼め」
「私はもう既に頂いたので……いえ、では私もこの人と同じものをひとつ」
「かしこまりました。少々お待ちください」
ぺこりと一礼して先に渡されていた領収書を持って、ウェイターは去っていった。
「あれは、ホログラムですよね?」
「いいや、れっきとした生身のお姉さんだな」
「まさか。このお店、全部手動で切り盛りでもされてるんですか?」
「お嬢ちゃんの目には珍しく映るかい?」
「有り得ません、今どきそんな時代遅れなっ!!」
関が思わず声を貼り上げると、周囲の席の人々が注目してきて気まずくなる。
「有り得るんだよ、今はまだ、ね」
手で座るように指示しながら、苅谷は胸ポケットから煙草のパッケージを取り出した。
「なんですか、それは?」
「これは煙草だ。刑事の固有名詞みたいなもんさ」
「『けいじ』って、なんですか?」
耳に馴染みのない単語を反復して、その意味を問う。
「あぁ、お嬢ちゃんは知らないんか。平べったく言えば今の俺の役職だな。捜査官だ」
「そうなんですか。それで、これは何なんですか?」
関の指さした先には、苅谷の差し出した紙片があった。
「お嬢ちゃんは、これも知らないのかい?」
箱から一本取り出して、点火する。一息吸い込んで、吐き出してから苅谷は続けた。
「これは、名刺っつってなぁ。昔は社交儀礼の場で頻繁に交換したもんさ。俺達の社会におけるアイデンティティを相手に提示する最も信頼性のあるものだったのさ」
もっとも、と。鼻から煙をもくもくと吐き出しながら、
「恐らくはお嬢ちゃんの目ん中に収まってる超薄型のレンズと、機能は同じだよ」
「角膜癒着式データデバイザー(EDVER)のことですか?」
「そうそう、その『えどばー』とかなんとか言うやつだ。そいつぁ、瞬時に個人データを収集して提示してくれるんだろう。折角だ、教えてくれ。そいつはどんな仕組みなんだ?」
「簡単ですよ。相手のエドバーをスキャニングすることで、その人の基本データを取得できるようになってるんです」
「なるほどな……にしても、科学技術の進歩って奴は俺はどうも受け付けない体質らしい」
「そうですか……でも、今どき珍しいですよ、あなたみたいな人」
「ハハッ、そうかい。ま、これは記念だ。とっときな」
改めて手渡された「名刺」を胸ポケットにしまっていたら、
「ご注文の品でーす」
と言って、先程とは違って少しチャラい感じのお兄さんがお盆を持ってやってきた。
ことり、とソーサーとカップのかち合う音がする。
「ごゆっくりどーぞー」
どこか気だるそうな営業スマイルを顔にたたえて、一礼するお兄さん。後ろを向いて立ち去ろうとしていたのを、関は何故か呼び止めていた。
「すいません」
「あ―なんですかー?」
おもむろに振り向きながら、ノリの軽い声で返す。
「あの、こんなこと聞くのは変かもしれなんだけど……あなた、生身の人間なの?」
「は? お客さん、ちょっと言ってる意味が分からないんだけど。あなたがこの店来たのは、他でもないこういうアンティークな雰囲気のお店が好きだからじゃないの?」
「え、わ、私は―」
関は自分が何か見過ごしているような気がして、苅谷をちらりと見やった。そして、あっと小さく声を上げて、それからウェイターのお兄さんに向き直って言った。
「ごめんなさい。私ったらホント意味の分からないことを聞いてしまったわね。忘れて。チップは弾むわ」
「マジか、やったね。お姉さん、サンキュっ」
特に訝しむでもなく、彼は足取り軽く去っていってしまった。
「なぁ? 言った通りだろ、お嬢ちゃん。さっきの様子じゃ、なんで俺がこの店を待ち合わせ場所にしたのか少しは分かったんじゃないか?」
給仕されたカップには口をつけず煙草をくゆらせて、面白がるような色を目に浮かばせて、苅谷は尋ねてきた。
「そういう事だったんですか? 私は単純にここから目的地までの距離が近いからだと推測していましたが」
「お嬢ちゃんみたいなのには、経験が必要なんだよ。何事も見地を広げておいて損はしないさ」
「それは、あなたの主観ですか?」
「いや、経験則さ。俺のキャリアが語ってる、そういう事だ」
にっと笑って、それからソーサーに煙草を置いた。
「さてと、お嬢ちゃん。あんまりここでくっちゃべってても仕方ねぇ。さっさと飲んでいくぞ」
「……はい」
色々と思うところはあるだろうが、関は全てを呑み込んで、ただ一言返事をしただけだった。僅かながら返答までには間があったが。
***
「それで―作戦とか何かあるんですか、苅谷さん?」
喫茶店ではあれからカップチーノを「つつがなく」堪能して、これまた手動のレジに驚愕して店先に出てきたところだった。
苅谷は既に最初の一本をちびるまで吸い付くし、足元に吸い殻を落とした。それを足で踏みつけて火消ししながら、苅谷は答えた。
「なぁに、偵察が俺たちの任務だ。こっそり様子を伺って、またこっそり逃げ帰るだけさ」
「ヤバくありません?」
「ヤバかったら、その時はその時だ」
苅谷は、懐に手を入れて意味深に目を細めた。
「……何か策があるならいいですけど。私は丸腰なので、バックアップはおろか、足を引っ張る可能性しかないんですからね」
「その点はお前さんに随行してるそのポッドがなんとかしてくれるんじゃないのか」
横に目をやると、ふわふわと浮遊する小型の箱型の機械が目に入った。
「私も使い方はよく分からないんですよ。司法院に特別任務で配属されただけなのに、いきなり渡されて承認手続きだけさせられて……外出たら勝手についてきたんですよ、コイツ」
指で軽く弾くと、ぷらぷら揺れる。その様子は、とても頼り無さげに見える。
「まぁ、折に触れてそいつのありがたみを思い知るだろうさ」
「何か知ってるんだったら教えてくれてもいいんじゃありません?」
「何事も経験だと言ったろう、お嬢ちゃん。全て人から教えてもらってたんじゃ、一向にお前さんのものにはならないぞ」
「教官くさいこと言いますね、苅谷さんも」
「そいつぁ、歳相応って意味で言ってるのか?」
「言ってることも、年齢も両方ともです」
苦笑しそれから少し様子を改めて、関は口を開いた。
「これからどうします?」
「店先で雑談に花を咲かせててもしゃあなしだな。そろそろ連絡が来る頃じゃないか?」
「連絡?」
不信そうに眉をひそめる関とは裏腹に、ポッドはきちんと自身の役割を認識しているようだった。
【[確認]一件の通信を受信。交信しますか?】
「うわ、コイツ喋るんだ……」
「ほらきた。お嬢ちゃん、出てあげて」
いきなり現れた第三の声に驚く関をよそに、苅谷は指示を出す。
「わ、分かりました―承認。回線を開いて、ポッド」
【[了承]通信を開示。交信します】
その声を聞きつつ、関はイヤホンを耳にはめ込む。これは外部に音声が漏れ出ないようにという代物だ。
イヤホン自体はワイヤレス且つ小型で、着脱している所を見なければ余程の至近距離でも識別するのは難しいほど―情報こそ最大の生命泉である現代社会ならではの徹底ぶりというわけだ。
「聞こえますか、関 友利 特補。応答願います。over」
「感度良好。over」
―イヤホンから流れてくる声は恐らく自分の知らない声。内心ほっとした。
「貴女は、苅谷 捜査官に随行しているはずです。彼に代わってください。over」
「了解」
苅谷に背を向ける形で通信を行っていたため、背後から彼の燻らす煙草の煙が漂ってきている。
くるりと振り向くと、苅谷は真後ろに立っていた。上背がある彼とは、頭ひとつ分くらいの身長差がありそうだ。
「それで? 劉司はなんだって?」
ジェブスタのおかげで声を出さずに会話をする事が可能になったので、自身と相手以外には会話の内容は分からないようになっている。これもまた、高度情報化社会の産物という訳だ。
だが今の段階では、まだ一般市民には広くは普及しておらず、一部の階級の人達のみのサービスに限られている。
その例外として、公務員は国政の末端を担う者という名分の下、最先端の技術の享受が保証されており、望めばいくらでもそういう類の機器は手に出来る。
「あなたをご指名ですよ」
「そうか、代わろう」
イヤホンを外して、苅谷に渡す。彼の巌の如き手の感触には相変わらず驚かされる。
ジェブスタの恩恵を受けていない苅谷は当然自分の声帯から声を出して生の発声をするわけだが、相手は恐らくジェブスタを使用しているだろう―それを果たして会話と呼ぶ事が出来るのかは甚だ疑問ではあるが。
ジェブスタはその人の声帯をスキャニングし、細部まで音声分析を行い、その波形に擬似させることによって、擬似発声を行う。だから感覚的には普通の面と向かっての会話とは何ら変わるところのない話なのだが―もはやそういう環境の中に生まれてきた関は甘んじてその環境に身を委ねたが、年配層にさしかかりつつある苅谷にはやはり抵抗があったのだろう。
科学技術に頼らない苅谷はそれはそれで、工夫をしているようだった。それに気付いたのは、彼が通信を代わってから一度も喋った様子が無かったからだ。
「苅谷さん、実はジェブスタ内臓手術受けてたんですか?」
「ん? そいつぁ、今しがたの会話で俺が喋ってる事が何一つ聞こえなかった事に対しての質問って事かい、お嬢ちゃん?」
「その通りです。ジェブスタ無しで、無声会話を行えるなんて話は聞いたことありませんよ。或いは―」
「或いは?」
初心な新人を面白がる様な目つきで見る苅谷は、明らかに何かからくりを持っている様だ。
「或いは―テレパシー、とか……?」
「ぷっ、ハッハハハハハハッ!」
苅谷は、これは傑作とばかりに豪快に笑った。関は思わぬ恥をかいて赤面しつつ食って掛かった。
「こ、これは私なりの仮説ですっ。それで、種明かしはしてくれないんですか?」
何とか笑いを堪えているといった面持ちで、
「まぁ、お嬢ちゃん。お前さんにはこんな小細工は恐らく一生涯必要の無い物だろうよ。何ってったって、こいつぁ―」
そこで言葉を区切って、苅谷はじっと真っ直ぐに関の目を覗き込んだ。その瞳には、非常に透徹した光が宿っていて、さっきまで笑っていた喜色は微塵も介在していなかった。
「こいつは、『男の意地』ってもんだ。現代の科学技術に頼り切った社会に終身反抗し切るって、そう決めた男の覚悟の副産物だ」
「男の人を見てると、人って生き物が如何に感性的な生き物なのかよーく実感できますよ、まったく」
「それで、だが。劉司の報告によれば、現場の動きは特に異常無しという事だ。俺たちもも道草食ってないでさっさと合流するぞ」
「了解しました、苅谷さんっ!」
先に歩き出してしまった苅谷の背中にそう威勢の良い返事を投げかけて、関は小走りにその後に続いた。
***
風がスーツを通して伝わってくる。防寒性に優れた昨今の素材であるとはいえども、状況が状況だ。必ずしも前近代的なものに、近代のものが適用出来るとは限らないという事だ。
低音で唸るエンジンが、鼻につく排気ガスをもうもうと吐き出しながら、バイクを疾走させる。
「こんなのが今どき存在するなんて……」
喫茶店の裏側に回って、関は自分の見たものに我が目を疑った。
「旧世代型のエンジンで稼働するんですか? 汎用型イオンエンジンではなく?」
そこにあったのは、紛れもない『バイク』だった。良く手入れの行き届いた車体からは、持ち主の傾ける愛が伺いしれようというものだ。
「無論だ。こいつぁ昔のまんま俺を思いのままに疾駆させてくれる相棒さ」
誇らしげにボディに触れながら、苅谷はにっとはにかんだ。
「話の続きは、こいつに乗ってから聞こうか」
という次第で、恐る恐るヘルメットを被って乗ってみた訳だが。
「お嬢ちゃん、乗り心地はどうだい?」
前方に座る苅谷のくぐもった声が聞こえる。風は激しく吹きつけているが、彼の声は不思議とよく耳に入ってくる。これも、彼の意地の成せる業なのかもしれない。
「斬新な感じ……なんだか体の隅々までエネルギーが満ち満ちていくような、そんな感じですっ!」
「そいつぁイイぜ。お前さん、バイクの楽しみが分かってる。しっかり掴まっとけっ!」
そういうなり、苅谷はアクセルを捻る。それに応じる様にエンジンが吼えて、景色の流れがまた1段と早くなった。
「い、いくら刑事だからって、限度はあるんじゃないですかっ!?」
なかば絶叫に近い声で訴える関は、振り落とされまいと苅谷の背中にぴったりとしがみついている。
「ちょっとそこいらを見渡してみろ、お嬢ちゃん」
促されて首を捻ると、傷のついたヘルメットのガラスを通して、くすんだ外界が見えた。
「これは……」
思わず息を呑む関の目の前に広がるのは、都心の豊満な生活ではなく、今日を生きる人々が住まうスラムだった。
「ここ、本当に東京の都心なんですか―ありえない……」
「……」
関は先程とは打って変わって静かになって、ただひたすらにバイクを爆走させていく。
かなりの速度で駆け抜けている筈なのに、スラムの景色はなかなか絶えない―ゴミの集積地で何か金目の物を探り当てようと群がる子供達。一人を取り囲んで集団で強奪を行う大人達。近寄って行ってさりげなくスリをする娼婦達。
この街に住むありとあらゆる人々が歪んでいるのではないかと錯覚する程に、ここは犯罪に溢れている。犯罪が日常化してしまっている。
だが恐らく、犯罪の遍在化した世界しか知らない人もあの中には数多く存在するだろう。だから、生き延びる為にはああするしか他に方法が無かった……
「お嬢ちゃん、妙な肩入れをアイツらにする必要は無い。そんなのは全部徒労に終わるんだからな……」
長らくの沈黙を破って苅谷が口を開いた頃には、果てしないと思われたスラムも途切れて、目的地が目の前に迫っていた。
「着いたぞ、お嬢ちゃん。目的の、港湾区画だ」
***
張り詰めた緊張感が体を妙に縛り付けているのが分かる。
場所は、港湾地区廃倉庫内。
都原 劉司は、スタンバトンを握る手に力を込める。
先程別働隊と連絡を取るまでは、何も奇妙な点は認められずオールクリアだった。だが合流地点に向かおうとすると、何かの気配がしたのだ―微かではあったが、確かに。
「ポッド。生体スキャンを。この一体に誰か居ないか洗うんだ」
周囲に抜け目なく目を配りつつ、都はポッドに命令する。
【[実行]周辺地域のスキャニング】
ポッドの音声はイヤホンを通してその所有者にしか伝わらないようになっているから、もし何者かがいたとしてもこのやり取りは聞こえてはいない。
それにしても、と。辺りを見回して、都はため息をつく。
港湾地区ということもあって、コンテナが山積みになっているのだ。もっとも、この湾港が機能していたのは今よりかなり前のことでそれらのコンテナは腐食が酷く進んでおり、いつ崩れてきてもおかしくない状態にあるのだ。
故に細心の注意を要する、なかなかに疲れる場所なのだ。
一歩一歩丁寧に歩を進めていると、ポッドの音声が耳に流れ込んできた。
【[報告]南西の方角、数十メートル先に生体反応有り】
「人数は?」
【個体数は、五。全員が何らかの手段で武装しているものと見られます】
「奴らの兵装は分かるか?」
【低殺傷能力のマシンガンが五丁。他にも隠し持つ兵装があるかもしれません。排除の際は御注意を】
「発砲許可申請をしておいてくれ。お前はここで待機。このまま周囲のスキャニング。異常があれば知らせろ」
スタンバトンを握る手に力を込めて、都原はコンテナの影から様子を伺う―と、次の瞬間。溜め込んだ勢いを一気に解き放った様に物陰からぱっと躍り出ると、そのままポッドに指示された方角に駆け出して行った。
既にこちらの存在を察知しているのかは分からないが、相手方は全くの無音状態を保っている。が、息を潜めて闖入者を待ち構えているとみるのが筋だろう。
ならば、より高台から―即ちコンテナの上から襲撃するのがベスト。
何か足がかりになりそうなものを探すと、近くに脚立が倒れている。かなり錆び付いていそうだが、都原は迷わずそれを立て掛けて、音がたたないように慎重に上がって行った。
すると、イヤホンからポッドの無機質な音声が流れてきた。
【[警告]新たに武装した人員が一名接近中。増援の可能性もあります。御注意ください】
「チッ……」
響かない程度に軽く舌打ちして、腰を屈めて体勢を縮めてコンテナの上を移動していく―こういう一風変わった姿勢での移動訓練は教習所にて嫌という程様々なケースで練習させられてきた身としては苦にもならない。
エドバーによる視覚補正もあり、かなり遠くまでピントを合わせて視認する事が可能となっている。
闇取引や密売されていなければ―国の管理は厳重故にそのようなことは無いはずだが―それは大きなアドバンテージ。
警戒を怠ることなく進んでいると、目指す方角で動きがあった。
海鳥たちが一斉にばさばさと飛び立ったのだ。何やら威嚇するように鳴いているようにも見える。
「ボロが出たな」
口元をにやりと歪ませて、都原は一気に駆け出して間合いを詰める。
相手は思わぬ横槍に動転しているはず。ならばその隙を突くのが道理というものだ。
スタンバトンのスイッチをONにする。低殺傷モード、即ち当たると少し痺れる程度の低レベルに電流を設定する。あとは殴った時の物理的なダメージで押し切れるだろうという算段だ。
ベストなのは銃器による威圧制圧で一番血を流さずに済むのだが、何せ発砲許可が下りない以上は低殺傷武装で荒々しく臨むしかない。
潜伏していると思われる方向へと小走りに進むと、敵の一角と思われるフードを目深に被った男が、手に持つマシンガンの銃口を向けてきた。
「司法院執行課所属の者である。他の者にも告げる。投降を許可する。直ちに武装解除し、姿を現せ」
警事手帳を見せながら、義務とされている投降勧告を行う―よもや、彼らが応じるだろうとは微塵も期待していないという事だ。
「国の傀儡が……世論の代弁者にでもなったつもりかっ!?」
少し訛った怒声が返ってくる―どうやら、交渉はいつもの様に決裂の様だ。
「では、投降するつもりはない、と?」
念を込めて繰り返し問うと、
「問答無用。死ねぇぇぇっ!」
すると、今まで隠れていた他の四人もばっと姿を現して、その手に持つ銃の矛先を向けてきた。
「これは興味本位の質問なのだが、お前達は何者だ? 見たところ密入国者か?」
「これから死ぬお前には関係の無い事だ」
「そうか……では、貴様らを拷問してでも聞き出すしかないな。故に、安心しろ。殺さないでおいてやる」
目をギラリと獲物を狙う狼のごとき眼光を湛えて、都原は口元を不敵な笑みに歪めた。
***
「それでだが―お嬢ちゃんが人事課の方から送られてきた理由をもう一度聞いておこうか」
倉庫群の方へ向かっていると、苅谷が聞いてきた。
乗ってきたバイクは少し離れた所に路駐したから、徒歩での行軍中だ。
「送られた、と言うよりも私個人での要求だったんですけどもね」
「そうか……それは、お前さんが巻き込まれたっていう数日前の一件が絡んでるのか?」
「なっ!」どうしてそれをっ!?」
苅谷は煙草の先を関の方に向けた。
「資料をパラパラっとな、拝見させて貰ったんだが。お嬢ちゃん、才色兼備とはこの事なのかって思い知ったよ」
彼の目はからかうような色を湛えている。
「人事課は行政院の傘下、で、俺達の属す特別犯罪捜査課は司法院の傘下だ。三権分立が確立されてお互い犬猿の仲だってのに、些か以上におかしい話だとは思わないか?」
「今回私がこちらに派遣された事にはあの一件は絡んでません。ただ、ここ最近の人口動態に関して気がかりな点が散見されたからフィールドワークに勤しもうってだけです。苅谷さん、勘ぐり過ぎですよ」
「そうか―俺の経験からするとこういうのには何か利権争いとかが絡んでるもんなんだがな」
頭を掻きつつ、煙草の煙をもうもうと吐き出す。
関ははぁっとひとつため息をついて
「苅谷さん、煙草臭いです。これから敵陣に乗り込む事になるかもですから、そういうのは慎んでください」
諌めるようでどことなく安堵したような口調でそう言うと、
「戦場に乗り込むってんなら、これは狼煙だな」
軽い冗談を飛ばしながら、苅谷は煙草の火を足で揉み消した。
ふっと軽く口元を緩ませた時、
―タタタタタタタタッ
遠巻きながら聞こえてくるリズミカルな音は、だが銃撃音であるのは明らかだ。
せっかく緩みつつあった口元をまた緊張で強ばらせながら、咄嗟に苅谷に縋るように目をやる。現場に慣れている苅谷ならば、的確な指示を与えてくれるだろう。
そんな彼は険しい顔付きで、胸元に手を差し込んでいた―まるでそこに何かがあるかのように。そして手を引き抜くと、関に目を合わせて重々しい口調で言った。
「お嬢ちゃん、こっから先はどうやら本物の戦場みたいだ。気ぃ引き締めてくぞ」
「了解。望むところです。ポッド、スタンバトンの使用許諾並びに発砲許可申請をお願い」
【[報告]スタンバトンの使用は既に承認されています】
ポッドが内蔵された格納庫(ストレージ)からスタンバトンを渡してくる。
「あれ? 苅谷さんの分は?」
渡されたスタンバトンは一本のみ。これでは、せいぜい自衛が関の山だ。
「俺の事は気にするな。体術で何とかなるさ」
威勢良くそう言う苅谷の言葉には偽りの色は無く、信じて良さそうだった。
「分かりました。ではポッド、発砲許可申請をお願い」
【[了解]】
それに、と苅谷は付け加えた。
「劉司が先行してるはずだ、あいつが首尾よくやってくれてりゃ俺達の仕事は無いしな」
それが場馴れしていない関を安心させる為の気遣いである事は確実だ。関は彼の優しさに目配せで謝辞を送ると、深呼吸をした。
そして、銃声の聞こえてきた方角へと走り出した。
「ポッド、生体スキャンの結果はっ!」
【[報告]個体数五。そのうち四名は武装しているものと思われます】
「苅谷さん、どう思いますっ?」
「恐らく非武装なのが劉司だなっ」
お互い息も絶え絶えながら言葉を交わす。
「そんな……発砲許可はまだなの?」
【[肯定]申請受諾には複数の手続きが必要となるため、相応の時間を要します】
「くっ―武装してる奴らの兵装を奪って使用するのもダメなの?」
【[肯定]司法院の約款により、その行為は固く禁じられています】
「それじゃ、都原さんが……っ」
「落ち着け、お嬢ちゃん。劉司だって手練だ。その辺のゴロツキに殺られるほどヤワじゃないさっ」
「でも……」
「関補佐。これだけは言っとくが、先ずは自分の身を守れっ」
一息に言うには苦しいのだろう。一度途切れて、
「他人の命までも救おうというのは二の次だっ」
「それは―」
刑事の在り方として間違っている、と言おうとした。
だが、先を行く壮年の刑事の背中はその言葉を甘んじて受け入れる広さを持っているように錯覚された。あまつさえその上でなお、前言は撤回しないという意志までも感じられた。
「それが―経験ってやつですか……っ」
「そうだ。経験に学べっ。これは俺からの諌言だっ」
タタタタタタタッという例のリズミカルな音は徐々に大きくなっている。目的地はすぐそこまで近づいているという事だ。気を抜けない死地が眼前まで迫っているという見方も可能。
つまり、こんな事で悩んでいてはほぼ確実に死ぬ。
「私は……」
言葉に出して言わなければ。これだけは。
「私は―私が正しいと思った事を実行します」
「……」
苅谷は苦々しい顔をして、だがなお反駁する事はなかった。
***
鉛玉が、命に吸い寄せられるかのように容赦無く迫ってくる。
都原はコンテナを遮蔽物に利用しながら、発砲している場所を目の端に捉えつつ、徐々に間合いを詰めていた。
既に数箇所かすった跡があり、うっすらと血が滲んでいる。
コンテナの織り成す迷路の曲がり角に差し掛かる。慎重に様子を伺うと、敵の背中がひとつ見えた―こちらには気付いていないようだ。
(今だっ!)
ばっと駆け出して、一気に背後まで詰め、スタンバトンを思い切り振り下ろす。
「うぐっ」
薄汚いパーカーを羽織った男は、苦しげに呻いて倒れる。
物音がたたないように、手で押さえて静かに地面に横たえる。死に至る程の電流は流れないように調節してあるので、死んではいないはずだ。
処理を終えて改めて周囲に気を配ると、銃声が止んで何か潜めた声で会話している音がする。どうやら相手側はこちらを見失ったらしい―飛び道具を持たないこちら側としては、不意打ちをかけられるのは好都合だ。
スタンバトンを握り直して、軽く息を整える。訓練はこの数倍も過酷な環境下にあったので、この程度で息が上がることはないが、命の押収を繰り広げる現場の緊張感というものに、都原は些か押し潰されそうになっていた。
「にしても―苅谷のおっさん、遅ぇな……さっきの銃声で場所は割れてるはずなんだがな」
苛立ち紛れにスーツのネクタイを緩める。こんな時でもスーツで決め込まなくてはならないのが、公務員の辛みというものだ。
すると、耳に装着していたイヤホンからポッドからの音声が流れてきた。
【[報告]発砲許可申請許諾。任意発砲が許可されます。銃器使用の際には、民間人への被害が出ないよう細心の注意を払ってください】
「って言われてもなぁ。残念ながら俺は苅谷のおっさんと違って銃は持ち歩いてねぇんだわ」
そう言うと、都原はよっと敵のマシンガンを取り上げた。そして、照準を覗き込んだり、リローダーの調子を確認し、それがまだ使えるものであることを確認していると、彼は不可解なことに気づいた。
「このマーク、見覚えあんぞ……たしか……」
そのマークは、縦長の楕円の上に重ねるようにオリーブの彫刻が施され、その上を剣が貫いている。
既視感を覚えて頭を悩ませていると、残党の声がかなりはっきりと聞こえてきた。
身の危険を感じた都原は、咄嗟の判断で転がって近くの曲がり角に隠れた。すると間もなく、乱れた足音が大きくなってきて、途中で途切れた。
「ajbck…юёsk㎎jbsfvvl∂wn㎜gjcdsь£gn,ndisk」
「sbvglmqffcjilsfncnanricv;skfvndnclfndjsjsbslv」
音節からして、日本語で無いことは明らかだ。先程の妙に訛った日本語は話せるところを見ると、それなりに日本での生活はしているものと思われるが―
(それにしても珍しいな、今どき外国人滞在者などがいるとは……)
「Xbalfnc_ecna_mc;dkbbjflc~d!」
がなり立てるような声がする。何やら指示が出されたようだ。
足音がバラけたところを見ると、敵は散開した様子だ。
ふっ、と。都原は軽く息を吐き出す―この期に及んで、相手方が逃亡或いは投降してくれるのではないかという甘い期待をしている自分に対しての呆れか、嘲笑か。なんであれ、このまま相手方の狼藉を見逃すのは、許されない。
都原は一度体勢を立て直すために、その場をそっと後にした。
***
時を同じく苅谷と関も、都原のいると思われる倉庫へと辿り着いていた。
「ここ、で間違いないですよね?」
「生体スキャンの結果が保証してる。行くぞ」
慎重に中の様子を伺っていた苅谷がゴーサインを出す。関はそれに従って、素早くコンテナ群の中へと駆け込んで行った。
「こりゃ、地の利を活かした戦略戦って訳か。やっこさんたちの方がことここに関しちゃ十二分なアドバンテージだな……」
苅谷は苦笑する。その顔に、平生の余裕は無かった。
「苅谷さん、ここは二手に分かれるというのはどうでしょう?」
そんな関の提案を、だが苅谷は一蹴した。
「ダメだな。奴らはまだ四人残ってる。別れて行動する効率より、出くわした時のリスクの方がデカい」
それに、と苅谷は付け加える。
「言ったろう。劉司だってプロだ。簡単にくたばったりはしない。だから―」
「だから、焦る必要は無い、と?」
そういう事だ、と目配せして、苅谷は立ち止まるよう合図した。
目の前には曲がり角が迫っている。
「誰かいるんですか?」
声を潜めて尋ねる。
「分からん……用心しろ」
懐に手を入れ苅谷は慎重に近づいていく。関もスタンバトンをぎゅっと握りしめる。
曲がり角まで来ると、苅谷はこなれた足取りでさっと躍り出て危険が無いことを確認する。
「―さすがです」
キャリアの違いに舌を巻くと、
「賛辞は帰ってからじっくり聞かせてもらおう」
口の端を少し緩めた苅谷だが、一秒たりとも気を抜いていないのが目付きから伝わってくる。
少し進むと、今度は分岐路に突き当たった。
「分散するのは危険だな。どう思う?」
首を捻って、苅谷が聞いてくるが、答えは決まっている。
「私も同感です―さっきから場がやけに静か過ぎます。なにか相手側に策略があるのかも」
顎の無精髭を擦りながら苅谷は頷いた。
「お嬢ちゃん、流石だな。初現場にしてはさほど緊張していないと見える」
「そんなふうに見えますか……内心、緊張でガッチガチですよ、もう」
「ハッ、そうか。そいつぁ、また違った意味で豪気だな。見た目だけでも相手の優位に立ててる。そりゃ、素晴らしい事だ」
褒めそやしていると、関のイヤホンにポッドの音が聞こえてきた。
【[報告]発砲許可申請許諾。発砲が許可されました。民間人への被害が出ない様細心の注意を払ってください】
その旨を伝えると、苅谷は「よっしゃ」と言って胸元から一丁の拳銃を取り出した。
「それは……」
見た目からして物騒な代物だ。無機質に光を反射するボディは、人を殺めるというのも納得な冷酷さを兼ね備えているように見える。
「コイツは俺の相棒だ。過去の遺産と言って差し支えないかもしれんな―もうこの型のマグナム使ってる奴なんていないだろうからなぁ」
シリンダーをいじる苅谷の手のひらには黄金色に輝く流線型の弾丸が六発乗っている。
「しかもなぁ、これは特別に改造してもらったブツだからな。威力は通常のコルトパイソンの倍といった所か」
カチャリとシリンダーを嵌めて、照準を定める。それからすっと銃身を引くと、こちらを見つめて苦笑混じりに言った。
「なぁに、お嬢ちゃん。そんなビビんなくても平気だよ。別にこれに頼るのはホントにヤバいって時だけさ」
自分の命を刈り取ろうと狙っているのではないかと見紛う程の底の無い煌めきが、関を震え上がらせていた。
底知れない恐ろしさを秘めているが、この恐怖の根源が何であるのか関には見当がついていた。
忘れるはずがないあの記憶。その断片に埋め込まれた無機質な輝き。それに酷似したものを苅谷が持っている。
―いつその銃口を突きつけられるかもわからない……
取り留めもなく他愛も無い事を考えていると、またもやイヤホンから音声が流れ込んできた。
【[確認]一件の通信を受信。交信しますか?】
ポッドの提示する情報を確認して、苅谷に知らせる。
「都原さんからです。ポッド、繋いで」
【[了承]交信を開始します】
通信が繋がるまでに少しの間があって、それが途切れるとすぐに堰を切ったように騒々しい音が流れ込んできた。
それは様々な音が入り交じったもので、宮原の置かれた状況が如何に逼迫したものであるのかを物語っていた。
「……都原さん?」
声をかけても、都原本人の声が返ってこない。
「都原さんっ!」
再三呼びかけても、一向に応じない。
何故通信を要請したのか、これではわけが分からない。
苅谷は関の反応から事態があまり芳しくないと判断したのだろう、マグナムを構えて今にも応戦しようという感じだ。
「行きましょう、苅谷さん」
「言われなくとも」
頼りがいのある風格をしているなぁ、と関は思う。
だが彼の握るあの銃は、自分を殺しかねない獰猛さを内に秘めているように見えてならない。
あの銃口が自分に向けられる日がいつか来るかも分からない―何故そう考えてしまうのかは自分でも判然とはしないが、だからこその言いしれない恐怖が足をすくませる。
現状では彼に頼るのが最善だが、これから先事態はどう転ぶか分からない。
もしかしたらこれが彼の言う経験則かもしれないな、と関は一人そう考えるのだった。
銃声が轟いた。ひっと身を震わせるが、発砲音がしたのはどうやら思ったより遠くらしい。
矛盾し理解し兼ねる現象に首を捻るのと対照的に、苅谷は合点がいったという様子で一人呟いた
「なるほど、劉司。そういう事か……お嬢ちゃん、さっきの通信はONになってるよな。音が重なって聞こえてこなかったか?」
関は今まさに体験した不可解な現象を苅谷が口に出したので驚いた。
「そうですけど―何故苅谷さんがそれを?」
イヤホンをつけ直しながら関は尋ねる。
「何故俺がそんな事を知ってるのかって?音漏れを気にしてるのか? だとしたら違うな。こいつぁ、俺の勘だ」
「勘?」
「そう訝るなって。整理してみろ―俺達には劉司の位置は分からないし、奴からも俺達の位置は分からない。だったら何らかのランドマークを打ち立てるしかないだろう」
「つまり、さっきの交信は合流するための布石だ、と。そういうことですか?」
大きく頷いて、苅谷は続ける。
「その通りだ、お嬢ちゃん。共通の情報から探り当ててくれって魂胆だ。あっち側から何かしらの合図をするのはそれこそ自ら死にに行くようなもんだからな」
だったら自分のすべきことは決まっている。
「発砲音はかなり近くから聞こえてました」
「てことは―この先で合ってるな。こっちからはだいぶ離れていたから、まだ距離はある。気を抜くな、お嬢ちゃん」
「言われなくとも、注意はしまくってますよ」
そう言ってふっと微笑んだ時だった。
「お嬢ちゃん、しゃがめっ!」
苅谷が鬼々迫る形相で叫んだ。何があったのかは分からない。だがその声量に気圧されてしゃがみこむと、苅谷は手に持っていたマグナムを構えた。
そこから数秒間の出来事はあっという間だった。
苅谷が何かに向けて発砲し、それに伴って、生暖かいものが顔にはねるのを感じた。
それを不快に思って手で拭い取り見やると、手のひらが紅く塗られている。
「か、苅谷……さん?」
銃を片手に持った苅谷が、手を差し伸べてくる。先程の切迫した様子はなく、ただ悲哀の色が漂っている。
「じょ、状況の説明を求めます」
「お嬢ちゃん、振り向かない方が良い……先を急ぐぞ」
何とか絞り出した質問だったが、苅谷はそれに答えるつもりは無いらしく、マグナムを構え直した。
「多くても、あと三人か……」
そう呟く苅谷の声が微かに聞こえてくるだけだった。
「あと三人って」
ポッドの報告では、敵はあと四人いるはずだ……それが一人減るなんて、おかしな話だ。
―都原さんが倒したならまだしも、特にそれらしき合図はないし……
振り向くなとは言われたが、答えは全て背後にある気がして。
そっと振り向いて後ろで繰り広げられた惨劇を目にした関は、
「ひっ……」
口元を押さえる。吐き気が急激に襲ってくる。喉に一気にせり上がってくる感覚がする。
―えずくと、本当に吐いてしまいそう……。
関の目の前にあるのは、もはやただの肉の集合体でしかない。生産的な活動は今後もう二度とできない。
大きく見開かれた目からは完全に生気は消え失せていて、恨み言でも叫びたそうに広げられた口からも言葉が発せられることは無い。その口の奥に潜む闇が、あたかも自分を吸い込もうとしている錯覚に襲われて、関は逃げる様に後ずさって、尻をついた。
「い、いや……」
だが、恐怖に凍り付いた身体は関に、目を逸らす事を許さなかった。目はありのままを見つめさせ、鼻はあるがままを嗅がせ、耳はあるがままを聞かせ、手足はあるがままから逃げることを決して許してはくれなかった。
もはや生気の無い胡乱気な目と目が合う。少し目線をずらすと、眉間の所に綺麗な丸い穴が開いていた。
―あぁ、あの穴がこの人から命を奪ったのだ。
その穴からは、まだ暖かい血が流れ出ている。
血は命の源だ、と誰かの声が脳内にこだまする。
見て御覧、あぶれた命が零れ落ちていくよ。君は、助けてあげないのかい?、と。
「も、もう……」
―手遅れだ、あの人はもう既に死んでいる。
―それに……あの人は、社会に仇なす輩。天誅が下ったに違いない。
天誅、か。でも―。
そこで声は途切れて、一瞬の間が生じる。
でも、殺したのは他ならぬ君じゃないか。
そう、無慈悲に告げてくる。
君なら助けられたかもしれない。彼らを殺すつもりが無いのなら、発砲許可を彼に伝えないという選択肢だってあったはずだ。
だけど―君はそうしなかった。みすみす見殺しにした。
さぁ、このまま残る四人も君は殺してしまうのかい?
それとも、と。囁くように声のトーンを落としてその声は言った。
君は、君の出来ることをすべきだ
謳い終わったのか、外界の音が戻ってくる。それと同時に変な金縛りも解けたのを感じる。
―余韻を残すようなあの謳い方は、以前にも聞き覚えがある。
苅谷に合流すべく歩を速めながら、関はポッドを呼び寄せた。
「ポッド、残存敵兵数は?」
【[報告]周辺をスキャン。生体反応は、五名】
「また一人やられてるっ!」
状況に追いつけない自身の力の至らなさに、関は歯噛みする。
たまらず関は駆け出した。
両側にそりたつコンテナのせいで方向感覚が狂わされる。だが、所々にある分岐路のいずれにも進むべき道が、チョークで示されていた。
それに従って全力で駆け抜けていくと、先程と同じマグナムの重厚感のある発砲音が聞こえてきた。
その音を目掛けて突き進むと、銃口から発せられる硝煙に巻かれた苅谷が立っていた。
「苅谷さぁぁぁぁんっ!」
「なっ」
人差し指を唇に当てる刈谷だが、関はそのまま苅谷へと突進した。そして、手に持っていたスタンバトンを振り下ろす。
「お嬢ちゃん、正気かっ!?」
横に逸れてすれすれで躱した苅谷は驚いて声を上ずらせながら、マグナムの撃鉄を引いた。
「あなたは―人を殺したっ!」
スタンバトンを構え直す。刈谷の顔には逡巡の色が見て取れる。
「俺の任務には、お嬢ちゃんの警護も含まれてたんだが……致し方ない」
カチャリ、と。苅谷は堂々とマグナムの銃口を関に向けた。
「冗談のつもりですか?」
「冗談じゃない。俺は―任務に支障が出るようなら、それがたとえお嬢ちゃんでも排除するっ!」
空気が一気に張り詰める。殺傷能力の差は歴然としているが……
【[警告]一体の生体反応が接近中】
それと同時に、一人の男がマシンガンを抱えて走ってきた。
「苅谷さんっ! それに、関さんっ! 走ってっ!」
それは、都原だった。
弾かれたように銃を下ろすと、苅谷は何事もなかったように声を掛けてきた。
「聞こえたか、関補佐官。急ぐぞ」
関も気が抜けた様に構えを解くと、駆け出した。
「劉司っ、何があったんだっ!?」
「爆弾ですっ、やつらよっぽど隠したいものがあるようですっ」
「視認したのかっ!?」
「いえ、直接は……っ。ですが、爆弾の存在を仄めかしてましてっ」
来た道をどんどん戻っていく。印がつけられている御蔭で、道を誤る事はなさそうだ。
「外部からリモート式の可能性もあるなっ」
「その件なら、私の方から既に本部に連絡、リモート爆弾の電波逆探知要請済みですっ」
前を行く二人の会話は耳に入っているが、考えているのは全く別の事―他でも無い、あの声だ。
苅谷と対峙したまではよかったが、結局二人を見殺しにしてしまった―自分の無力さにはつくづく嫌になる。
例のあの一件以来、自分が何も変わっていないという事を実感する。
先程の死体の脇を通り抜ける。眉間の穴から出ていた血はもう底を突いたのか、ぽっかりと浮いていた。
倉庫の入り口には、犯罪捜査課の方から車が回されてきていた。
「乗ってくださいっ、時間がありませんっ!」
慌てて駆け込むとドアがバタンと閉まる。
運転席には誰も乗っていないが、発進する。急発進なせいなのか、後ろにぎゅっと押し付けられる感覚がする。
「爆弾の威力は分かるのか、劉司?」
「如何せん爆弾の個数が分かりません。単体の威力が小さくても、合わせたら馬鹿デカいなんてことも有り得ますから」
「取り敢えず、港湾地区を離脱します」
息を整えながら車窓から外を眺めていると、自分たちの乗ってきたバイクが止められていた。
「苅谷さん、バイク……」
隣に座る苅谷に声を掛けると、苅谷はおもむろにこちらを向いて言った。
「あれはもう手遅れさ。今ここにある命だけで十分だ」
妙に達観したような口ぶりな苅谷だが、果たして本音がその通りなのかは分からなかった。
―両手の握り拳が無ければ、少しは頷けたかもしれない……。
港湾地区の倉庫街から抜け出して、開けた道路に出る。
まるでその時を待っていたかのように、背後からけたたましい爆発音が聞こえてきた。
振り向くと爆発が連鎖していっているのが分かった。
「これは……」
あまりの惨状に言葉のない関。
「こいつぁ、時限式か?」
呟きながら、自身の経験則に照合でもしているのだろうか。
都原は、ポッドを起動して通信している。
後部座席に座っている関は、目に映る炎を心穏やかに眺めていた―あたかも全ての懺悔をあそこに置いてきてしまったかのように。
あそこで見聞きし経験したことは実は全て絵空事で、架空のものだったのかもしれない
―いや、そうでなくてはならない。だって、人が死んだのだから。そんな事が有り得っこない。人が人を殺すなんてそんな無秩序な社会が広がっていて良しと出来る筈がない。
「お嬢ちゃん―」
ぽんと肩に手を置かれた。これは、苅谷の手だ。人殺しの血塗られた手なんかであるはずがない。
と思った次の瞬間、車外に投げ出されていた。背中から地面に叩きつけられる。
「うぐっ……」
衝撃に苦鳴を漏らすと、
【[実行]指揮権所有者(コマンダー)の身辺の危機を察知。保護バリアを展開します】
状況を理解する間もなく、ポッドが間髪入れずにコマンドを実行した。
背中の痛みに涙の滲む目をこすって漸く視界がクリアになった時には、関の目の前にあったのは犯罪捜査課の方から回された車ではなく、ただの鉄塊だった。
「これは……」
動揺を隠しきれず目を泳がせる関だったが、事態は徐々に理解し始めていた。
どうやら、乗っていた車にも爆弾が搭載されていた事。
爆発の巻き添えを食らいそうだった所を苅谷に助けられた事。
ポッドのバリアがあった御蔭で爆風を凌げた事。
苅谷には爆風をしのぐ術は無いはずだ―という事は、今の爆発の巻き添えを食らった可能性がかなり高いという事。
それら全ての答えを求めて都原の方を見やると、彼は既に立ち上がっていた。
「シグナルの逆探知は上手くいったようですね。別働隊の方で対処中の様です」
「あの、苅谷さんは……?」
「あぁ、彼なら大丈夫です。本部の方へ移送しましたので」
―本部への移送? 今さっきまでここにいた人物をどうやって?
「これから私も本部に戻りますが、貴女も同行という形で良いですね、関補佐?」
都原は特に返事を求めていた訳でもないらしく、また別段苅谷の身の上を語る気もないらしく淡々とその後の流れを伝えただけだった。
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