第5話 【五】
「ご家老」
「な、なんだ?」
ただならぬ気配を察したのか、山川は警戒するような目つき。
「それがしは、学問がしとうて参府したのです」
「……う、うむ」
「なれど、学問所への通学がかなわぬばかりか、こたびは交替なしで近侍せよとのおおせ。しかも、男のそれがしに、乳母代わりになれとまで。
いかに上意とはいえ、いささか常軌を逸した御命令かと。
やはり、それがしごとき若輩に、近習という難しいお役目はつとまりませぬ。
このうえは、即刻、任を解いていただきとう存じまする。
山川さま、さようお取り計らいいただけませぬか?」
「……大野……」
さわやかに笑う少年に、絶句する江戸家老。
「いやじゃーっ!」
滝涙で絶叫する若君。
「いってはならぬー!」
「ふふふ、そうやって一生わがままをおっしゃっていかれるのですか?」
清々しいほど吹っ切れた大野には、もはや恐いものなどない。
「いまは唯一の男子として、かしずかれておいでですが、殿とてまだお若い。
今後、いく人も御子をもうけられましょう。その中に、より優れた御子がおわせば、わが殿は嫡出・庶出・長幼にはこだわりますまい」
十五、六の少年のものとは思えぬ皮肉なほほえみに、金之助が固まる。
「「「な、なんということを!」」」
「「「無礼なっ!」」」
『いくら血筋がよくても、こんなボンクラ、いずれ廃嫡されるだろう』という過激発言に、正室付奥女中たちは激怒。
「若年とは申せ、臣としてあるまじき暴言っ! このこと、必ずや殿のお耳に! 覚悟いたせ!」
さっきまでのねこなで声から一変。憎悪の眼でにらむ吉野。
だが、この状況はすべて想定内。
「『一、婦女子の言、一切聞くべからず』っ!」
「な、なんじゃと!?」
「藩祖・土津公が
「おのれ、愚弄する気か!?」
「愚弄? ご家老、それがしはまちがったことを申しましたか?」
「いや、おぬしの言うとおり、その一条、たしかに御家訓に明記されておる。
土津公は、女子同士の争いから、幼きころはご自身の命をおびやかされ、後には姫君を害されたゆえ……」
老人は、豹変した少年を前に、困惑したようす。
「山川さま!」
般若と見まごう憤怒の表情で、吉野が猛抗議。
『御家訓』は、会津藩祖・土津霊神こと保科正之が定めた会津武士の精神的規範、いわば藩是。
以後、御家訓は藩政運営の柱となり、大きな決断をしなければならないときは、決定の指針となるくらい重要視されている。
また、御家訓遵守義務は藩主といえども例外ではなく、会津では毎年正月、家臣を広間にあつめ、儒臣に御家訓を読ませる習わしがあるが、その際は藩主も座を儒臣にゆずり、下座でこれを拝聴することになっている。
それほど御家訓は、会津藩にとって絶対の掟だった。
大野はそこに目をつけ、御家訓を主張の根拠とした。
御家訓にのっとっている以上、山川も奥女中たちも大野の言葉を全否定できない。
「さらに――」
山川の反応に力を得、少年は声をあげた。
「『一、賞罰は家老のほか、これに参知すべからず。もし位に出る者あらば、これを厳格にすべし』っ!
それがしの処遇については、ご家老がたがお決めになられます。
家中の賞罰に奥向きが策動するは、先ほどの条項とともにご法度。
それをあえて侵すというなら、処罰されるのはあなたがただっ!」
「な、なまいきなっ!」
「われら奥の者は、殿近臣に縁者も多いのだぞ」
「そなたごとき軽輩、かんたんにひねりつぶしてくれる!」
「『一、士を選ぶに、
藩主たる者、口のうまい佞臣を近づけてはならぬとされております。
また、
『一、近侍の者をして、人の善悪を告げしむるべからず』
もし、近侍の者が、身内の女子に言われるまま讒言をおこなえば、それも御家訓違反。
一方で、このような言を取り上げ、処分をおこなうようであれば、殿もそれまでの御方。
ちまたで賢侯と賞されるわが殿も、そのじつ大した人物ではなかったということになりましょう」
「「「不遜な青侍めーっ!」」」
「大野……おぬし……」
「『一、政事は利害をもって、道理を
――政治は利害関係を排除し、道理を曲げずおこなえ。
評定の場では、私情をまじえた不公平な心から、他人の発言を拒むようではいけない。
それぞれ思うところは包み隠さず述べて議論をつくすべきだが、どんなに意見が対立したとしても、持論のみを押し通そうとしてはならない。
はたして、このようなことが若さまにおできになりましょうや?
つねにご自分のお気持ちばかり優先で、周囲のことなどまったくお考えにならぬこの方に?」
「「「……若さまに……なんという……」」」
「『一、もしその志を失い、遊楽を好み
今のようにイヤなことから逃げまわってばかりでは、藩主としての心構えなど育ちようもありませぬ。
そうなれば、遊興におぼれ、瀟洒な生活にふけり、やがて家臣や領民を苦しめる暗君になるは必定。
果ては、なにか不祥事をしでかし、家名に泥を塗り、ご公儀より蟄居謹慎のお沙汰を受けるやもしれませぬ。
さような御方に仕えるくらいなら、いっそ浪々の身となったほうがマシでございます」
「「「…………」」」
「なにしろ、しかるべき師の推薦があれば、浪人でも昌平黌に通うことは可能。
かような暗君のもと、理不尽な勤めに甘んじ、精神を削られる日々に耐えずとも、その気になれば学問の道をきわめ、活路を見いだすこともできるのです!」
少年は、沈黙する大人たちをしばし観察したあと、最後の仕上げに入る。
「ご家老」
「……む?」
「『乳母に』と言われ逆上し、つい分もわきまえず、殿および若君に対し許されざる言を口にしてしまいました。
かくなるうえは、山川さまはじめご家老衆のご裁定に従い、いかなる処罰も受ける所存」
開き直る少年に、反論する者はひとりもいなかった。
「『いかなる処罰も』、か……」
山川がのんびり復唱。
「ここで大野を罰しては、逆にわれらが殿のご勘気をこうむるでなぁ」
「「「なんですと!?」」」
「山川さま、この者は若君のみならず、殿に対しても暴言をはいたのですぞ! しかるに、それを罰したご家老がたが叱られるとはいかなることですか!?」
「吉野殿、まだわからぬか?」
「な、なにを!?」
「殿は、まさにかような事態をおそれ、若さまを表にお移しになられたのだ」
「「「かような事態とは!?」」」
「すなわち、われら家臣一同、若さまがわがままをおっしゃられた折には、理を
このようなことを繰り返し、増長させてゆけば、大野の言のごとく、いずれ手のつけられない暗君になられよう。
それは、決して若さまにとって、良いことではない。
たしかに、そなたらが申すとおり、この御歳で奥から出されたは哀れだが、殿とてそこはじゅうぶんお考えになられてのご決断。
すべて考慮なされたうえ、若さまが奥にて悪しき風に染まるを懸念され、表に出されたのであろう。
これは、本来ならば、傅役たるわしが先に気づくべきところであったが、こたびは出仕まもないこの者に教えられた。
今回のことで、万が一、大野が罰せられるようならば、会津も終いだ。
なにしろ、大野の言い分は、すべて御家訓に沿ったもの。
殿とて、土津公の定められた藩是に逆らうことは許されぬでな」
「「「…………」」」
「ということで、若さまはこの山川が責任をもって扶育いたす。奥の口出しは無用。奥方さまには、さようお伝えくだされ」
山川はそう言って、奥女中たちを中に押し込み、境戸を強引に閉めた。
「さてと……」
戸を閉め切ると、山川は大野にむかってニヤリと笑いかけた。
「おぬし、ことさら過激な言を口にし、ご不興をかって、御役御免となるを謀ったのであろう?」
「……な、なにをおおせに……」
「主君に対し批判めいた発言をいたせば、近習を罷免され、多少の家禄削減はあれど、わが殿のお
(……まさか……!?)
余裕の笑みをうかべる老臣に、少年は愕然とした。
「ははは、あいにくと殿はおぬしのような硬骨漢がなによりお好きでな。
かような歳で、歯に衣着せず直言する、恐れしらずの諌臣を、簡単に手放されるはずがない。
ゆえに、当分、会津に帰れると思わぬほうがよいぞ」
(……見ぬかれていた……)
自暴自棄をよそおって暴言を吐き、上層部の不興をかって、解任のうえ強制帰国――という大野のもくろみは、どうやら山川に看破されていたようだ。
「日新館一の秀才とは申せ、まだまだ青いのう」
赤面する若者を見、愉快そうに笑う古老。
「しかも、もうひとつの思惑もはずれたようだな」
「もうひとつ?」
「金之助さまだ」
「若さま?」
そううながされて目をやると、角前髪の主君はいつものように大野の羽織をつかんだまま、グスグスベソベソ。
「あえてキツイ物言いをし、わざと若のお心が離れるよう仕向けたのであろうが、うまくゆかなんだのう」
「……とうまぁ……」
グスグスしゃくりあげながらも、黒羽織の裾をしっかりにぎって離さない金之助。
「あれほどのことを言われたら、ふつうはおぬしの思惑どおり、疎まれて遠ざけられるものだが、お小さいながら、若さまも父君同様、人を見る目はおありのようだ」
「……ご家老……」
たしかに、いくら憤慨のあげくとはいえ、小さい子どもに対して言っていい言葉ではなかった。
それなのに、あれほど侮辱した大野を、金之助は前とかわらず慕ってくれている。
(……あんなにひどいことを言ったのに……)
そして、大野が根拠とした御家訓には、
『一、主を重んじて、法を
御家訓を引用して大人たちをやりこめておきながら、自分自身はそれに反し、幼君に非礼をはたらいてしまった。
(……とんでもない矛盾だ……)
帰国をねらった一か八かの賭けはみごとに失敗し、少年は深い悔悟の念と強烈な自己嫌悪にさいなまれ、立ちつくした。
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