第4話 【四】
「「「……若さま……」」」
きょとんと
「昼は他の者がお世話いたします。連日宿直をつとめ、日中も近侍しては身体がもちませぬ」
「なんじゃと!?」
目と口を大きく開き、愕然とする金之助。
傅役の言葉に心底おどろいたようだ。
「ひるは、おらぬのか!?」
「では、それこそ『大野はいつ寝ればよい』のですか?」
怒る気力すら奪われた山川が、めずらしく優しい口調でさとす。
「とうまは、わしのそばにおらねばならぬ!」
「「「いいかげんになさいませっ!」」」
若君に甘い奥女中たちまでもが叱咤。
「いやじゃーっ!」
「「「若さまっ!」」」
「「「わがままが過ぎまする!」」」
「……いやじゃぁ……」
子どもの両目から大粒の涙があふれ出る。
「ちちうえは……(うぐうぐ)……とうまが、わしをまもると……(うぐうぐ)……とうまがおらねば……(うぐうぐ)……だれがじいから……(うぐうぐ)……わしを……まもってくれる……(うぐうぐ)」
「「「はぁぁぁ!?」」」
(……なるほど、若君が、あれほど
ずっと不思議だった謎がようやく氷解した。
たしかに容敬は初対面のとき、大野を「そなたを守る者」と言って引き合わせた。
だが、それはいうまでもなく、外部からの攻撃を防いだり、将来、金之助が藩主となったとき、家臣として
ところが、金之助は父の言葉を曲解したのだ。
「そなたを守る者」――山川の小言をはじめ、自分がイヤだと感じるすべての不快感を防御する盾だと。
(…………)
口々に説教をくらわす大人たちをよそに、大野はただただ唖然とするばかりだった。
「……(うぐうぐ)……とうまぁ……(うぐうぐ)……」
富士山形のくちびるからもれる嗚咽。
泪にぬれた、すがるような瞳。
そんな主君を見、大野の心はどんどん冷えていった。
(……だから子どもは嫌いなんだ……)
少年はすっかりシラけきって、大人たちの狂態をながめつづけた。
「で、ではどうでしょう、若君の横で添い
場が膠着する中、青い打掛の女がおずおずと提案する。
『松嶋』と呼ばれたあの奥女中だ。
「「「添い臥し!?」」」
「はい、奥では乳母のわたくしが添い寝をいたしておりました。それならば、宿直をしながらも休めるのでは?」
「ふむ、たしかに傍らで子守唄をお聞かせし、若さまを寝かしつけたあと、己も眠ることができるのう」
苦渋の表情をうかべていた吉野の顔も、みるみる晴れていく。
「大野殿には、表における乳母代わりになってもらえばよいのじゃな?」
「さようでございます」
「「「名案にございまする!」」」
奥女中たちは拍手喝采。
「……やはり、数えの六つで奥から出すなど、どだいむりだったのです!」
怒りにふるえる乳母殿。
「まことに。殿は、お腹さまよりお生まれになられたご三男。生来お身体もお丈夫で、家臣に交じり藩校に歩いてお通いになられた気丈な御子。奥方さまのもうけられたご嫡男の金之助さまとはちがいます。ましてや、金之助さまは生まれつきご病弱というに……ご自分を尺度になされては困ります」
相づちをうつ吉野も恨みがましい口調。
「殿は、幼子のことなど、なにもわかっておられぬのです!」
「「「そうじゃ、そうじゃ!」」」
「無茶なことをなさる」
「「「若さまがおかわいそうです!」」」
ほかの女たちも、口々に主君を非難。
「……ほんに困ったものよ」
嘆息する吉野。
「じゃからのう、ここはひとつ、そなたに――「お断りいたします」
ニベもなく拒否。
「なにゆえ男のそれがしが、乳母代わりをせねばならぬのです?」
「まぁ、そういうな。若さまとて、奥から出されたばかりで心細いゆえ、あのように頑是ないことをおっしゃるのじゃ。あとひと月もすれば、今の暮らしにも慣れ、添い臥しも必要なくなるはず。それまで辛抱してもらえぬか?」
奥の実力者が、ねこなで声で機嫌を取る。
「できませぬ」
「そなたとて、弟妹の世話をしたことがあろう? それと同じと思うて……」
「それがしは、
ただしくは大野は次男で、兄は大野が生まれる前年に疱瘡で早世している。
「そうなのか? それにしては、幼子のあつかいがうまいのう」
「…………」
うまくなどない。
むしろ、子どもとの相性は最悪なはず。
大野には、兄弟姉妹はひとりもいない。
いないはずなのに、なぜか家にはいつも子どもたちがウロチョロしていた。
それというもの、母・志賀が無類のお人よしで、隣家のチビどもをしょっちゅう託児されていたからだ。
隣家の当主は、大野の父とは従兄弟同士で、家柄も家禄もほぼ同じ。
唯一ちがうのは、こちらがひとりなのに対し、あちらは子だくさんという点。
隣家ではほぼ毎年のように子どもが生まれ、つぎつぎ生産される子どもは身重の母親に代わって、親戚の大野家が手を貸さなければ育てられない状態。
そうしたわけで、男児は日新館に入る前の十歳くらいまで、女児は家事全般を仕込み終わる十二、三歳ころまで、邸内にも庭にもウロウロチョロチョロ。
ただし、男の子は六歳から『什』に入るので、その間はいないらしいが。
(たしか、そのチョロチョロ女子の、次女だか三女だか四女だかが大野の
大野は、日中は日新館に行っていたので、あまり実害はなかったが、帰宅してバッタリ出くわすと、どの子も無言で数瞬見つめただけでなぜか涙目になり、ひどいときには失禁までする始末。その都度、母には叱られる。
人語を解さない生き物は人と認識していない大野にとって、幼児や女児を積極的にいじめるという発想はない。
なのに、自宅でふつうに生活しているだけで、いわれのない叱責を喰らい、モヤモヤ。
だから大野は、若君がなぜ自分を追いかけてくるのかずっと不思議だったが、今日やっとその疑問が解けた。
ただ、号泣必至の
単に鈍感なだけか?
そうした環境にいたので、母の見よう見まねで若君を寝かしつけていただけなのに、まさかそこを評価され、窮地におちいるとは。
大野が子守唄やおとぎ話をしたのは、幼君に気に入られようとしてではない。
金之助がすこしでも早く寝てくれれば、その分だけ書物を読む時間が増えるからだ。
すやすや眠る主君の横で、掻巻を巻きつけて暖を取りつつ、灯火のもとで侍読に借りた希少本を読む……今はそれしか楽しみがない。
だが、添い臥しをするようになったら、それすらできなくなる。
昌平黌に通えるというから参府したのに、大望を断念させられたうえ、そんなささやかな楽しみすら許されず、乳母代わりに、だと?
想像をはるかに凌駕する若君の残念さ。
毎日のように見当はずれな説教・小言をあびせる藩重役。
理解不能な要求ばかり押しつける奥女中たち。
他人だらけの大都会で、理不尽な目に遭いながらも、家のために懸命に勤務した結果がこれ……バカバカしすぎて、笑えてくる。
(……ああ、そういえば……)
故郷から最近届いた文によると、年末にまた子どもを産んだ隣家の妻が産後の肥立ちが悪く、亡くなったとか。
その残された新生児は、今、大野の母が引き取って育てているらしい。
だから、おまえがいなくてもさびしくはない、母のことは心配するな、勤めにはげめ、と。
遠く離れた会津と江戸で、奇しくも同時期に『乳母』となることを求められた
(……だが……)
母はともかく、おれは乳母なんて、絶対にお断りだ!
大野は、あるひとつの決意を胸に、山川に向きなおった。
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