第3話 【三】
パタパタパタ
引き戸が開くと同時に、軽やかな足音が近づいてきた。
「もどったぞ~」
かわいい笑顔とともにあらわれた主君は、
「……じい……」
山川の姿をみとめたとたん、じりじり後じさりをはじめた。
また小言をくらうと思ったらしい。
と、そのとき、
「おお、山川さま!」
聞きなれぬ高音が耳朶を打った。
先刻、金之助を迎えにきた女のものとはちがう声。
「これは……吉野殿?」
老臣は記憶をたぐり寄せつつ応えた。
「山川さま、お久しゅうございまする」
帰還した金之助の背後には、きらびやかな衣装をまとった一団が随従していた。
その先頭の、ひときわ豪奢な朱の
三十前後の女――奥総取締役・通名『吉野』――は、金之助の生母・篤姫が輿入れのときに実家から連れてきた侍女で、それ以来この和田倉屋敷奥向を取り仕切っている。
「やはりそうでしたか」
高価な紅で彩られた口もとにうかぶ妖艶な笑み。
「やはり、傅役殿のご差配でありましたか」
「差配、とは?」
謎めいた物言いに眉をひそめる山川。
「ふふふ、相もかわらぬ謙遜ぶりにございますなあ」
「け、謙遜?」
「ほほほ、朝の顔合わせの儀にございまする。
奥方さまにおかれましては、本日は殿ご登城のため、若君とのご対面はかなわぬと思し召されていたところ、今朝は金之助さまおひとりでのお渡り。
この儀、傅役の山川さまのお心づかいに相違ないと、みなで申していたのです」
「あ、いや、それは、その……」
不可解な称賛に、老臣はしどろもどろ。
「うむ、じいは、ぞんがいやさしいのじゃ」
金之助が、絶妙な間合いで口をはさむ。
「ほんに。先ほど奥方さまも、『山川が傍におるゆえ安心じゃ』とおおせにございましたなあ」
「奥方さまが!?」
「はい。若さまが奥を出られ、日々いかがお過ごしかと案じておりましたが、こたびのことで一同安堵いたしました。
殿の急な御用により、朝のご対面はなきものとあきらめておりましたが、傅役殿は母君若君双方のお気持ちを
奥方さまにおかれましても、『殿は良き者を傅役につけてくださった』と大そうお喜びで」
「…………」
沈黙する山川を、大野は冷ややかに見やった。
若君を叱るどころか、奥方さまにそこまで褒めちぎられたら、今後、なにがあっても奥入りは認めざるをえない。
むろん計算ずくではなかろうが、結果としては金之助の望みどおりに。
この歳でそう指嗾したなら、とてつもない知略だが――。
(……まさか……)
出仕以来大野が目にしてきたのは、知略どころか、それとは正反対の醜態の数々。
そんな子どもが、大人たちの心理を自在にあやつり、自分の意図する方へ導いたりできるわけがない。
(……バカなことを……)
大人たちのやりとりをよそに、少年はひとり自嘲した。
(若はさような御子ではない。なにを考えているんだ、おれは……)
「して、そちらが大野殿か?」
突如、少年の上に声が降ってきた。
顔をあげると、女にしてはするどすぎる目が大野を凝視していた。
「大野、冬馬でございます」
いきなり話をふられ、大野はあわてて座礼。
「そなたのことは若さまからうかがっておる。なにしろ、近ごろはお渡りになるたび、『冬馬が』『冬馬が』ばかりでな。よほどお気に召されたごようす」
「若さまが?」
「まことじゃ。それゆえ奥方さまが近侍の者らに褒美をとおおせになられ――」
吉野は後ろをふり返り、
「お久」と、声をかけた。
その呼びかけに応じ、ひとりの娘が進み出てた。
「これを」
若い奥女中は、手にした三段の重箱を大野に渡し、
「奥方さまよりの下され物にございまする」
「わしのすきなかしじゃ!」
「菓子?」
「はい、これは若さまの好物にて、たんとございますれば余の者にも遣わすようにと」
渡された金蒔絵の重箱はずしりと重く、相当な量が入っているようだ。
「なればありがたく頂戴いたそう」
山川は軽く頭を下げ、大野に視線を送る。
『すぐさま若君を学習室に連れて行け』、ということらしい。
「では、われらはこれにて」
山川にならい、大野も立ち上がって一礼し、踵を返す。
「とうま~」
金之助が抱っこしてほしそうに両手をあげたが、
「ムリでございます」
重い下賜品を捧げ持つ大野は、つめたく突き放した。
「あいや、お待ちくだされ!」
去りかけた主従を、奥総取締役は強い口調で呼びとめた。
「じつは、大野殿に少々尋ねたきことがあるのです」
「それがしに、でございますか?」
いぶかしげに振り返る少年を、吉野は愉快そうにながめた。
「なんでも、そなたは若さまの一の臣だというでな」
「一の臣!?」
「いちのしんじゃ~」
「「「ずいぶんと若き寵臣ですこと」」」
からかう奥女中たち。
「大野はこの正月で十六。本来ならば、いまだ日新館に通う年ごろなれど、その才を見こまれ出仕しておる。この者も若さま同様これより受講がござるゆえ、どうかご容赦くだされ」
「いえ、話はすぐにすみまする」
重臣の抗議を軽くあしらう吉野。
「なれば手短に願いたい」
憮然とする山川。
「承知いたしました。では、大野殿、表に移られてから若さまはよく休まれておいででしょうか?」
「さよう、日々決まった刻限には就寝あそばされますが、どうにも寝つきがお悪く、みな難儀しております」
小姓には夜の不寝番勤務があり、主君の生活はみなで情報を共有しあっている。
若君の寝つきの悪さは、小姓全員の悩みのタネだった。
「やはりそうでしたか。奥においでのころよりそうでありましたが……」
物憂げにつぶやく奥女中。
「なれど、大野殿は他の者より寝かしつけるのがうまいとか?」
「とうまは、うたも、おはなしも、ようしっておるでな~」
返事に窮する大野を差しおき、金之助が答えた。
「「「まぁ、子守唄やお話を?」」」
「とうまのとのいは、たのしみなのじゃ~」
若君近習の
勤務形態は、朝番・夕番・泊番の三交代制を交互につとめ、まわしていくのだ。
「なるほど、宿直はまわり番(交替制)でしたな。では、他の者は唄やお話などは?」
「せぬ」
「ほかの近習はみなとうに二十歳をこえておるが、大野は年若ゆえ、子守唄やおとぎ話などもまだ覚えているのであろう」
ともすると先輩小姓への批評になりかねない話題を、老臣はうまく補った。
「「「なるほど、さようでございましたか」」」
奥女中たちの眼つきが、値踏みするようなものにかわる。
(……ちがう……)
大野は、喉もとまで出かかった言葉を飲みこんだ。
ほかの近習はもともと容敬の傍仕えをしていた者たち。
だから、幼児の求めなどいちいちまともに取りあわないだけだ。
一方、初出仕の大野は、幼君の上手なあしらい方などわからず、ついついバカ正直に応えてしまう。
その結果、宿直の夜は延々と子守唄を歌い、おとぎ話を語るはめに。
直近の泊番では、おそろしく寝つきが悪い金之助に半刻(一時間)ちかくも唄を所望されてヘトヘトになる始末。
だが、その不満をこの場で訴えるわけにもいかない。
「「「……さようなことなれば……」」」
女たちは目を見交わし、意味ありげに深くうなずきあう。
「山川さま、この者に毎夜宿直をさせるわけにはまいりませぬか?」
(――――)
「……なんと?」
「金之助さまは奥においでのころより、寝つきがようございませぬ。奥にては乳母が添い寝をいたし、寝かしつけておりましたが、表ではそうもまいりますまい。
なれど、毎晩ようお休みにならねば、病にもかかりやすくなりましょう。
ゆえに、この者が毎夜子守唄やおとぎ話をお聞かせいたさば、若さまも気持ちようおやすみになられるのではございますまいか?」
「それはよい!」
間髪入れず賛意をしめす金之助。
「無茶なことを申されるな! 宿直は輪番と決まっておる!」
語気荒く異議をとなえる山川。
「大野だけに、さようなムリはさせられぬ!」
ところが、
「いえ、ぜひやらせていただきとう存じまする!」
当の本人自らが懇願。
三交代勤務の場合、朝番は、明け六つ(午前七時頃)から四つ(午前十時頃)まで。
夕番は、四つから暮れ六つ(午後六時頃)まで。
泊番は、暮れ六つから翌朝明け六つまでで、宿直には夜食と朝食が用意される。
つまり、毎日不寝番をこなせば、明け六つから暮れ六つの勤め――日勤が免除されるうえに、藩邸で自炊する必要もなくなる。
独身生活で一番手間がかかる家事が食事作り。
二食を支給され、昼飯は市中にいくつもある一膳飯屋・屋台ですませば、その分学習時間も増える。
江戸は独身男があふれているので、外食産業が発達しており、値段も手ごろ。自分で食材や薪を買って炊事するより、安上がりかもしれない。
そして、宿直勤務が終わったら、その後一刻(二時間)ほど仮眠を取り、四つ(十時)に学問所へ。
八つ(十四時)に授業が終了したら、藩邸にもどって暮れ六つまで睡眠を取って、泊番に入る。
金之助を寝かしつけたあとは、その傍らで授業の復習、翌日の予習――これなら、出仕以来なしくずし的に断たれた通学も可能になる。
「それがしならできまする。ぜひともやらせてください! さすれば、通学の夢もかないますゆえ!」
「……大野、おぬしそれほどまでに……」
「ぜひ、さようお取り計らいください!」
あきれる山川に、たたみこむよう必死に願い出る。
(おれは、昌平黌に通うため、
昌平黌通学――それがかなわぬばかりか、江戸での役目が子守りだとわかっていたら、何とでも理由をつけて出仕を拒んでいた。
会津では、たとえ当主であっても、十六歳なら城勤めは免除され、藩校通学が認められるが、なまじ江戸などに来てしまったために……。
しかも、今にして思えば、本来なら三交代のはずが、金之助がなにかにつけ大野を呼ぶので、日中の勤めも朝から夕方までほとんど休みなし。
ほかの小姓たちは若君がなついているのをいいことに、近ごろはなんでも大野ひとりに押しつけてくる。
たしかに、若君とともに学習室で受講はさせてもらえるものの、その間は休憩あつかいとなっているらしく、早い話、早朝からヘタをしたら翌朝まで、ずっと金之助の傍近くに置かれている。
とはいえ、一度出仕してしまった以上、自分から職を辞するのはむずかしい。
だとしたら、この状況下で考えられる最善の道を選ぶしかない。
「そうか、受けてくれるか」
吉野の玉虫色のくちびるが満足そうにほころぶ。
「では、山川さま、この儀、よろしゅうお願い申しあげまする」
「まぁ、大野自身がよいというのであれば……」
山川はまだ不服そうにぶつぶつ。
こうして新たな勤務体制が満場一致で決まりかけたとき、
「とうまは、いつねるのじゃ?」
愛らしく小首をかしげ、金之助が無邪気に言い放った。
「ひるも、そばにいるというに」
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