第2話 【二】


「とうま!」


 現世うつしよに呼びもどす幼君の声。


「まいるぞ!」


「どちらへ?」


 目をしばたき、まとわりつく回想を払いのける。


「おくじゃ」


 子どもにしては端正すぎる貌をほころばせ、もどかしそうに袖を引っ張る。



 ところが、


「なりませぬ!」


 いましがたの好々爺然としたようすから一転。勝手な宣言に色をなす傅役。


「まもなく受講の刻限。奥入りするいとまなどありませぬ!」



 将来、一国の領主となる金之助は、諸学に通じていなければならない。

 そのため、四つ(午前十時頃)前には邸内の学習室に入り、侍読から四書五経・孝経・六諭衍義りくゆえんぎの講義を受ける予定になっている。


「いやじゃー!」


 傅役の叱責に、数瞬までの笑顔がゆがむ。


「わがままをおっしゃいますな!」


 さすがの山川も、今度ばかりは譲らない。


「いやじゃーーーっ!」


 極限までうるんだ瞳と、富士山形にむすばれた口もと。

 懸命に泣くのをこらえるその表情に、大野は戦慄した。


(……まずい……)


 出仕してから、早二カ月。

 イヤになるほど見てきたこの顔とその帰趨。

 一連の記憶が大野の身体を反射的に動かした。


「若さま、こちらに」


 両手をひろげて構えると、体当たりするよう飛びこんでくる金之助。


 その体をすばやく抱きかかえ、老臣の横をすりぬけ、室外に逃れる。 


「お、大野っ!?」


 小姓の意外な行動に、放心する傅役。


「申しわけございませぬ」


 謝罪の言葉だけを残し、大野は足を速めた。


「こ、これ、待てっ!」


 山川の怒声に、若君がいっそう強くしがみつく。


「待てというにーっ!」


 背後の絶叫をふりきり、少年は台所をめざし、走った。



 

 大名屋敷――とくに上屋敷は、将軍の居城・本丸御殿と似た造りになっている。


 会津の和田倉屋敷は、正門を入るとまず南北に細長い殿舎が三棟並行して建ち、手前の二棟は藩庁、奥の一棟が当主・容敬と世子・金之助が暮らす公邸となっている。

 ここは、本丸御殿でいえば表御殿にあたり、各棟はそれぞれ二本の渡り廊下でつながっている。


 容敬の正室・側室、奥女中たちが暮らす奥御殿は、御殿西に建つ別棟で、そこへは容敬の居室脇からのびる御鈴廊下か、台所の奥女中通用口――この二か所からしか入れない。


 金之助は、いつもは御鈴廊下から奥入りするのだが、そこは先ほどの座敷のすぐそば。山川につかまるおそれがある。

 そこで大野は、北の細殿(渡り廊下)から台所に出、奥女中用入り口にむかった。



 折しも下働きの女中たちが朝餉の膳を下げるころ。

 奥への引き戸は開け放たれ、数人の御末が忙しそうに出入りしている。

 大野はひとりの娘に声をかけ、奥への取次を頼んだ。

  

 この通用口は、男の世界『表』と、女の世界『奥』を分かつ境界。


 奥御殿は大奥同様男子禁制で、当主一家と許された客人以外の立ち入りは禁じられており、この先に大野は入れない。


 ふたりは板戸の前で奥からの迎えを待った。



「よういたした」 

  

 いったん閉じられた戸を背にし、上機嫌でねぎらう若君。


(なにをのんきな……)


 このあとどんな説教と小言が落ちるか、考えただけで胃の腑がキリキリ痛む。


「なれど、若さま」


「なんじゃ?」


「よいですか? すぐに戻られませ? 師たる御方を待たせてはなりませぬ」 

 

 子どもの眸を見すえ、きつく念をおす。


「あいわかった!」


 白い呼気とともに吐き出される元気な応え。

 その屈託のなさに、再度こみあげる苦笑。


「あまり遅くなりますと、この儀、殿のお耳にも達しましょうぞ」


 念のため、一番効果的な人物の名を出し、脅しておく。


「すぐもどる」


 気安くうけあう金之助に、力なくほほえみかえす少年。


「ぜひとも」

  


 と、

「「「まぁ、若さま」」」


 重い板戸が開き、中から数人の奥女中があらわれた。


「なにゆえこのようなところに?」


「まつしま~」


 金之助は濃紺の打掛をまとった女に抱きついた。


「ははうえに、ごあいさつをしにきたのじゃ」


「さようでございましたか」


「はよう!」


 じれたように命じる子ども。


「はいはい、ただいま」


 松嶋と呼ばれた女は、大野にちらりと目くばせすると、金之助の手を取った。


「では、急ぎまいりましょう」


 その言葉が終わると同時に、奥への洞戸は若い小姓の前でしずかに閉ざされた。




(……そうか……)


 大野はあることに気づき、息をのんだ。


(そういえば、けさは……)


 さきほどの泣き顔が、眼裏まなうらによみがえる。


(それで、あのような……)


 台所のつめたい床に座したまま、大野は分厚い杉戸を見つめた。

 

(ならば、こたびばかりは……)


 少年がついたため息は白い靄となり、板戸に描かれた紅梅の絵に当たって消えた。


(いつものわがままではなかったのか)




「大野っ!!!」


 至近からの大音声。

 あわててふり返った先には、自分を見下ろす怒気をおびた眼がふたつ。


「……や、山川さま……」


「どういうつもりだ、大野!」


 はげしい怒りのためか、はたまた急いで後を追ってきたせいか、せわしなく上下する両肩。


「まもなく受講の刻限ではないか! おぬしとて、それは百も承知しておろうが!?」


「そ、それは……むろん……」


 やましさとも羞恥ともつかない動揺に、思わず頬がそまる。


「な、なれど……」


「だまれっ!」


 弁明の機会すらあたえられない一方的な罵声に、心がはげしく波立つ。


(……理不尽すぎる……)


 出仕以来、いく度もかみしめている想い。


(なんで、おればかりこんな目に……)


 夢想していたのとはあまりにかけ離れた日々。

 学問をするために参府したはずなのに、くる日もくる日も近侍という名の子守り。


 約束された最高学府への通学は、なぜかなつかれてしまった幼君のせいで断念せざるをえなくなり、挫折感をかかえながら惰性で勤務をつづける毎日。

 

 なにしろ、若君は、大野が外出しようとするたび、


「どこへゆくのじゃ~?」

「いってはならぬ~!」

 と、泣きながら後を追って来、最後は号泣しすぎて嘔吐えずくほど。


 そんな幼児を置き去りにするわけにもいかず、結局、式台や廊下に吐瀉された汚物の始末をし、汚れた着物を着がえさせ、しゃくりあげつつも大野の羽織を握って離さない金之助をなだめ……そうこうするうちに、講義開始時刻となってしまい、その日も通学はあきらめざるをえず……。


 そうした騒動を数回繰り返した末、大野は通学を辞退した。


 最前、大野が金之助のようすに危機感を抱いたのも、それが外出を阻止したときとまったく同じ表情ものだったからだ。


「大野! 聞いておるのか!?」


 山川の声に我に返る。


「聞いております」


 とはいうものの、実は全く聞いていなかった。

 いつものように。


 いつものように爆発しそうな感情をこらえ、ただただ時の過ぎ去るのを待つだけ。

 ……のつもりだったが、今日はどうにも腹の虫がおさまらない。


「しかし、山川さま!」


 朝から続く説教に、大野の忍耐も払底したようだ。


「こたびばかりは、多少斟酌してさしあげるべきではございますまいか!?」


「なに!?」


 思わぬ反撃にたじろぐ江戸家老。


「今朝はまだ、若さまは奥方さまとお会いになられておりませぬ!」


「な、なんだと?」


「常ならば、朝はご家族で祖霊拝礼の儀がございます。

 なれど、けさは急な御召しにより殿はご登城。拝礼も、朝のお顔合わせもございませんでした。

 若さまは、母君にごあいさつをしに行かれたのです」


「そういえば、たしかに……」


 大野の指摘を受け、山川から怒りの色が引いていく。 


「そうか、奥方さまに……」


「金之助さまは数えの六つ。いまだ母君が恋しい年ごろにございます」


「……うーむ」



 半月ほど前、年があけ、正月の松飾も無事取れたころ。

 容敬は突如、嫡男金之助の居室を移すと宣言した。


「年もあらたまり、金之助も六歳になった。ゆえに、これより扶育は傅役の山川ら近侍の男らにさせる」


 代々二十三万石の大領をたまわり、北方警備の任を果たしてきた御家門一の尚武の家・会津松平家。

 しかし、容敬は、その重責が金之助に果たせるか心配になったらしい。


 生来虚弱で柔和すぎる気質が、いつまでも奥においていてはさらに助長されてしまうのではないか?

 ならば、通常より早く奥の女たちから離し、男手で厳しく躾けた方がよいのではないか?、と。


 そうした父の意向により、数え年六歳の金之助は奥から出された。


 これまでは、目ざめればすぐ母に会えたが、いまでは決められた時間のみ。

 そのため金之助は、母との数少ない面会時間をとても楽しみにしている。


 だが、けさは父が常になく早く登城したため、朝の顔合わせができなかったのだ。


 ――母上に朝のごあいさつを――


 懸命に耐えていたあの顔は、金之助なりの精一杯の矜持だったのかもしれない。



「たしかに昨年袴着を終えたとはいえ、若は師走の生まれ。

 数えでは六つだが、実際は四つになったばかり。奥入りを楽しみになさるのも道理」


 袴着とは五歳をむかえた男児の儀式。

 だが、どこの家中も元服直前まで子どもは奥で育てるもの。


 会いたくても自由には会えぬ母。

「傍らに置く」といった父は、公務で多忙。

 父のかわりに傍にいるのは傅役と近習――幼児にとってはあまりにさびしすぎる環境ではないか。



「なるほど……ゆえに、おぬしは気に入られたか」


 義憤にかられ、顔を上気させる少年に、山川は好意的な視線を投げかけた。


「若のお気持ちがようわかっておる」


「いえ、さようなことは。ただ年も比較的近うございますれば、いささか通ずるところがあるものと」


「そうか、おぬしも母御から離れ、出仕しておるのだったな?」


 あわれむような、いたわるような口ぶりに、大野はひどく狼狽した。


「な、なにをおおせに……そ、それがしは、母と離れてさびしいなどとは一度も――」


「わかっておる、わかっておる」


 わけ知り顔でいなす老人。


「おぬしの年では、まだ元服を済ませておらぬ者もすくなくない。

 しかるに、おぬしは十四、五にして親許を離れ、知る者もなき江戸での初出仕。

 若のお心を忖度できるのも、同じ想いを抱いていればこそ」


「ち、ちがいま――」


 必死で弁解をしようとした矢先、戸の奥に人の気配がわいた。


 金之助が中に入ってから四半時ほど。

 母との対面も、無事終わったのだろう。


 老若ふたりの武士が見守る中、奥との封境がゆっくりと引き開けられた。

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