9.エピローグ
本当の気持ち
「……うっ……」
意識を取り戻し薄っすらと瞼を開けたカレンの眼に、今まで見た事のない光景が飛び込んできた。
未だ霞む視界に映る景色は、彼女が初めて見るベッドから見える天蓋であった。
カレンの記憶では、つい先ほどまで魔神と化したアムルと死闘を繰り広げていた筈である。
だが意識を無くし、次に気付いた場所がベッドの上だと言う事実が示唆する事は一つしかない。
「……そっか―――……。あたし……負けちゃったんだな―――……」
ハッキリと自身が負けたシーンを思い出した訳ではないが、彼女はそう呟いて妙に得心して小さく微笑んだ。
そこには不思議と怒りや悔しさ、悲しみや恨みは湧いてこなかった。
彼女自身あの戦いでは全力を以て挑んだ結果であり、その事にそう言った負の感情が湧く余地など無かったのだ。
それに、彼女に対したアムルもまた、一切の手を抜かずに応じてくれていたのが彼女にも分かっていた。
その事もまた、彼女の中に
「それにしてもあいつ……。本当に容赦ないんだから……」
呟きカレンは、アムルに痛打を食らった右頬にそっと触れた。
すでにその場所には痣はおろか、僅かな傷みすらも残っていない。
間違いなく回復魔法によって治療が施されており、全身の何処に神経を向けても痛みや疲労は一切残っていなかったのだ。
触れた指先にぬくもりを感じた頬が僅かに熱を帯び、カレンはそれがなんだか嬉しくなったのか、再びクスクスと小さく声を出して笑った。
「あ―――っ! お姉ちゃん、おめめ覚ましたの―――っ!?」
突如ベッドの脇から大きな声が響き渡り、彼女の鼓膜を激しく刺激した。
余りに突然の事であり、カレンは横になりながらベッドで飛び跳ねると言う技を身に付けた程であった。
慌ててカレンが声の方に目を遣るも、そこにはやはり人の影は存在しなかった。
彼女は一瞬そう思ったのだが。
しかしよく見ていると、ベッドの影から時折ピョコピョコと跳ねる黒髪が見えたのだった。
その黒髪はベッドの縁を消えたり現れたりを繰り返し、何かの準備を行っている様であった。
「うんしょ……うんしょ……」
何事かを一生懸命に行っていたその物体は、完全にカレンの視界から消え失せて静かになった。
どうなったのか気になったカレンは、その動向に注視していたのだが。
「きゃっ……」
次の瞬間、カレンの視界一杯に満面の笑みを浮かべた女の子が飛び出して来た。
ピョコピョコと見えていた黒い髪は、この女の子が結わえていたツインテールだったのだ。
驚くカレンを気にした様子もなく女の子はニコニコと満面の笑みを浮かべて、爛々とした瞳を湛えて彼女を見つめていた。
「お姉ちゃんっ! だいじょぉぶですか―――っ!? どこか痛い所はありませんか―――!?」
まるで予め決められていた、少女が一生懸命に覚えた台詞を言うように、棒読みながら心の籠った言葉がカレンへと向けて投げ掛けられた。
だがその仕草が余りにも可愛らしく、カレンは知らず笑みを浮かべていた。
「……うん、大丈夫よ、ありがとね。……ところであなたは……」
誰なのかと尋ねようとしたカレンだったが、彼女がその言葉を言い切る前に少女はまたしてもカレンの視界から消えた。
子供特有の予測不能な行動に言葉を無くしたカレンだが、少女はそんな事を気にした様子もなくベッドから飛び降りてパタパタと扉の方へと駆けて行った。
自分の身長よりも高い位置にある把手に飛びつき何とか扉を開く事に成功した少女は、再びカレンの方へと振り返り満面の笑みを浮かべた。
「パパとママを呼んで来る―――っ! お姉ちゃん、待っててね―――っ!」
そして体いっぱいを使って手を振ると、パタパタと扉の向う側へと消えて行った。
微笑ましい少女の行動に笑みを浮かべて手を振っていたカレンは、少女が去り際に残した言葉が引っ掛かり頭に疑問符を浮かべていた。
「パ……パとママ……?」
しかしその疑問は即座に解消する事となった。
カレンは再び扉の向こうから人が近づく気配を感じたからだった。
「うるさくして、お姉ちゃんに迷惑かけなかっただろうな?」
最初に聞こえて来たのはカレンも聞き覚えのある声、アムルだった。
「してないよ―――っ! ちゃんとママに言われた通りにしたんだから―――っ!」
次に聞こえて来た元気いっぱいの声は、先程までここに居た少女のもの。
「そうですよ、あなた。アミラはちゃあんと言いつけを守って良い子にしてましたよね―――?」
最後に聞こえて来たのは、初めて聞く女性の声だった。
カレンだとて、世俗を断ち切り人との接触を断って生きて来た訳ではない。
アムルと少女、そして女性の声と「あなた」と言う言葉。
それらが意味する事を分からないと言う事は無かった。
「ようっ! 漸く目が覚めたな、カレンッ!」
カレンにそう声を掛けながら扉から入って来たのは、やはりアムルだった。
そして彼は、先程の少女をその腕に抱いていた。
彼等の後を淑やかな仕草で部屋へと入って来たのは、カレンも初めて見る美しい女性であった。
美しく長い髪を後ろ手に結い背中へと流している。
だがそれでも太腿の辺りまで達するその髪は、解けば恐らく床にまで達する長さだろう。
切れ長な眼は本来ならば鋭さを感じる程であるが、彼女の湛える瞳の柔らかさがそんな印象など一切感じさせるものではなかった。
カレンが横たわるベッドの脇にまで進んできたアムル達を迎える様に、彼女もベッドに上半身を起こして腰掛けた。
「回復魔法が隅々にまで効いている事は確認済みだが……どこか痛い所はないか?」
アムルにそう声を掛けられて、カレンは慌てて全身を確認した。
先程も意識を張り巡らせて確認済みだったが、改めて言われれば再確認してしまうのはどうにも人の性と言うものだろう。
しかしこの時、カレンは漸く重大な事に気付いた。
自身が今まで、掛けられたシーツを除いて一糸纏わぬ姿で横たわっていたと言う事実に……だ。
「……な……な……なんで……」
顔が紅潮し声を震わせるカレンに、アムルが真剣な視線を彼女の全身に張り巡らせた。
「なんだ? どこか具合が悪かったか?」
彼にしてみれば真剣にカレンの身を案じた行動であったが、今の彼女に冷静な状況判断が出来る訳もない。
「み……み……見るな―――っ!」
カレンは腰元にあった枕を掴み、力一杯アムルへと投げつけた。
一直線に飛んだ羽毛入り枕は狙い違わずアムルの顔面に直撃した。
それを見た少女は、アムルを見て無邪気な笑い声をあげている。
「それだけ元気なら、どこも悪い所は無さそうだな」
上質の羽毛入り枕ではアムルにダメージを与える事など出来ず、アムルは気にした様子もなくそう呟いた。
状況を察した美麗な女性は、近くに用意されていたローブを手に取りそっとカレンへ手渡した。
そそくさとローブを身に付けたカレンは一心地着いたのか、未だ顔を赤く染めているものの漸くアムルと正対する事が出来たのだった。
「紹介しておくよ。こいつは俺の妻でレギーナ」
アムルに紹介を受けた女性はカレンの前へと改めて進み出て、優雅な仕草で腰を折り一礼した。
「アムルの妻、レギーナと申します。今後とも宜しくお願いいたします」
美しく慎ましやかで温厚そうな性格のレギーナから挨拶を受けて、カレンはどこかぎこちない笑顔を作りながら自己紹介を返した。
同じ女性として色々と思う所があったカレンだったが、アムルがその事に気付いた様子はなかった。
「なんだよ? 俺に家族がいちゃあ可笑しいか? こいつはアミラ、今年で三歳になる俺の娘だ」
アムルが抱いていた少女を下ろしソッと背中を押して促すと、少女は何かを一生懸命考えながら大きな声を上げた。
「え……え―――っと! ア……アミラですっ! 三歳ですっ!」
恐らくはレギーナに一生懸命話す事を教わっていたのだろう、その物言いはまたしてもぎこちなく棒読みである。
だが見るからに一生懸命なその姿は、周囲の者を不思議と笑顔に変えるものだった。
「……カレンよ。宜しくね、アミラちゃん」
改まってカレンにそう紹介を返されて、アミラは顔を真っ赤にして照れだしアムルの足にしがみ付いてその顔を隠してしまった。
「あと、こいつの弟に2歳のケビンがいるんだが、今はお昼寝中でな。また目が覚めたら会ってやってくれ」
一連の微笑ましい行為に周囲は和やかな雰囲気に満たされていたのだが、カレンの心は更に翳りを見せていたのだった。
幸せそうな家族の姿をアムルに見せられて、カレンはハッキリと気付いてしまったのだ。
―――自分がアムルに好意を抱いていた事を……。
本当に短い時間でしかなかったが、死線と呼べる戦いを共に潜り抜けて来たのだ。
決して一時的な感情でも気の迷いでもなく、カレンはアムルを頼りになる存在だと認めていたのだった。
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