理由
窓際まで歩み寄った魔王は、昨夜のその瞬間を思い出していた。
彼女の手から放たれたボール……。
綺麗に弧を描き、そのボールは彼の頭の上を越えて行く……。
彼は慌ててジャンプしたのだが、その手がボールに触れる事は無く……。
そのボールは狙いすましたかのように、開け放たれた窓の外へと飛び出して行ったのだった……。
今魔王の脳裏に
それを思うと彼は、胸が締め付けられる思いに駆られるのだ。
だからこそ、彼は一刻も早くその原因を取り除こうと考えて早朝にここへとやって来たのだ。
公務に私情を持ち込む事は、彼の矜持が許さない。
しかし今のような気持ちを抱いたままでは、その公務さえままならないのだ。
だが、その原因となる物が彼の眼前に見えている。
魔王は静かに、そしてゆっくりと窓を開けた。
逸る気持ちを抑えつけて慎重に窓を開けたのは、ボールが引っ掛かっている枝は非常に細く頼りなく、少しの振動でもすぐに落ちてしまいそうだったからだ。
それでも、ノンビリもしていられない。
それ程に不安定な状態ならば、僅かな風でもやはり奈落の底へと落下してしまう事は想像に難くない。
「……ゴク」
静かに……しかし、可能な限り素早く。
思わず喉を鳴らしてしまう程に、魔王は「魔王」に就任してより初めてと言って良い、かつてない程の緊張感を持って行動していたのだった。
平和の続く魔界では、緊迫した状況と言う方が珍しい。
各部族間の諍いが争いの火種としては最も近いと言って良いが、それさえも大概が魔王の仲介の元に話し合いで解決する。
平穏が続いていると言って良い魔界では、余程の事でもない限り切迫した状況など起こらないのだ。
幸い、事態が急変する様な振動を起こす事もなく、枝を震わせるような風も今は吹いていない。
僅かに安堵した魔王であったのだが。
「な……なんだと……!?」
改めて発覚した事実に、彼は目を見開き歯噛みしていた。
彼を驚愕せしめた事実、それは。
微妙に手を伸ばした程度では、ボールに届かない……と言う事であった。
多少身を乗り出しても、僅かに届くか……届かないかと言う距離。
魔王の脳裏には「これ、いけるんじゃね?」と言う甘い考えが顔をもたげるも。
「い……いや、ダメだ。これは罠……罠なんだ」
安易な行動を取ろうとする思考を叱咤し、彼は再び気持ちを落ち着かせる事に力を使った。
魔王は落ち着いて、窓から身を乗り出して手を伸ばしている自分を想像してみる。
不安定な足場……。心許ない握り手……。安定しない態勢……。
それらを何とか絶妙のバランスでコントロールし、彼は無事目的を達した。めでたしめでたし。
そこまで考えて、魔王は大きく
人はだれしも、自分に都合の良い想像……空想……妄想に囚われがちだ。
勿論それは、前を向く為に必要な考え方であり、健全と言っても良い。
しかし残念ながら、何事も考えている通りに物事が運ぶ……などと言う都合の良い事ばかりではない。
それどころか、往々にして上手くいかない事の方が多いくらいだと言って良いだろう。
人生経験を糧にすると言う事は、何事にもメリットとデメリットを秤にかけて冷静に対処出来ると言う事でもあるのだ。
人生を進むに際してやや面白みに欠けるかも知れないが、目の前のただ楽しい……成功している事ばかりに目がいって、より大きな失敗に供えないのは愚者のする事でもある。
ましてや、彼は魔王であり多くの者達に責任がある。
小さな失敗で多くの人民が害を被ったり、悪くすれば命を落としその後の生活に影響を受けるのだ。
だから彼の判断は、強ち考えすぎだと言うだけではない。
「ギリギリ……か? ……いや……」
魔王は出来る限り客観的な視点で、目的と窓枠の距離を目測した。
それも、可能な限り早く結論付ける事を心掛けて。
こうやって考えている間も、時は流れ気候は変わり、風が枝葉を揺らすかもしれないのだ。
逸る気持ちは、彼に安直な手段を採らせようと囁きかける。
だが魔王は、その強靭な精神で何とか勢いに呑まれようとする心を維持し続けた。
彼の結論から言えば、ボールにはギリギリ届きそうではある。
だが、窓枠から可能な限り乗り出して片腕片足だけでその身体を支えなければならない。
ほんの一瞬の気の緩みで、恐らくはボールだけでなく彼自身も落下してしまうだろうと想像出来た。
そして残されたのは、この二択だけだ。
やるか? やめておくか?
結局行き着く所はこの選択なのだが、これはただの二択ではない。
確りと現状を把握したうえで、十分に可能性も考慮した選択なのだから。
「……よし! やるか!」
そして、魔王の出した答えは……これであった。
彼は窓に足を掛けてその際に立つと、縁をしっかりと握って宙に向かって体を伸ばした。
生命線であるつま先と、窓枠を掴む左手……それぞれの指先に細心の注意を払い決して離さず、それでいて思いっきり伸ばした右手……そして体は可能な限り伸ばす。
その余りにも不安定な体勢で、全身がプルプルと痙攣した様に震えている。
それでもがっちりと固定された片手足のお蔭で、今のところは問題なく目的の物へ向かって接近しつつあった。
―――ボールが近づく。
―――しかし、決して焦ってはいけない。
ほんの僅かな焦燥が、指先を狂わせてボールを落としてしまう事になり兼ねないのだ。
だが、先程とは違う理由で魔王には時間が無かった。
その理由とは。
「くっ……! 思った以上に……きつい!」
これである。
今魔王がとっている態勢は、非常に不安定な状態を力尽くで維持しているに他ならない。
距離的には彼の考え通り届きそうではある。
実際、あとほんの僅かで「捕球」が可能なのだから。
ただし、そこに掛かる想像以上の負荷と、それを支える左手足の負担は想像を絶していたのだ。
ことこの事に関しては、彼の目算は甘かったと言わざるを得ない。
「だ……だがっ! これでっ!」
それでも彼の集中力は切れる事無く、ゆっくりと包み込む様にボールを掴みにかかった。
物事はどの様な事でもそうなのだが、成功しそうなその瞬間に何よりも危険な落とし穴が待っていたりする。
当然、魔王もその事は重々承知していた。
だから今の彼に、精神的な油断は無い。
目的を達して初めて
掴むその直前まで、彼の指はボールに触れる事無く。
その周囲を手が完全に覆った時、彼は満を持して一瞬でボールを握り込んだ。
小枝に引っ掛かった状態だったボールは僅かに振れる事も無く、見事に魔王の手の中に納まったのだった。
「やったっ!」
魔王は思わず、ニヤリと勝利の笑みを浮かべてそう叫んでいた。
ここまでは間違いなく、彼の計算通りだ。
勿論、予想以上に体力と筋力を消耗したが、それもほんの僅かな間だけである。
この様に僅かな時間であれば、魔王たる彼には問題など有り得ない。
―――ただ……問題があったとすれば。
「よしっ! 後は……って、どわっ!?」
ほんの……一瞬……刹那……。
それを油断と呼べるだろうか。
目的を達成した喜びに気分が高揚するなど、どの様な人物であっても自制出来るような事ではない。
それでも魔王は、それを最小限に抑えてみせたのだ。
これは評価に値する、正しく見事な精神力と言って良い筈である。
それでも、現在の態勢が……悪かった。
僅か片手片腕だけで窓の外へと身を乗り出している状況……。
しかも現在は、それぞれの指だけで全てを支えている様な状態だったのだ。
これでは、ほんの僅かに力を緩めただけで……こうなる。
「うわわわわあああぁぁぁ―――っ!」
一度バランスを崩してしまえば、身体の殆どが宙に乗り出していたのだ。
魔王が真っ逆さまに落ちていくなど、そんな事は火を見るより明らかであった。
そして事実、彼は魔王城中庭へと向けて急降下していたのだった。
こうして、不幸な事故は起こったのだった……。
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