喰らわれた男

十森克彦

第1話

 長い間、男は真っ暗な箱の中で、じっと待っていた。その昔、男は弥助と呼ばれていた。しかし、その頃のことはもうおぼろげな記憶しか残っていない。いや、残っていないのは記憶ばかりではない。弥助の肉体は存在しておらず、代わりに古ぼけた和紙を麻ひもで綴じた一冊の草紙の中で、あたかもよどんだ沼地に半身を浮かべるようにかすかな意識だけが漂っていた。


「喰らいたい、喰らいたい」

 その草紙自身から、邪悪な意思が弥助の中に流れ込んできていて、その欲望は弥助のものなのか草紙のものなのかすら、判然としなくなっている。しかし、草紙自体を厳重に縛ってある色鮮やかな組紐が何かの力を帯びているのか、それらの邪念は一切外部に漏れ出ない。おまけに、収納されている文箱は桐か何かでしっかり作られて、漆を丁寧にかけられてあるため、長い時が経つというのに穴一つなく、光すら入っては来ない。弥助の中に流れ込んでくるその邪悪な意識の記憶によれば、草紙は次々と人を喰らってきたが、弥助が喰らわれたのを最後に封印を施され、人目のつかぬところに仕舞われたようだった。一人が喰らわれれば、前に喰らわれた者は解放される。しかしこの状態では草紙が次の誰かを喰らうことはなく、弥助は自分がこのまま闇に溶けていくのかそれとも永劫にこのままの状態で縛り付けられているのか、いずれにせよ、外に出ることはずいぶん昔に忘れてしまっていた。


 長い時を経て、久しぶりに、鍵の外れる音がして、外の空気が流れ込んできた。

「こんなところにお宝なんかあるわけないじゃないか。中身ごとそのまま処分すりゃいいのに、まったく」

 不機嫌な声が入ってきて、並べられている箱を開けて回っている様子がうかがえる。しばらくあちこちごそごそと探った後、弥助のいる辺りに声が飛んできた。

「おいおい、いいのかよ」

 声は明らかにひるんでいる。そうだ、そのまま、触れてはならないものには近づかぬがいい。弥助はそう考えながら、もう一方で

「来い、来い。この箱の、ふたを開けよ。この戒めを解け」

 という声の沸き起こるのを聞いていた。それは自分をここに縛めている呪われた草紙の声であり、同時に、そこにからめとられようとしている自分自身の闇の部分の声でもあった。

「なんだろう」

 果たして声の主は近寄ってきて、文箱が持ち上げられたことが分かった。何十年ぶりかの光が草紙を照らす。

「これはちょっと古そうで、それっぽいな。ようやく、お宝発見、だったらいいけど」

 そう言いながら、声の主は、ゆっくりと組紐を解いた。

「ほう、これはちょっと面白そうじゃないか。内容によっては古書でいい値がつくかもな」

 呑気な声が間の抜けたことを言っている。その間にも草紙が、その男の人生の物語を喰らい始めたのが分かった。

「……しんちゃん……」

 草紙が喰らったものが弥助の中にも流れ込んできた。半ば干からびるくらいに渇ききった喉に冷水が流し込まれたように、それは震えるような快感を弥助にも与えた。この男はしんちゃん、と呼ばれているのか。それは男が生まれた頃の物語であり、母に抱かれ、無心に乳房にしゃぶりついている、安らかな場面だった。弥助は、遠い昔に自らにもあったはずの、暖かく満たされていた頃に重ねてみようとしたが、自身のそうした始まりの物語が思い浮かぶことはなかった。

「……なんだ、白紙か。大層に仕舞ってあるから何かと思ったけど、要するにただのノートじゃないか。くそ、期待して損した」

 声の主は何も書かれていない頁を見てがっかりしたのか、仕舞いもせずに文箱ごと放り投げ、そのまま荒々しく戸を開けて、外に出たようだ。再び施錠をする音が聞こえた。しかし、ひとたび解き放たれ、喰らいつき始めた草紙は止まらない。


 ほどなく、再び扉が開かれて別の人間が入って来た。どうやら先の「しんちゃん」の母親らしい。その無意識に働きかけた草紙は、他の荷に紛れて自らをもとの形に仕舞わせ、手にとらせて母屋の方に持って行かせた。


 一週間ほど後、「しんちゃん」は再び文箱を手に取り、草紙を開いた。草紙はその間に、男の約一年分の人生を喰らっていた。すでに喰らいついていたので、手放そうが組紐で再び封を施そうが、効果はない。しかし、本人が実際に手に取って頁を開くと、加速度が増すようだった。

 「しんちゃん」は「晋也」という名ですくすくと成長していったという物語が、晋也が小学校に入り、友達を作り、学び、遊び、いたずらをし、といった活き活きとした姿が、草紙全体にじわじわと染み渡っていきつつある。そして、吸収しきったところから順に、白紙であった頁に少しずつ文字として浮かび上がって来た。晋也の周りにいる人々の人生の、晋也と関わった部分も一緒に、である。そしてその人生の全体を喰らい終わった時、晋也自身の存在は、周囲の人間の記憶と共に、消滅することになる。こんな風にして、かつて自分の人生も喰らわれていったのかということが、漸く弥助にも分かって来た。しかも、喰らっている側の一部となって。


「喰らいたい、喰らいたい。もっと喰らいたい」

 声は絶え間なく聞こえ続け、草紙は晋也という男の人生をじわりじわりと喰らい続けていた。そしてそれらは、文字となって浮かび上がり、物語となって頁を埋め尽くしつつあった。


 冬が来て、春が終わった頃、晋也が駆け寄ってきて、文箱を荒々しく持ち上げるのが分かった。箱は放り出され、組紐は、ほどかずにはさみで切られた。

既に草紙は、晋也の実年齢を通り越して、未来の人生まで喰らってしまっている。弥助はもはや、そのことについて何の罪悪感も何の感慨も持たなかった。長い間の飢えが漸く満たされつつある中、弥助にはもはや、そこに自分の意識が残っているのかどうかも判然としなくなっていた。

 晋也の最後の声、現実には発せられることのなかった叫び声が明瞭に、弥助の間近で聞こえた。ついに人生を喰らいつくされた晋也は、現実の世界から姿を消し、草紙の中に虜囚として身をやつすことになったようだった。弥助は入れ替わりに、自分が完全に消滅していくのを感じた。


 なんだここは。晋也は束の間、戸惑ったが、すぐにそこが、これまで自分のいた世界とは異なる場所であることを悟った。自分の足元だったはずの畳の上に、古びた草紙が落ちる渇いた音を、確かに聞いた。そして自分はその草紙の中にいるのだということが何故だかはっきりと、理解できた。意識だけになった晋也の中に、別の声が響いてくる。それは自分が手にしていたはずの、草紙のものだった。

「喰らいたい、喰らいたい」

 その声の意味するところも、やはり理解できた。草紙自体の記憶だろう。取り込まれることで一体となった晋也にとって、その記憶は自身のもののように、明瞭だった。人の人生を、喰らう。そして喰らった者を、閉じ込める。なんと忌まわしい存在なのだろうか。

 次に晋也が考えたのは、自分がここから解放されるときのことだ。前にいた弥助は長く封印されていたが、自分がその封印を解いてしまった。今、草紙が置かれているのは。そこまで思い至ったとき、晋也は戦慄した。自分の家族の誰かが、ほぼ間違いなく、草紙を手に取るだろう。せめて自分以外のものが犠牲になることだけは防がなければ。しかし、指一本動かせない。正確に言えば、存在しない。

「喰らいたい、喰らいたい」

 不吉な声は絶え間なく、聞こえてくる。ともすればその声に呑み込まれてしまいそうな恐怖に抗っているうちに、みしっという、畳を踏む足音が聞こえた。

「何か物音がしたような。誰かいるのかな。かあさん、いるのかい」

 弟の健司の声だ。近寄ってくる。

「なんだよ全く、こんなところに放り出して。ああ、これはじいちゃんの納屋にあったやつかな。誰が持って来たんだっけ。まあいいけど、何が書いてあるんだ」

 健司が草紙を持ち上げる。だめだ、頁を開いちゃだめだ。晋也は必死に叫んだが声にならない。

 

 健司が、頁を開いた。

「なんだ、何も書いてないのか。昔のノートってことだな」

 呑気な声が、間抜けなことを言っている。草紙が健司に喰らいつくのが分かった。やめろ、やめてくれ。しかし止まらない。晋也にはなすすべがない。

ほどなく、健司の人生が流れ込んでくるのが分かった。それは、これまで体験したことのないほどの、快感だった。

「やめろ、やめてくれ」

晋也は叫ぶ。しかし別の声が

「喰らいたい、喰らいたい。もっと喰らいたい」

 と呻き続けている。

「やめてくれ」

「喰らいたい」

「だめだ、喰らわないでくれ」

 晋也は叫びながら、その恐怖に反して、自らが言い知れない悦びにとらえられていくのを感じた。

「や、やめ……喰らわな……喰ら……いたい」

「喰らいたい、もっと、喰らいたい」

 おぞましさにすでに存在しないはずの全身を震わせながら、健司の人生を喰らっているのが草紙の意思なのか、それとも自分の意思なのかが、徐々に分からなくなっていった。

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