スマホをしまって

十森克彦

第1話

「たまには公園で散歩っていうのもいいじゃないか」

 せっかくの日曜なのに、ケンジもヨウスケもそれぞれに用事があるということだったので、サトシは一人で公園に来ていた。けれども仕方なく、というのは切ない気がしたので、前からこうして過ごしてみたいと思ってたところさ、と自分を納得させるようにして歩いていた。

 さとしの手には5.5インチのスマートフォンがあり、耳にはワイヤレスのヘッドホンがつけてある。画面には目の前の風景が映し出されているが、汚れたところなどは補正がかかっており、また、好きなキャラクターを散りばめることができる機能もある。ギリシャ神話が好きなサトシの画面には、公園のそこかしこに神々や妖精たちが飛び交っていた。

 歩きスマホは危険、という警告が、サトシの幼い頃にはまだあったらしい。けれども、AIを組み込んだ端末が、カメラでとらえた風景に人や物がぶつからないよう誘導する機能が備わってからは、そうした警告も過去のものとなっていた。嫌なものは見る必要も聴く必要も、ない。サトシたちは、画面の中で補正された理想郷としてしか、景色を見ることがなくなっていた。

 目の前を、光る妖精が透き通った羽を優雅に動かしながら通り過ぎていった。恐らく、小鳥か虫が飛んだのだろうけれども、サトシのスマホの中ではそういう形に補正されて映し出されている。

「今日はいつになく妖精たちがたくさん飛んでいるな」

 サトシはそれらの姿を見ながら独り言を口にした。周りに他人の姿は見当たらなかったし、いたとしても皆、サトシと同じようにスマホからのBGM以外は聴いていないのだから、少しも恥ずかしさを感じることはない。

「ケンジたちがいなくっても大して変わらないな」

 とサトシはやはり遠慮なく大きな声で言った。実際、友人たちと一緒にいてもスマホの画面しか見ていないし、スマホからの声しか聴いていない。互いの会話もSNSアプリを介しているので、一緒にいてもいなくても同じことだった。話したくなったら、ここから呼び出せばいいだけだ。

 そうして一人で歩きながら、サトシはふと、前の方から人影が近づいてくるのを発見した。通路に沿って設置されている手すりを持って歩いてくる姿を、サトシのスマホが映し出している。どうやら、少女のようだった。

「こんにちは」

 サトシは、スマホを通して話しかけてみた。互いのIDを知らなくても、通りすがりの人のスマホに一言メッセージを送ることができる、あいさつアプリと呼ばれるものも当たり前になっている。その気になればお互いに登録し合えば通信を続けることができるし、そうでなければその場のあいさつだけで、離れてしまえば接続は途切れてしまう仕組みになっている。

「……」

 けれども、前から近づいてくる少女からの返信はなかった。それどころか、スマホを見ている様子すらない。そういえば、

手にもそれらしきものを持っていなさそうだった。

 通りすがりにあいさつを送っても無視されることは別に珍しくはない。サトシ自身も、その気にならなければあいさつを送られても無視したまま通り過ぎることもしばしばある。

 けれども、何故だかその時だけは、あいさつが返してもらえなかったことがひどく気になった。そのまますれ違って歩き去っていく少女の方を振り返って、後姿を見送っていた。

 少女はサトシが歩いてきたのとは別の方向に歩いて行ったが、サトシのスマホ画面にはその先に、地獄の番犬ケルベロスが、恐ろし気な様子で立っているのが映っていた。それは、何らかの危険があることを知らせる画像だった。けれども、少女は気づかないのかそのまま歩を進める。

 ケルベロスの足元あたりにたどり着いたとき、少女はふいに転倒し、サトシにも、ヘッドホンからではない悲鳴が届いた。

「どうしたの」

 思わず駆け寄ると、どうやら古くなって床の一部が朽ちてしまっている小さな橋があり、少女はその板を踏み抜いて転倒してしまったようだ。

「大丈夫かい」

 手を差し出して、引っ張り上げると、少女は自分の左側に立っているサトシの方は見ずに、そのままの姿勢で、

「ありがとう、ちょっと驚いたけど、大丈夫よ」

 と答えた。あいさつアプリを無視された上、せっかく助けたのに自分の顔も見ないで礼を言う態度に少しむっとしたサトシは、

「橋の床板が腐ってたみたいだね」

 と少々ぶっきらぼうに言った。すると少女は驚いたように、サトシの方に向き直り、

「そこにいたのね、ごめんなさい。私、見えないので」

 と心から申し訳なさそうに告げた。今度はサトシが驚く番だった。見えない。だから、スマホも見ずに歩いていたのか。だから、実際に崩れかかっている橋も見えなかったのか。余計なことを言っちゃったな。気まずい気持ちになりながら、動揺もしていたからだろうか、次の言葉もあまり吟味せずに発してしまっていた。

「あの、見えないのにどうしてわざわざ公園なんて歩いていたの。町の中なら、安全に歩ける場所もいくらでもあるだろうに」

 ぶしつけなことを聞いてしまったという自覚はあったが、口に出てしまったものは仕方ない。気を悪くされるかな、と思いながら応答を待った。少女は少しだけ笑って、

「見えなくても、公園の中で感じられることはたくさんあるわ。小鳥や虫の鳴く声でしょ、吹き抜ける涼しい風、それにその風が木々を動かして、葉が鳴る音。むしろ見えていない方がよく感じられたりもするのよ。見える人も、そんなときには目を閉じてみたりするでしょう」

 と答えた。

 ふうん、そんなものなのかなあ。サトシには全てが理解できたという訳ではないが、確かに目を閉じてみたりすることは自分にもあるかなあ、と思ったので、話題を変えて、

「まあ、とにかく、この橋は渡らない方がいいね。ところで、どこに行こうと思ってたの」

 と尋ねた。すると少女は

「あなたは、お散歩をしている時にどこかに行こうと決めているの」

 と問い返した。サトシと年齢はそう変わらないと思うのだが、なんとなく、お姉さんのように思えてきた。手助けをしてあげたはずのサトシだが、あきらかに会話のイニシアチブは少女の側にあった。

「確かに僕も、行き先を決めて歩いているわけじゃないけど。この公園には、よく来るの」

 立ち去るきっかけを失ったからか、どこかでそれを望んでいるのか。少女との会話の続く中でサトシは、悲鳴を聴いて駆け寄ってきてから、自分がスマホを介さずに言葉を交わし、スマホを介さずに少女を見ているということに、気づいた。

 考えてみれば、直接相手の顔を見て話すのは、どれくらいぶりのことだろうか。少女の目はサトシの方を向いているけれど、サトシ自身に焦点は合っておらず、見えないという少女の状況を表していた。しかし、形の良い二重の奥にあるまなざしには、サトシが見えているものよりも、もっと色々なものが見えているのではないかと思われた。

「あの、よければ少し、一緒に歩いてもいいかな」

 あいさつアプリではなく、SNSでもなく、直接自分の口で、サトシは少女に語りかけた。素直に応じてくれた少女にむしろ若干の戸惑いと気後れを感じながらも、サトシは少し小高い丘になっている公園の散歩コースを一緒に歩いた。スマホは、ポケットにしまった。

 木が生い茂る森を抜けたところで、一気に視界が広がった。

「お日様が、気持ちいいね」

 見えないはずの少女は、サトシが景色を見て感じたのと同じ感想を、口にした。久しぶりに、サトシは自分自身の目で、空を見上げた。5.5インチの枠に区切られていない真っ青に光る空が、視界一杯に広がっている。風の薫りが、鼻をくすぐっていった気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

スマホをしまって 十森克彦 @o-kirom

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る