スキップ

十森克彦

第1話

 子供の頃からこつこつと努力するということが苦手で、たとえば、夏休みの宿題なんかはぎりぎりまで放置しておいて、おしまいの数日間であわてて片づけてしまうタイプだった。

 そんな俺が、裁量労働制の仕事などを選択したのがいけなかった。規則正しく積み上げていくのではなく、気分が乗ったところで集中して、さっさと片づける。理想的な働き方だと思っていた。時間にしばられることもない。

 ただ、その反面、気分が乗ろうが乗るまいが、効率が上がろうが上がるまいが、決められた時間だけ辛抱していたら定時には解放されるということはなく、自分で動き、片づけなければいつまで経っても終わらないということでもあった。仕事は一つ片づければ二つ増えるという具合で、一向に減る気配は見られなかった。

 なかなか先が見えず、睡眠時間すら削られていく中で息苦しさを覚え始めた俺が、誰かが仕事を代わりに片づけてくれないだろうか、と思うようになったのは、自然な成り行きと言っていいだろう。気が付いたら、全部終わっていたらいいのに。そんなことばかり、切望するようになっていった。

 そんなある日、自分のベッドで目覚めると、たまっていたはずの仕事がすっかり片づいてしまっていた。いつの間にできたのか、記憶にない。けれども間違いなく、終わっている。念のために、全部チェックしなおしてみたが、我ながら感心するくらい、完璧にできていた。なんだかよく分からないが、とにかく、終わったんだからいいか。俺は久しぶりに解放感を満喫する休日を味わう事ができた。

 仕事の状況は相変わらずたまる一方だったが、仕事がたまって息苦しさを覚えると、また、目覚めれば片づいていて、その間の記憶だけすっかり抜け落ちているということが度々起こるようになっていた。まるで観ているDVDの一定の場面だけスキップしてしまっているような感じだった。多少薄気味の悪さを感じはしたが、その間の仕事が間違えていたりすることはなく、むしろ完璧な仕上がりだったので、問題だとも感じることはなかった。

 半年ほどが過ぎた頃、顧客からクレームが来た。北海道からだった。俺自身の仕事が原因ということではなく、営業のミスだったのだが、流れからすると、俺が直接出向いて処理をすることが必要だった。北海道といえば食べ物も観光も、いい。行ってみたいと思っていたところだが、あいにく今回はクレーム処理に行くので、やはり気が重い。相手は相当立腹しているとのことだったので、処理そのものも、何日かはかかるだろう。こんなシチュエーションで行かなければならないとは、残念で仕方ない。そう思いながら、出張の準備をして、重い足取りで、新幹線に乗った。

 目覚めると、一週間ほどが経っていた。気が重かったクレーム処理の仕事はすっかり終わって、帰ってきたようだ。例のやつか。驚きはしなかったが、何日分もの記憶が抜けてしまうというのは初めてだったので、少々心配しながら出勤してみた。いいタイミングで会社に電話が入った。北海道の、顧客からだった。

「いやあ、どうもありがとうございました。本当に迅速に対応してくださって、おかげでこちらとしても助かりました。今となってはむしろトラブルがあってくれたことがかえって良かったくらいのもので、ええ、それもこれもみんなあなたのおかげです。本当に感謝しています」

 上機嫌で一方的に告げられた謝辞は、形式だけのものではなく、本当に喜んでいるようだった。どうやら、今回もうまく片づけられたようだ。ほっとしながら、実はその記憶がすっかり抜けているので、こちらの対応について話題に上ったらどうしようかと冷や冷やしたが、一気に謝辞だけを伝えると、仕事の話はあっさり終わった。

「ところで、お酒の方もずいぶんお強いですな。いかがでしたか、毛ガニの方は。お気に召していただけましたか」

 と続けられ、どうやら滞在中に食事に連れていったもらったらしいということを知った。しかも毛ガニを食べたようだ。一度食べてみたいとは思っていたが、まだ口にしたことはない。いや、正確には、口にした記憶が、ない。適当に話を合わせて、電話を切った。仕事だけでなく、その期間にあったことについても、一緒に忘れてしまうらしい。考えてみれば当然だろう。それにしても、酒に毛ガニか。結構いい思いもしたんだな。これはちょっと、もったいないことをした、と少々残念に思った。

 皮肉なことに、このクレーム対応が高評価であったため、俺の仕事はますます増えた。ポストも責任ある立場へとだんだん上がり、それと比例するように、忙しくなるといつの間にか片づいているということも増えた。単に個人が頑張って片づけられるという種類の仕事ではなくなったため、時には数日とか数週間単位で記憶が飛ぶということも頻繁になっていった。しかし、仕事に追われているという感覚がないため、それはそれであまり気にしないことにしていた。ただ、少々変わったことも起こりはじめた。覚えのない服や小物が部屋に増えていくのだ。どうやら誰かといい仲になりつつあるらしい。しかし、忙しい仕事の合間に会っているようで、どうしても彼女と過ごしている時間も一緒に飛んでしまっているようだった。やがて、俺は結婚していた。プロポーズをした覚えもなければ結婚式を挙げた覚えもない。仕事だけでなく、緊張が高まってストレスになると同じ様に記憶が飛んでしまうのだということが、おぼろげながら分かってきた。結婚なんて、人生で最も大切なイベントのひとつなのに、肝心な場面をスキップしてしまうとは。さすがに、不安になった。この先、どうなってしまうんだろう。

 今朝、目が覚めたら、俺は老人になっていた。会社は重役にまでなって引退し、子供も授かり、来月には孫まで生まれることになっていた。公私ともに責任ある立場になり、そのプレッシャーを全てスキップしてしまったようだ。もちろん、プレッシャーと一緒に、幸せなことも全て、消えてしまっていた。結局、俺の人生は何だったのだろう。いや、こんなことを考えていたら、次に目が覚めたときには棺桶の中、なんていうことになりかねない。残された時間はせめて、喜びも苦しみも、大切にしなければ……。

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