アルマナイマ博物誌 愁いを知らぬ鳥のうた

東洋 夏

愁いを知らぬ鳥のうた「遭難」

「遭難した」

 ということを、トゥトゥがやっと認めたのは最後の陸地を離れて五日目。

 セムタム語で「遭難」を何と言うのかアムは知らなかったので、その表現に行きつくまでに五日間かかったと言ってもいい。

 丈高い青年は憮然と腕組みしカヌーの真ん中で仁王立ちしている。

「どうするの」

 アムが尋ねるとトゥトゥの機嫌はいよいよ悪くなり、狭いカヌーの中をどすどすと音を立てて歩き回った。

 これはセムタム族、アルマナイマ星の海を縦横に行き来して暮らす海洋民族にとっては、大変に不名誉なことであることは間違いない。

 初めての海域に舳先を向けたとはいえ、海の真ん中で立ち往生するなどと。

 しかも、

 アムはそれ以上に不用意なことを言わないように、胸元のポケットから小さなノートを取り出して、メモを書きつける作業に没頭することに決めた。

 この航海はアムの<成人の儀>を助ける実地訓練のひとつである。

 言語学者としてアルマナイマ星に赴任したアムは、セムタム族の言葉を学ぶため、そしてフィールドワークの一環として彼らが挑む成人儀礼の試験に挑むことを決めていた。

 彼らは今では大変珍しい、汎銀河系文明にほんの少しも触れていない知性体種族である。

 セムタム族は海の上で生活する人々だ。

 生きるも死ぬもカヌーの上、群島の間を漕ぎ渡って日々の暮らしを紡いでいる。

 大きな特徴の一つに「群れない」というのがあって、彼らは部族や王権といったものを全く持っていない。

 際立った個人主義の文化であり、それを支えるのが知識の均一化――<成人の儀>だ。

 名前とは裏腹に、この儀式の大部分は神秘的な体験ではなく実際的な試験である。

 カヌーの操法、航路の計算法にはじまり、神話の暗唱やら料理のイロハ、習字までもが含まれた一大総合試験。

 それゆえにセムタム族に近づこうとすればまずこの試験について勉強するのが良いとアムは考えたわけである。

 しかし余所者はカヌーと海についてあまりにも無知なので、先生役のトゥトゥはまずアムを長距離航海に連れ出すことにした。

 その間にカヌーの扱いも、海流や風や星の読み方、食料の獲得法から料理の仕方に至るまでひととおり基本が体感できるであろう、というのが彼の考えだったようである。

 で、その航海において、

遭難しちまったブレブレくそったれバハンガ

 というので、トゥトゥは自分自身に大いに腹を立てているのだった。

 この青年は気立ては良いが、怒ると手が付けられない。

 トゥトゥは身長おおよそ2メートル。

 引き締まった総身には日々の労働で鍛えられた筋肉が隙なく盛り上がっており、カヌーの中で癇癪を起されたらたまったものではないとアムは心配していた。

 今しも壺が割れる音が聞こえるのではないか、剣を抜いて手あたり次第に切りつけるのではないか。

 恐る恐る視線を上げて様子を伺うと、トゥトゥの深海色の瞳と目が合った。

「ドクよ」

 想像していたよりもずっと落ち着いた声で、トゥトゥはそうアムを呼ぶ。

 初めにドクター・アムだと自己紹介したので、彼の中でアムの名前はずっと「ドク」である。

 今更訂正する気はないのだけれど。

「手伝ってくれ。試したいことがある」

「どうしたらいい?」

 風はそよとも吹いていないから、帆は役に立たなさそうだ。

 スコール雲は見当たらず、空は青一色。

 釣竿はぴくりとも動かなかったので少し前に引き上げたばかり。

 見渡す限り360度水平線が続いていて、島影も他のセムタム・カヌーの白い帆も無い。

 最後の望みと<天を司る王様>なる神に頼んでみたが、その神頼みも空振りしている。

 戸惑うアムに、トゥトゥは網を手渡した。

 一抱えもある大きな網である。

「これを?」

「まあ待ってなって。その時が来たらわかる」

 トゥトゥは真水壺から一杯掬って喉を潤し、えへんと咳払いした。

 壺の底にコップが当たって音を立てるのをアムはうそ寒い思いで聞き取る。

 飲み水が無くなりつつあるのだ。

 水を飲み終えると、トゥトゥはカヌーの中でステップを踏み始める。

 とんとんとん、とんとんとん、とんとんとん!

 途中からパドルを拾い上げて舷側を叩きだす。

 まるでカヌーとトゥトゥがひとつの楽器になってしまったようだ。

 アムも網を脇に抱えて手拍子を入れる。

 トゥトゥはにっと笑い、そして歌い出した。



 愁いを知らぬ鳥よ

 俺のところへ飛んで来い

 何も怖がることはない

 おおこのちっぽけな、海の幼子セムタムを恐れる必要などあるだろうか?

 何故ならお前は愁いを知らぬのだから



 だいたい、そんな意味の歌詞だった。

 トゥトゥはお世辞にも歌が上手いとは言えなかったが、勢いと声量で堂々とごまかしている。

 カヌーはふたりぶんの音を受けてびりびりと振動し、大きな太鼓のように、あるいはライブ会場のスピーカーのように(宇宙に人類が散り芸術がデジタル化しても、やはり歌は生に限るという意見はまだまだあるのだ)、海の真ん中で震えていた。

 歌が終わる。

「今の――」

 聞くと、しっ、とトゥトゥはたしなめた。

 そして静かに周りを見渡す。

 アムもつられて首を動かした。

 すると、彼方で黒い染みのようなものが空に見える。

 それは徐々に大きくなり、このカヌーを目指して真っすぐに進んでいるようだった。

「よし来た!」

 満面の笑みを浮かべたトゥトゥはパドルを海に差し込み、力いっぱい漕ぎ始める。

「私は漕ぐ?」

「ドクはそのまま。絶対、前を見てろ。よそ見すんなよ」

 褐色の上腕が躍動し、肩甲骨がリズミカルに上がっては下がる。

 トゥトゥの早くも汗ばんでいる背中で、ひとつ結びの黒髪が跳ね踊った。

 その長髪は毛先だけが赤く、彼を溶岩の精のように見せている。



 愁いを知らぬ鳥よ

 俺のところへ飛んで来い



 パドルで波を切り分けながら、トゥトゥは再び歌った。



 何も怖がることはない

 海の幼子セムタムは陸地が知りたいだけ、ちっぽけな休息のため

 何故なら鳥よ、お前の住まいは愁いを知らぬ空の上



 カヌーは空の染みに向かって進んでいく。

 帆走の時に比べれば遅々とした速度だが、目的地を得たらしきトゥトゥはメカニカルな駆動系のように力強く確実にカヌーを前進させている。

 凪いでのっぺりとした濃青色の海に、白い筋が小さな抵抗の証を刻んだ。

 アムは染みを凝視する。

 やがてその全体像が判然とした。

「凄い、あれ全部鳥なのトゥトゥ!」

「そう。セムタムは海の上で鳥を呼ぶ方法を知っている。まあ俺は初めてやったわけだけど」

「初めて?」

「初めての遭難なんだよ。ちくしょうめバハンガ

 何百、いや何千羽もの海鳥が群れを成してカヌーに近づいてくる。

 羽音が太鼓の如く打ち鳴らされ、空が暗くなった。

 鳴きかわす声は巨大な交響曲の響きに似る。

 負けないように大声でトゥトゥが言った。

「だけど、鳥を呼ぶのは本当に困ったときだけにしなきゃならない」

「どうして」

「愛想を尽かされるから。強欲なセムタムは悪いセムタムだ。鳥は贈り物だからな。お、それドク、見てみろよあの先頭のでっかいの」

 アムが目を凝らして観察すると、海鳥の群れは複数種の混合体のようだった。

 先頭に立つのは立派な猛禽であろうか。

 鉤型に曲がった口ばしと太い足は、いかにも獲物を押さえつけるのにうってつけに見える。

「いいかドク。群れが降りてきたらその網を投げるんだ」

「ちょっと待って。私がやるの? そんな重要なことを」

「やる。ひとりで海に出たら誰もやってくれない」

 アムは意を決して前を睨んだ。

 ひょお、と高い声を上げながら猛禽が頭上を旋回する。

 近くで見るとその翼の大きいこと。

 トゥトゥが横になってもまだ余るかもしれない。

 こんな大物が相手とは!

 網をかけるのが早すぎては捕まえられないし、遅すぎても大怪我をするだろうとアムは思った。

 ちょうどいいタイミングなど分からない。

 この汎銀河系の大学生に、網で猛禽を捕まえた者が何人いるというのか?

 ドローンも自動射出機も使わずに素手で?

 しかもこれを逃したら、餓死が近づくときた。

 一、二、三、とアムは旋回の回数を数えている。

 それが九に達したとき、猛禽は静かにくちばしを傾け、翼を畳んだ。

 弾丸のような降下。

 アムは網を投げようとしたが、すんでのところで思いとどまった。

 その時、影が落ちてきたからである。

「あっ、野郎!」

 トゥトゥが悪態を吐いた。

 すべての頭上、雲の上から真っすぐに突っ込んできた影が、猛禽を引っさらう。

 ファルが来たのだ。

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