第49話
そしてやっぱり風邪だった。最初はのどの痛みだった。のどの奥で絡まる痛みがひどくなると咳に変わった。
「今日は、どうする」
「家に戻る。一緒に住むのは一旦やめる」
「そう、送っていくよ」
章は引き止めたりしなかった。車の中、私はひざの上においた団扇の上の蚕を眺めていた。それくらいしかすることがなかった。考えようとしても、頭が動かない。ただ左に右に光沢のある糸を吐き続けるそれをながめるくらいしかできることはなかった。
「その糸、引っ張ったらたくさん出てくるのかな」
運転しながら章は言った。
「切れない限りはでてきた」
「やったの?」
「ずっと見ていたから」
「そう」
年休をとるために学校へ電話をかければあまりの声のひどさに電話にでた山本先生にお大事にと言われ、少しびっくりした。二日間は安静に温かくしておくことという医者からの厳命により、ベッドにいた。
蚕の番をしながら、どうすべきなのか、私は始めて真剣に考えていた。叶わぬのなら死ぬまで流されるままでもいい。そう思っていたのも事実だ。だが彼に会い私の中で何かが少しではあったが確実に変わっていた。昨日の言葉にウソはない。ただそれが兄や由美子のような感情なのかと聞かれると即答できない。それでもこれまでとは違う感情であることは確かで。不意に胸の奥が熱くなり私はベッドに倒れこんだ。
見上げた天井にできた白い染みがみるみる歪み視界はぼやけていった。涙だ、と気づいたときには、後から後からわけもなく流れていた。
「何がしたい」
呟けばずっと前に分かれ始めたもう一つの心が振り向いた気がした。きっと今自分はとてつもなく情けない顔をしているはずだ。覚悟したはずなのに、決めたはずなのにたった一人の人間によって壊されるほど脆いものだったのか。シャムシャムとまだ桑の葉を食む蚕たちの音の中で私は泣き続けた。
夕方、インターホンが鳴って目を覚ました。一、二、三匹目がいない。まさか脱走か。動物とは違うが、踏みつぶしたり、どこにいるのか分からないことに、血の気が引いた。変なとこにいると、動いた瞬間に潰すかもしれない。慎重にベッドの上から下りれば、すぐに見つかった。ベッドの脚の角に繭を作りかけていた。強引にそれをはがし団扇の上に乗せた。
「ゆかり?」
玄関から彼の声がした。
短い廊下を走った。勢いそのまま抱きついた。
「ゆかり?」
押し付けた頬に彼の鼓動が響く。心地よかった。心臓に直接話しかける。
「もう、疲れた」
彼の背中に手を回す。
「うん」
相槌とともに背中をたたく手が温かい。
「もう、やめたい」
「うん」
「カレンダー買う、時計も買う」
「うん」
「でも、謝れない。謝らない」
背中を叩く手が止まった。
「結婚しよう」
章が言った。まっすぐに私を見たその目にあの日の狂気はない。静かに私を見ていた。
何も言わずにいると彼は口を開いた。
「別にこれまでと何も変わらない。ただ籍をいれるだけだ」
「私は章のことが好きだけど章が私を愛してくれるみたいには好きになれないかもしれない」
嘘はつけなかった。
最初だから。最後かもしれないから。
彼は笑った。
「俺にはゆかりが必要だ。俺の自惚れじゃなければ、ゆかりにも多分俺が必要だ。それで十分じゃないか?」
それが彼なりの譲歩なのか、執着なのか私には分からなかった。彼の目からも表情からも何も読み取れなかった。それでも背中を包むなんの下心もないその手の動きが、愛しているを私に伝えた。
「それともわかれたい?」
私は首を横に振った。私には章が必要だった。彼の声が、日常に私の心を縛り付けておいてくれる彼の存在が不可欠だった。だけどそれだけじゃだめなのだ。いや、そうじゃない。彼もまた私の心の中に確たる場所を持っていた。兄とは違うし、誰にも共感されないし、認められないだろうけど。
愛している、がよくわからない。彼とイコールでは繋がれない。
だけど、だけど――。
「サボテンに水やるようにする、ずっと」
プロポーズの返事にしても間抜けすぎるだろうとは思った。だけど私は真剣だった。決意表明だった。
章は一瞬きょとんとしたけれど、すぐに机の上にあるはデートで彼がくれた小さなサボテンの鉢をみると笑った。
「そうしてくれ。せっかくゆかりに買って来たんだからな」
多分、言いたかったことは半分も伝わっていない。それでもよかった。
でこぼこで柔らかな地面に初めて着地できた気がした。
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