第48話

「死んだりしないよ、弱虫だもの。ただ音を聞いてただけ」

「音?」

「水の音。こうやっているとなんだか落ち着く」

「そうか」


彼はそのまま立っていた。私も目を閉じたまましばらくそうしていた。


「章」

「うん?」

「寒くない?」

「そんなことしていたら寒いに決まっているだろう」

「私じゃないよ。気温差のある方が寒く感じるんだから。上がっていれば」


大きなため息は長かった。今まで聞いた中で一番温かい息の音だった。

いきなり川から引き上げられれば体が震えた。


「寒いな」


二人で川につかった。川べりに背を預け二人並んだ。川の水はマッサージ機能のある銭湯かと思った。


「俺には、分からない」

「うん」

「分かりたいとも思わない」

「うん」

「それでも、ゆかりが好きだ」

「うん」

「どうしたら、いいんだ。教えてくれ」


彼は私の肩に顔をうずめた。口の中に水が入ったのか、語尾が震えていた。

絞り出された声に頷く。不思議と答えは知っていた。


「あのね、今日蚕が繭を作り始めたの」

「ゆかり」

「さっそく団扇用意して乗せるのに、脱走するのよ。桑食べている時は蓋開けていたって逃げなかったくせに、この段になって活発になるってのはないと思うのよ」

「……ゆかり?」

「しかも糸は千五百メートルも吐いて二、三日も吐き続けるのよ」

「ゆかり!」

「だから、一緒に番をして」


川の中、彼の手を探した。何度も繋いで、何度も離して、何度も迷った手だった。


「今日、一番に伝えたいと思ったのは章だった」

「ゆかり」

「ずっと待たせてごめん。私はちゃんと章が好き」


彼の肩から力が抜け、そっと手を握られた。


「本当に?」

「本当に」


頷けば強く手を絡められた。振り払ったりしないのに。

向こう岸はかなり浅瀬になっていた。渡ってみればそうたいした川でもなかった。早く帰ろう。風邪をひく。深夜の川は夏でもやめておこう。骨身に染みた。二人で笑った。


目を開ければ、腕枕をした章が目を閉じてうつらうつらしていた。昨日は二人とも濡れていた。風呂に入り、黙って蚕が糸を吐くのを眺めていた。竹と竹の間に繊細に張られる糸は、なめらかだった。同じ場所で作り続ける蚕を時々移動させた。


「おはよう」

「おはよう」


寝ぼけながら笑う章に、不意に悲しくもないのに涙が溢れ出した。章は止まった。


「どうした?」

「おかしいの。悲しくないはずなのに涙が止まらない」


一度堰を切ると涙は止まらなかった。後から後から涙は流れた。どうして泣いているのか分からなかった。泣くために泣いているわけでもない。ただ壊れた心が全ての感情を、感じたままにさらけ出すかのように私は泣き続けた。声はなかった。ただ涙だけが流れ続けた。泣くことに抵抗する羞恥心も、隠そうと思う心もなかった。どれだけ泣き続けていたのか、だんだんまぶたが痛くなって同時に強烈な睡魔が襲ってきた。泣きつかれて眠るなんてがきと一緒だと思ったがそんなことに構っていられるほど余裕はなかった。


「知っているから、大丈夫だ」


頭をなでると章はベッドから抜け出していった。戻ってきた章は体温計を差し出してきた。


「大丈夫」

「あんなことをして大丈夫なわけがないだろう」


問答無用だった。

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